2025年4月18日金曜日

甲は貝殻

                                 
  ある日の夕方、「イキのいいのが入ったから」と、楢葉町の知人が小さなイカを持って来た。

 知人はいつも自分でつくった料理を持参する。カミサンには願ってもない夕食のおかずだ。

 今回は調理前の新鮮な食材が届いた。「ちょっと来て」。台所で下ごしらえをしていたカミサンから声がかかる。

 なにか手伝えということだろうか。行くと、イカ本体のほかに細長くて白い骨のようなものが並べてあった=写真。

骨のようなものはイカの中から出てきたのだという。長さは8~9センチで、先端からほんの少し針のようなものが突き出ている。どこかで見たことがあるような形状だ。

イヤリング、あるいはピアス? 釣りをするときの浮き?(まさか、このイカの骨からヒントを得たわけではあるまい)

すぐ茶の間に戻り、「小型イカ」「細長い骨」などをキーワードに、ネットで検索する。と、「コウイカ」「甲は貝殻」といった言葉が現れた。

コウイカの「コウ」は「甲」、甲は貝殻の名残で、「浮き」の役割を果たしている、という。

魚介類なら「市場魚貝類図鑑」だ。それによると、イカはもともと貝だった。貝殻を付けたままでは速く泳げない。それで貝殻を捨てることにした。貝殻の名残の甲を持っているのは、コウイカ、シリヤケイカ、カミナリイカなど、だとか。

コウイカだとすると、成体は20センチ前後になる。ちょうだいしたのはずっと小さい。ネットに出てくる「ピンポン玉」の大きさに近い。

春に生まれた「新イカ」は、夏には5センチ前後になるという。どうやらこの「新イカ」らしい。

「市場魚貝類図鑑」で再確認する。関東では、生まれて間もない「新イカ」を非常に珍重する。高値がつくので、スーパーなどには置いてないことがあるそうだ。

煮つけになって出てきた。やわらかくて歯ごたえがある。ほのかな甘みと旨みが口内に広がる。

ほかにも、いろいろネットをサーフィンしてわかったことがある。コウイカの甲の形状についてぴったりの表現があった。サーフボードに似る。なるほど、手のひらに入るサーフボードのミニチュア版だ。

貝殻の甲の連想でいえば、頭足類のアンモナイトとイカは共通の祖先をもち、オームガイはこの頭足類の最古の祖先と考えられているのだとか。

野鳥は卵を産むために、貝殻を背負ったカタツムリを捕食する。そのことを知って以来、自然界では炭酸カルシウムが循環する、という考えが頭から離れなくなった。

コウイカの甲の炭酸カルシウムも循環する。インコなどの副食として利用されるという。うまく回っているものだ。

2025年4月17日木曜日

大熊に本物のクマ

                                 
  朝、いつものように新聞をめくって見出しを追う。ん⁉ なんだ、これは。浜通りでクマが初めて捕獲された⁉ それも、いわき市に近い大熊町で。4月16日の県紙には仰天した。

町の有害鳥獣捕獲隊がイノシシによる被害を防ぐため、国道288号沿いの山林に罠(わな)を仕掛けた。

捕獲隊が14日朝9時ごろ見ると、罠の中にツキノワグマがいた、というのだ。罠の中とあるから、箱罠と思ったがそうではなかった。翌17日の全国紙には「くくり罠」とあった。。足がはさまって身動きが取れなくなっていたのだ。

くくり罠はイノシシ用としては一般的らしい。箱罠は、つまりは檻(おり)。いわきの山中で見たことがある。そんなに大きいものではない。

罠猟はともかく、クマが捕まっ た場所にまた驚いた。町の広報によると、捕獲場所=同町野上字湯ノ神は南北に伸びる阿武隈高地の東端、太平洋へと続く平地の里山ではないか。

