プロ野球の巨人軍に身長2メートルを超す日本人投手がいた。ある日、ラジオで巨人の試合を聴いていた子どもが、アナウンサーの伝える情報に仰天する。終盤に巨人の投手が交代した。背がとてつもなく高い。文字通りの超大型新人だ。難なく抑えて、以後の活躍に期待がふくらんだ。馬場正平という19歳の少年投手だった――。
資料に当たってわかったが、58年前の昭和32(1957)年秋のことだったらしい。とすると、私は小学3年生。馬場投手、のちのプロレスラー・ジャイアント馬場選手が一軍の試合に登板したのは3回、計7イニングにすぎない。栃内良『馬場さん、忘れません』(枻=えい=出版社、2000年)などによると、2回ははっきりしている。
同32年8月25日(日曜日)、阪神戦で8回裏に登板した。同10月23日(水曜日)には中日戦に初先発をして5回まで投げた。残る1試合はいつだったのか。自分の記憶と記録を照らし合わせると、微妙に合わないところがあるが、私がラジオを聴いたのは8月25日の試合だったようだ(テレビはまだ阿武隈の山里には入っていなかった)。
なぜ今、馬場さん? 先週の水曜日(11月11日)、BSプレミアム「ザ・プロファイラー」の<“やさしき巨人”の挑戦
ジャイアント馬場>=写真=を見て、58年前の“デビュー戦”を思い出したのだった。ラジオから想像する強い大男とは違って、テレビで見た顔はやさしかった。レスラーとしてはアントニオ猪木に、人間としてはジャイアント馬場に引かれた。
ついでに、昭和30年代(1955~64年)前半の社会状況をネットで確かめた。馬場投手がデビューした同32年には、歌謡曲の「東京だよおっ母(か)さん」(島倉千代子)「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)がはやった。NHKのラジオドラマ「一丁目一番地」が始まるのもこの年。毎晩、6時半になるとラジオの前に子どもが集まった。
同33(1958)年には背番号3番・長嶋茂雄選手がデビューする。国鉄スワローズを相手にした4月5日(土曜日)の開幕戦で、金田正一投手に4打数4三振という屈辱を味わう。この試合もラジオにかじりついて聴いた。『週刊少年マガジン』と「週刊少年サンデー」がほぼ時期を同じくして創刊されるのは翌34年春。春休みが終わって新学期が始まる、そんな時期の発売だった。
小学2年生になったばかりの昭和31年4月17日夜、大火事で町の3分の2が灰になった。焼け野原から再出発して1年、さらに1年と過ぎたあとに長島選手がデビューし、漫画雑誌が誕生した。新人長嶋選手のキャッチボール相手も、同じく王貞治選手のバッティング投手も馬場さんだったという。
大災害は大災害として、子どもたちはどんどん新しい世界に溶け込んでいった。高度経済成長期と自分の心身の成長期とが重なった。半世紀も前の子どもと同じように、3・11とその後の風景は、大人と子どもとでは違ったものに見えるにちがいない。
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