2015年11月17日火曜日

夏井川渓谷の戦争遺産

 土曜日(11月14日)の朝日新聞別刷り・赤be<みちものがたり>は、佐賀県の「唐津街道」だった。太平洋戦争末期、航空機の燃料にするため、松の木から松脂(まつやに)を採集した。その傷跡が「虹の松原」の木に残る。松原を貫く唐津街道の物語としてそれを取り上げた。
 いわきの夏井川渓谷でも、同時期、松根とは別に住民が松脂を採集した。その傷跡が「ハート形」あるいは「キツネ顔」となって赤松の根元近くに残る。実際に航空機の燃料として使われたかどうかはわからない。が、戦争がもたらした、藁、いや松にもすがる「狂気の沙汰」には違いない。

 岩盤が露出したV字谷には先行植物として赤松が生える。それで赤松が群生している。30年以上前から松枯れが進み、老大木を中心にして立ち枯れる、あるいは暴風雨に根こそぎ倒れる、といったことが続いている。

 夏井川渓谷の小集落・牛小川に隠居がある。週末、そこで過ごし始めた20年前、松枯れがピークを迎えつつあった。それでも、若く元気な松は残った。その松が最近また枯れるようになった。

 唐津街道の「物語」に刺激されて、先の日曜日、隠居の裏山にある「戦争遺産」を見に行った。東日本大震災後に一度、急斜面を上ったことがある。持病が亢進してからは、神社の長い石段や4階建てのアパートの階段を上るとすぐ息が切れる。一歩足を運んでは休み休みしながら、急斜面を尾根へと続く元“小道”に出た。林内は荒れたままで笹が繁茂していた。

 松はあらかた幹の上部が折れたり、根こそぎ倒れたり、立ち枯れたまま樹皮がはがれ落ちたりしている。立ち枯れ松には「ハート形」や「キツネ顔」の傷跡が残っていた=写真。が、「戦争遺産」が消えてなくなるのは時間の問題だろう。今が記録保存をするにしろ、そこだけ切り取って現物保存をするにしろ、ぎりぎり最後の時期ではないかと思いつつ、写真を撮る。

 夏井川渓谷の「戦争遺産」については、16年前にも書いている。平成11(1999)年11月16日付いわき民報「アカヤシオの谷から」(31回目)で、経緯はそちらに詳しい。それを次に掲げる。そのときからさらに状況は深刻になっている。文中に出てくる「モリオ・メグル氏」とは、私のなかの架空の人物だ。
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 天然林の広がる夏井川渓谷にも戦争の傷跡が残っている、と知ったのは3年前(注・平成8年)。牛小川の春の祭礼の席でだった。
 酒が回るにつれて、みんなが少しずつ饒舌(じょうせつ)になる。新参者のモリオ・メグル氏があれこれ聞いているうちに、いつか太平洋戦争のころの話になった。
 集落の周囲の険しい斜面には、ツツジなどの落葉樹に混じって赤松の大木が生えている。
 太平洋戦争末期、集落に割り当てがあって、その赤松の幹の根元近くに傷をつけ、染み出す松脂(まつやに)を竹筒を使ってブリキ缶にためた、というのだ。
 山里ではそのころ、戦闘機の燃料にするため、大人も子供も松の根掘りに駆り出された。物資の欠乏がもたらした窮余の一策だが、そのための施設が牛小川の近くの谷間にも造られた。松の根だけでは足りず、松脂からも油を取り出した、ということなのだろう。
 漆やゴムの木から樹液を採取するのと、原理は同じである。
「今も松の木にハート形の傷があんだよ」
 この言葉が気になって、モリオ・メグル氏は後日、山に入って息をのんだ。見渡す限りの松の木に「ハート形の傷」がついている。モリオ・メグル氏には、それがキツネの顔のように見えた。松の木と合体したキツネたちが、一斉にこちらをにらみつけている。そんな錯覚にとらわれた。
 その戦争の生き証人、赤松が最近、勢いがない。松枯れ被害は最初、アカヤシオが群生する北向きの斜面に見られた。もう十数年前になるだろうか。緑の葉が赤みを増し、やがて枯れ落ちると幹が生色を失って、白茶け始める。その現象が対岸の南向きの山でも進んでいる。ハート形の傷を持った赤松は主に、この日当たりのいい山に林立しているのだ。
 久しぶりにモリオ・メグル氏が山に入ると、既に何本かは倒れ、何本かは白い菌にむしばまれていた。松枯れの原因は、ある人は松食い虫だろうといい、ある人は酸性雨だろうという。いずれにしても、最後は自然界の分解者である菌が始末をつける。戦争の生き証人もそうやって、いつかは姿を消すのだろう。
「松の木にうらまれっぞ、(松脂は)人間の血と同じだぞ」
 当時、地元の老婆はそう言って悲しんだという。人間の便利な暮らしのつけが回りまわって、この赤松の死になったとはいえないか。

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