10年前、田村市の実家へ行くのに、震災後初めて大熊町経由で国道288号を利用した。

いわきからは「山麓線」経由で国道288号に折れる。その国道288号に出てすぐの里山が湯ノ神であることを、地図で知った。

大熊でも標高の高い西方の山間部かと思ったら、ずいぶん人里に近い。そんなところまでクマが入り込んでいたのだ。

「阿武隈の山にはクマはいない」。昔からそういわれてきたが、近年はあちこちで姿や足跡が目撃されるようになった。大熊町のクマ捕獲は、「いない」ではもうすまされない「事実」を示す。

いわきはどうか。これまでの出没例としては、①平成24(2012)年7月31日、川前町上桶売字大平地内でクマの足跡を確認②令和2(2020年)6月11日、川前町下桶売字荻地内で住民がクマを目撃し、翌日、直径6~7センチの足跡を確認――というものがある。

ほかに、同じ阿武隈高地の中通り=田村市船引町で令和3(2021)年初夏、ツキノワグマがイノシシ用の罠にかかった。

大熊の例は、広く阿武隈高地をクマがはいかいし、ついには浜通りの里山に現れたという点で衝撃的だ。

よりによって、大熊で――という思いもよぎる。大熊町のマスコットキャラクターがクマだからだ。

国道288号を西へ向かって進むと、田村市との境でこのマスコットキャラクターと出合う=写真。

町によると、「おおちゃんくうちゃん」という愛称がついている。「おおちゃん」はサケを、「くうちゃん」はナシとフルーツのキウイが入った籠を手にしている。いずれも町の特産物だ。

阿武隈の山里では、これから本格的な山菜採りのシーズンに入る。たまたま迷い込んだだけの、一過性のできごとなのかどうか。次は生息というところまで事態が進むのかどうか。大熊に限らず、夏井川渓谷の集落でもクマに注意が必要になった。

2025年4月16日水曜日

55年前の万博

                                
   大阪・関西万博が4月13日に開幕した。それを伝える新聞記事=写真=を読みながら、55年前にやはり大阪で開かれた万博のことを思い出していた。

21歳のときだった。開幕から3カ月ほど万博の駐車場でアルバイトをした。

宿舎は会場の近くにあった。宿舎と職場(駐車場の事務所)を往復しながら、ときに会場のパビリオンを巡り、休みの日には会場内の「万博中央口駅」から電車で大阪の街へ遊びに出かけた。

叔父が東京で駐車場を経営する会社に勤めていた。その会社が万博駐車場の仕事を引き受けた。

叔父の家の近所で間借りをし、ぶらぶらしていた私を見かねて、叔父が大阪でのアルバイトを勧めた。東京を離れたかった私は、この話に乗った。

大阪万博は昭和45(1970)年3月14日から9月13日までの半年間開かれた。記録によると、入場者総数はおよそ6400万人に達した。

「同僚」には語尾に「――ずら」がつく静岡県人が多かった。当然、宿舎は一緒だった。これに、会場近くから通勤する地元の仲間が加わった。

仕事が終わると、仲良くなった人間とよくパビリオン巡りをした。出入りが自由だったのは、駐車場スタッフのカードか証明書のようなものを持っていたからだろう。

もう記憶はちぎれてすりきれているが、岡本太郎作の「太陽の塔」(高さ70メートル)には圧倒された。特に鳥のようなてっぺんの「黄金の顔」、唇をひん曲げた正面の「太陽の顔」は、今もありありと思い浮かぶ。

開幕して間もない4月26日、この太陽の塔で騒ぎが起きた。塔の黄金の顔の右目部分に男が籠城(ろうじょう)したのだ。「ハイジャック」ならぬ「アイジャック」事件で、私ら駐車場スタッフもニュースで事件を知って、あとで見に行った。男は大型連休中の5月3日につかまった。

