2016年2月5日金曜日

新舞子のブルボン

 今からざっと40年以上前の昭和40年代後半のこと。新聞記者になって「サツ回り」を始めた。同業他社の記者たちとはいわき中央署で知り合った。昭和46(1971)年に数え23歳だった人間は、今、満67歳。ほかの「サツ回り」仲間も、専務になったり論説委員になったりしたあと引退した。
 そのときから何が変わっただろう。アナログからデジタルへ。終身雇用から非正規雇用へ。情報の受発信では便利になったかもしれないが、社会も会社も寛容ではなくなってきた。

 ま、それはさておき――。朝、警察へ行って事件・事故の有無を確かめ、なにもないとなると、そして、そのあと取材の予定がないとなると、ときどき新舞子海岸の喫茶店へつるんで出かけた。情報交換名目の息抜き、あるいはさぼり・腹の探り合い。でも、このおしゃべりから学ぶことが多かった。
 
 喫茶店の名前は「ブルボン」=写真。店の入り口から庭にかけて、彫刻がいっぱい置かれていた。マスターが海岸に打ち揚げられた流木を拾い集めて彫った、ということだった。それで、仲間のテレビ記者がニュースに取り上げたこともある。

 なぜふた昔も前のことを思い出したかというと、最近、マスターのお孫さんがフェイスブックに平市街(紺屋町)の「ブルボン」のことを書いていたからだ。新舞子海岸の姉妹店のようなものだが、街なかの店には、私は入ったことがない。

 海岸の店はずいぶん前に営業をやめた。大津波にも遭っているはずだが、見た目は昔と変わらない。街なかの店も開いているのかいないのか。ちょっと前にテレビが取り上げたときには、朝だけ開店しているようだった。

 それとは別に――ということなのだろう。きのう(2月4日)のいわき民報の記事によると、3月1日までの期間限定で毎週火曜日夜に「ナイトブルボン」と銘打って、お孫さんの知り合いが営業を引きうけているのだそうだ。

 2階の店内も1階の駐車場もカラフルな彫刻作品でいっぱい、というのは見聞きしてわかっている。新舞子時代よりも激しく、カラフルになっているのもわかっている。いつのころからか、ニキ・ド・サンファル(1930~2002年)の、ヘタウマと色遣いを連想するようになった。へたで、キッチュで、それでも一生懸命だから、見るとついほほえんでしまう。
 
 車でいわきの総合エンターテイメントバンド「十中八九」のアルバムを聴いている。「ブルボンじいさん」の歌が出てくる。無礼なのか率直なのかよくわからなかったが、あとでマスターのお孫さんがバンドに参加していると知って、納得した。孫たちからのオマージュだった。
 
「ブルボン」の第一世代としては、街なかの店とは別に、新舞子の店が復活しないものか、という思いが強いのだが。

0 件のコメント: