日曜日(2月14日)、夏井川渓谷の入り口で霧に包まれた=写真。標高が上がると霧は消えた。そこだけたなびいていたのだろう。唐突だが、草野心平年譜も霧だ、と思った。心平生家のある集落を通り過ぎた直後だった。
去年(2015年)の11月から4回シリーズで月に一回、神谷(かべや)公民館で「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」と題して話してきた。
きのう(2月18日)は最終回。「セドガロ」をテーマにした。終戦から2年後の昭和22(1947)年10、11月、中国大陸から引き揚げ、生家で暮らしていた草野心平が、地元の青年会員らと江田川渓谷に入渓する。「背戸峨廊(せどがろ)」が知られるようになる原点だ。その経緯と、その後の展開を取り上げた。
「せどがろ」がいつの間にか「せとがろう」になった。誤読・誤称がなぜ広まったのか。『草野心平全集』や草野心平記念文学館の心平年譜(図録も)には昭和21年9月、上小川村江田の渓谷「セドガロ」を「背戸峨廊」と命名し、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付ける――とあるが、実際には昭和22年10月だった。なぜ誤認されたのか。
心平研究の第一人者、深沢忠孝氏の筆になると思われる文章。「草野心平研究 2003・11 5」で年譜作成委員会が、既成の心平年譜は「基本的に心平の自筆と口述に基づき、若干の資料に当って作成されたものである。間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」と書いた。心平自身もそれを認めていたという。
心平年譜は、よくいえば謎だらけ。なぜか。心平は時間や固有名詞などにはそんなに厳密ではなかった。詩はともかく、エッセーはそのときそのときの直感的記憶で書いた。心平について調べようとすると、当時の新聞記事や関係者のエッセーなどを基に、事実はこうだった、誤称・誤記がおきたのはこういう理由からだったと、自分で裏を取る作業が必要になる。
市民講座では、話をしながら「壮大多数」の間違い・勘違いがちらついて、苦笑を禁じえなかった。カオス的な人物だから、しかたないといえばしかたない。とにかく心平年譜は鵜呑みにしないことだ、と強調した。以下は付録(いわき地域学會の会報「潮流」に発表したり、拙ブログで書いたりした文章の要約)。
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心平のいとこに、初代の小川中校長で、長らく平二中校長を務めた草野悟郎氏がいる。昭和62(1097)年に随筆集『父の新庄節』(非売)を出した。そのなかに「縁者の目」と題する一文がある。悟郎氏も参加した心平の背戸峨廊探検について触れている。
心平が中国から故郷の小川へ引き揚げて来たあと、心平の発案で何でもいいから村を明るくすることをやろう、という自由な集まり「二箭会」ができる。小川に疎開していた知識人の講演会、村の誰もが歌える村民歌「小川の歌」の制作、子どもたちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などを手がけた。
江田川渓谷を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだった、と悟郎氏は書く。そのいきさつはこうである。
「元々この川は、片石田で夏井川に合流する加路(かろ)川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に「セドガロ」と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」
「私たちは、綱や鉈や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作して行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介し、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」
ここから分かるのは、村人が江田川渓谷を「セドガロ」と呼び習わしていたこと、その名は山をはさんだ加路川に由来することである。加路川流域に属する内倉・横川地区の住民にとっては、江田川は目の前を流れる「表の加路川」に対して「裏の加路川」、すなわち「セドガロ」なのであった。
滝や淵などの名前はともかく、「背戸峨廊」に関しては、心平は既に呼び名として存在していた「セドガロ」に漢字を当てたにすぎない、ということになる。
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