時代のキーワードは、新左翼・ロックアウト・投石・機動隊・催涙ガス……などで、男もそうした風潮に影響されたようだ。

よく訪ねたパビリオンはスカンジナビア館だった。レストランでの飲み食いが目的だった。展示物では、メキシコ館の「巨石人頭像」に圧倒された。

そのころ、詩誌の「現代詩手帖」だけを読んでいた。投稿を始めてすぐ大阪へ移った。関東に住む親友から手紙が来て、投稿欄に作品が載ったことを知る。

それを機に、駐車場での仕事を途中で切り上げ、暮れには友人と2人、パスポートを持って沖縄をさすらった。翌春にはJターンをして長い髪を切り、地域紙の記者になった。

さて、極私的思い出話の締めくくりは、大阪・関西万博の想定入場者数だ。2820万人だという。55年前の半分以下ではないか。経済も、人口も右肩下がりの時代を象徴している、としかいえないのだがどうだろう。

2025年4月15日火曜日

スズメが減っている?

                                 
   岩波書店のPR誌「図書」3月号は、巻頭で小特集を組んだ。「環境を読む、私たちを知る」を通しタイトルに、解剖学者の養老孟司さんら5人が寄稿している。

小林彩さん(生態学)は「スズメからの問いかけ」=写真=と題して、スズメが減っていることを報告した。

スズメは、もともとは木のうろなどに営巣していたのだろうが、至る所に人間が住み始めた結果、家の軒下や瓦屋根のすき間などをすみかにして生き残る戦略をとってきた(と私は考える)。

ときに稲作の害鳥扱いを受けながらも、人間の暮らしを利用し、人間とつかず離れずの関係を保ちながら、子孫を増やしてきた。その意味では最も人間と関係の深い野鳥にはちがいない。

通りの家の軒下に巣をつくる夏鳥のツバメも、ごみ集積所を荒らすカラスも「翼を持った隣人」だ。そのなかで人間に身近なスズメが減っている? なぜ?

小林さんが島根に住んでいたころ、地元の古老から、スズメが減った話を聞いた。日本自然保護協会の事務局に務めて、そのことを思い出す。

同協会は毎年、調査報告書を発行し、5年に1回は「とりまとめ報告書」を出す。2024年10月に最新版のデータが公開された。そのなかで、里山でスズメが減っていることが明らかになった。

その要因の一つとして、小林さんは人間の「自然に対する働きかけの減少」を挙げる。

農山村では、人間が自然を利用しながら、自然を守ってきた。周囲の森や川、田畑を含めた農山村景観はそれで維持されてきた。

この里山環境に大きく依存してきた生きものは数多い。ところが昨今は、多くの中山間地で田畑の耕作放棄が進み、草地や周辺林は管理する人がおらずに放置されている、という。

その結果、農地や草地の森林化が進み、放置された森林も構成する植物の種類が変わってきた。

「人間が手を入れることによって保たれていた、明るい環境に生息する生きものたちの減少」が起きた。人間の側が里の自然から遠ざかることで、里の自然が荒廃したのだ。

哲学者内山節さんは『自然と人間の哲学』のなかで、自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の3つの交通が影響し合ったものとして論じている。

スズメの減少は、つまりはこの自然と人間の交通の変質がもたらしたものだ。小林論考を読んで納得した理由が実はここにある。

東日本大震災に伴う原発事故で、双葉郡を中心に多くの人が避難を余儀なくされた。人間のいなくなった里からカラスやスズメも消えたのではないか――。あのとき、そんな心配がよぎったのだった。

2025年4月14日月曜日

花冷え

                                 
   日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。とはいえ、年度替わりの時期だけに、いろいろ用が入る。

3月30日は午後に区内会の総会があった。午前中だけでもと思ったが、やはり気持ちの切り替えが難しい。隠居へ行くのをよして総会に備えた。

4月6日は朝、ちょっと隠居へ出かけてすぐ街に戻り、ギャラリーいわき泉ケ丘その他を巡った。

同13日は朝のうちに街で用を足し、買い物をしてから隠居へ出かけた。いつもの流れとは逆のパターンだ。

街ではソメイヨシノが満開になり、背後の丘陵はヤマザクラの花でピンクに彩られている

渓谷にも春を告げる花が咲く。アカヤシオ(岩ツツジ)だ。磐越東線でいえば、江田~川前駅間、椚平から牛小川までの右岸(北向き斜面)が、この時期だけ点々とピンク色に染まる。

隠居の対岸のアカヤシオは満開だった。6日は3分咲き程度だったので、予想した通りの展開だ。

それとは別に、隠居の庭にある2本のシダレザクラもほぼ満開になった=写真上1。近くにあるサクラの若木も花をいっぱい付けていた。

シダレザクラは知人から苗木を2本もらって植えた。育ったら幹にハンモックをかける――そんな夢を描いたものだが、今では見上げるほどに大きくなった。

サクラは孫の小学校入学祝いにと、義弟が10年ほど前に買ってプレゼントしたものだ。

4月13日はなによりもまず、このシダレザクラと対面するために出かけた。1週間前はまだつぼみだった。

あいにくの曇り空、そして寒い。「花曇り」どころか、「花冷え」だ。首筋から寒さがしのびよる。

アカヤシオの花見客もほとんどいない。たまに車が1、2台、錦展望台に来て止まるだけ。この寒の戻りではさもありなん。

私らも花を見ただけで早々に隠居を離れ、わが家に戻って遅い昼食をとった。

1週間前はカメラにメモリーカードを入れ忘れて撮影ができなかった。13日はドライブ中にカミサンが何コマかパチリとやった。

そのうちの1枚がこれ=写真上2。1週間前は三島(小川)の夏井川に3羽のハクチョウが残留していた。13日は1羽だけだった。

前に残留し、いったんは北へ帰ってまたやって来たエレンだろうか。いや、エレンとは違う個体かもしれない。いずれにしろ、日曜日はこのハクチョウから目が離せない。

2025年4月12日土曜日

ちょっとした不注意

                          
 カメラはいつもそばに置いてある。家にいるときはこたつのわきに、車を運転中は助手席に。

 夏井川渓谷の隠居では、土いじりの合間にカメラを首から提げて庭を一巡りする。タテハチョウが日光浴をしていればパチリとやる=写真。フキノトウの群生も、アセビの花も……と、被写体には事欠かない。

 そうやって撮影したデータをパソコンに取り込んだときのこと。パソコンからカメラのメモリーカードを引き抜くのを忘れて、そのままカメラを持って出かけた。

日曜日(4月6日)、早朝。渓谷に春を告げるアカヤシオ(岩ツツジ)の花が咲いているはず――。

 思った通りだった。さっそくカメラを向けてシャッターを切る。と、何か変な文字があらわれた。「メモリーカードが入っていません」

 しまった! カードをパソコンに差し込んだままだった。きょうは写真を撮れない。そう考えると花を楽しむどころではなくなった。急いで帰宅し、カメラにメモリーカードを戻して、やっと気持ちが落ち着いた。

 撮影データをパソコンに取り込むようになって何年になるだろう。ちょっとした不注意には違いないが、老化も加わってそうなったか、なんて考えた日の翌日――。

カミサンが近所から帰って来て告げた。仲良くしている90歳のおばさんが、家でイスから転げ落ちてけがをしたという。

病院へ行ったら、骨に異常はない。しかし、背中のあたりに痛みがある。再検査をしたら圧迫骨折ということだった。

すぐ義弟のことを思い出した。義弟は去年(2024年)11月に亡くなったが、その1年前、わが家の南隣の自宅で転んで背中を強打し、圧迫骨折をした。入院して、特製のコルセットで胸部を固定しながらリハビリを続けた。

カミサンの友人や知人も、自宅で、外で転んでひざや肩を骨折し、入院した――そんな話が時折、入ってくる。

年をとれば、家庭内での事故が増える。なかでも多いのが、この転倒だ。それもちょっとした不注意で起きる。

座布団を踏み外す、こたつのカバーやわずかな段差に足をとられる、ぶつける。で、4年前には家庭内での転倒事故防止を「年頭の誓い」にした。

老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。するとますます、家の中にあるモノたちが「障害物」になる。その自覚があったからだ。

 40年ほど前に2階を増築したとき、階段に手すりを付けた。そのころは軽い気持ちで「付けておくか」という程度だったが、今はこれが役に立っている。

 転倒事故も、メモリーカードの戻し忘れも、ちょっとした不注意から起きるという点では、根っこは同じ。あらためて老いを自覚し、戒めとしなければ。

2025年4月11日金曜日

ネギの終わり初物

                                                
   隣の行政区に住む知り合いから、「終わり初物」のネギをちょうだいした=写真。

師走に用があって訪ねたら、すぐ畑へ行ってネギを掘り取ってきた。それがいわきの平地で栽培された冬ネギの「初物」だった。

久しぶりに「終わり初物」という言葉を聞いた。

「初物」は文字通り、シーズン最初に収穫・採取、あるいは買って口にする野菜・果物・山菜・キノコなどのことだ。

「終わり初物」はその逆で、収穫・採取・消費はこれで終わり、というときに使う。

たとえば、ワラビ。渓谷では4月末に初物が手に入る。摘まれたワラビからはまた子ワラビが出る。これをまた摘む。そうして夏がくると、次の年のことを考えて「終わり初物」にする。

春に冬ネギが終わり、初物になるのはたぶん、ネギの種まき時期と関係する。春になるとネギはとうが立つ。新しいネギの種まきも待っている。

私は、夏井川渓谷の隠居で昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。採種・播種・定植・収穫というサイクルを経験するなかで、同じ夏井川流域でも山間地と平地とではネギの種まき時期が違うことを知った。

三春ネギは、地元の人の話によると、昔の国民の祝日「体育の日」(10月10日)が種まき時期の目安になる。種まきまでは夏に採った種を冷蔵庫で保存しておく。

それに対して平地のネギは、年を越した4月10日に種をまく。千住系の「いわき一本太ネギ」を栽培している「師匠」に教えられた農事暦だ。

知り合いのネギも立派な太ネギだった。初物をちょうだいしたときのブログがある。それを抜粋する。

――さっそくネギジャガの味噌汁にして味わう。太ネギは硬いというイメージがあったが、思った以上に軟らかかった。

夏井川渓谷にある隠居の庭で三春ネギを栽培している。田村地方から入ってきた昔野菜で、ある家に泊まった朝、ネギジャガの味噌汁をすすって驚いた。昔の記憶がよみがえった。

私は田村郡の山里で生まれ育った。ネギジャガの味噌汁が好きだった。そのネギと同じ味がした。甘くて軟らかい。

ネギづくりの参考にしているのは、平地の夏井川沿いにあるネギ畑だ。わが家からマチへ行った帰りによく堤防を利用する。

 いつもチェックする畑がある。今季は師走に入っても、収穫が始まる気配はなかった。中旬になってもそのままだった。

 暮れの12月29日に通ると収穫が始まり、年が明けた1月5日には3分の2が消え、9日には3列しか残っていなかった――。

 知り合いからネギをちょうだいしたのは、師走に入ってすぐだった。それでさっそく、カミサンにネギジャガの味噌汁をリクエストした。

それから4カ月。まずは焼いて、味噌をつけて食べた。ほくほくして甘かった。これがほんとの「いわき太ネギ」なのだろう。

2025年4月10日木曜日

緑の募金

                                
 年度末に集中した行事をなんとかこなし、気ぜわしさから解放されたのも束の間。4月に入るとすぐ「緑の募金」が待っている、というのがこれまでの流れだった。

 行政嘱託員と区内会の役員を兼ねているので、月に3回は市から回覧資料が届く。新年度が始まって2回目の回覧日(4月10日付)には各隣組に宛てて文書をつくり、区内会としての締め切り日を設けて、依頼のあった「緑の募金」の取りまとめをお願いする。

昨年(2024年)の場合は次のような文書を回覧した。「『緑の募金』運動への依頼が届きました。緑の羽根は集金袋に世帯分だけ入っています。1本取って善意の募金をお願いします。5月15日までに、担当役員さんへ募金者名記入簿と一緒にお届け願います」

4月1日のいわき民報に、家庭での「緑の募金」を今年度から廃止するという記事が載った。「広報いわき」4月号にも次のような「案内」が掲載された=写真。

家庭や地域の負担軽減などを考慮し、自治会を通した家庭募金は廃止する。ただし、個人・企業などで引き続き協力できる場合は、市林業振興課または各支所窓口、もしくは本庁舎と各支所に設置の募金箱にお願いする。

「家庭募金は廃止」と知って、肩の荷が少し軽くなった。回覧までには準備が要る。隣組宛ての文書の整理とコピー、集金袋への緑の羽根の封入。回覧後もまた、名簿と募金の回収が待っている。

隣組の班長交代に伴い、区内会の連絡網は一新したばかり。「広報いわき」(毎月1日付)などは班長宅に届けて終わり。つまり流れとしては一方的だが、募金関係はさらにそこからの集約がある。

募金は強制ではない。あくまでも個人の判断による。人によっては経済的な負担になる。区内会の役員や隣組の班長にとっても、事務的な負担感は否めない。そうしたことが家庭募金廃止の背景にあったのだろう。

「緑の募金」は、前は「緑の羽根募金」と言っていた。私が子どものころは、胸に緑の羽根をつけていた(と思うのだが、記憶はあいまいだ)。古い人間なので、やはり「緑の募金」よりは「緑の羽根募金」といった方がピンとくる。

国土緑化推進機構によると、「緑の羽根募金」運動は昭和25(1950)年に始まった。その後、戦後50年の節目に当たる平成7(1995)年に「緑の募金法」が制定された。

この募金を活用し、ボランティアやNPOなどを通じて、国内外で森づくりや人づくりをはじめとするさまざまな取り組みが進められている、ということだった。

いわき民報によれば、福島県内では福島市や郡山市では、家庭募金を取り扱っていない。時代の趨勢なのだろう。

2025年4月9日水曜日

1年生は1学級

「少子高齢社会」がいわれて久しい。ちょっと前までは一般論としての認識だったが、今は自治会(区内会)単位、あるいは学区単位でこれを実感している。

 4月7日に地元の小学校で入学式が行われた。区内会の役員をしているので、3月の卒業式に続いて、来賓として臨席した=写真(入学式のしおり)。

 新1年生は男子15人、女子11人の計26人で、クラスとしては1学級だけの編成だという。

 来賓の多くは同じ小学校の卒業生である。新1年生からみれば、おおむね祖父母の世代といっていい。家族にたとえるなら、祖父母―父母―1年生の3世代が一堂に会したことになる。

祖父母(以上の世代)に当たる私は、いわゆる「団塊の世代」なので、同級生がいっぱいいた。阿武隈の山里でも小学校は1学年3学級、中学校では5学級にふくらんだ。

それがたぶん、児童・生徒数としてはピークだった。当然、街場の学校はそんなものではなかったろう。自分の記憶からしても、新1年生が30人を割るというのはショックだった。

ここは平市街の近郊農村と初期のベッドタウンといったところ。新1年生の親の世代あたりまでは1学年2学級というのが普通ではなかったか。

私が入学式に初めて臨席したのは、12年前の平成25(2013)年。そのころから入学する児童の数は漸減していた。

クラスの定員は、最大40人がメドだったように記憶する。私たちの場合はそれ以上いて、教室には余裕がなかった。

現代では、学年合わせて40人余り、年度によっては40人を割るところまで数が減っている。今年(2025年)はさらに30人を下回った、というわけだ。

 翌8日は、1年生にとっては集団登校の初日だ。どんな様子か確かめたくて、登校時間に家の前に出た。

 カミサンによると、黄色い帽子をかぶった子、つまり新1年生は5人いた。前日、ほかの来賓とも話したが、それぞれの地区で入学した子どもの数が話題になったらしい。

隣接する区の新1年生は7人と5人ということだった。これにわが区の5人を足すと、26人のうち3区内会で17人を占める。新1年生がゼロの区内会もあったに違いない。

 若い世代がいないから、子どももいない。いるのは高齢者――。昔からの農村部はそんな状況らしいということも、役員の問わず語りで知った。

 集団登校初日の午前11時前、今度はたまたま家の前にいた。真新しいランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった1年生が、途中まで出迎えた保護者と一緒に帰って来るところだった。

カミサンが声をかけると、はにかみながらうなずいていた。初々しさにこちらもほっこりした。 

2025年4月8日火曜日

田んぼのくろ塗り

                             
 自然の移り行きに合わせて、田んぼがすき返され、畔(あぜ)の「くろ塗り」が始まった。今はトラクターでくろ塗りをするらしい。

 家から少し離れた田んぼ道を行くと、表面(天端)の半分とのり面が黒くつるつるしている畔があった=写真。ほかの田んぼでも、ところどころ畔がきれいになっている。

 トラクターでのくろ塗りは、何年か前から見かけるようになった。最初は何をしているのかわからなかったが、あとで同じ道を通ると畔ののり面がきれいになっていた。

成形されたあとがきわだって美しい。で、どうやるのか、どんな機械を使うのか、ネットで探ってみた。

それによると、トラクターに、外形が漏斗(ろうと)に似たくろ塗り用の機械を取り付け、それを回転させながら、のり面と天端を同時に成形していく、というものらしい。

 4月最初の日曜日(4月6日)、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。1週間前の日曜日は用事があって渓谷へは行けなかった。まずはアカヤシオ(岩ツツジ)の開花を確認しなくては――。

 いわきの平地でソメイヨシノが咲き出すと、渓谷のアカヤシオが開花する。30年ほど渓谷へ通い続けて学んだ経験則だ。

 今年(2025年)もその通りになった。江田を過ぎ、椚平に入ると右岸の山がピンクで彩られていた。それがアカヤシオの花。

 籠場の滝の周辺では、谷の方までアカヤシオの花が見られる。わが隠居と展望台のある牛小川は、前山が3分咲きというところだった。奥山を含めた見ごろは今度の日曜日(4月13日)だろう。

 沿道のソメイヨシノは花が満開に近かった。が、雨にたたられたせいか、花びらの色がいまひとつさえない。

 集落の背後の小丘陵はしかし、ヤマザクラの花で淡いピンクの点描画になっている。

 三島(小川町)のハクチョウはとっくに北へ帰ったと思っていたら、3羽が砂地に上がって「朝寝」をしていた。

どこか南で冬を過ごしたハクチョウが北へ帰る途中に一休みをしている、といった雰囲気だ。

というわけで、沿道には春の花があふれ、くろ塗りのすんだ田んぼが増えてきた。趣味の菜園でも事情は変わらない。わが隠居の菜園では、今年はジャガイモを植える。

いや、時期的にはもう植え終わっていないといけないのだが、食べきれずに残って芽を出したジャガイモが家にある。捨てるのはもったいない。

菜園の一角に埋めれば、やがて小芋ができる。それを掘り起こして「味噌かんぷら」にする。

くろ塗りのすんだ田んぼの畔を見ながら、春の土いじりと、それがもたらす夏の食べ物が思い浮かんだ。

2025年4月7日月曜日

元知事の本を再読

                     
 歌手で俳優のいしだあゆみさんが亡くなり、テレビが追悼番組を流しているさなかに、佐藤栄佐久元福島県知事の訃報に接した。3月半ばのことだ。

 同年代のいしだあゆみさんの大ヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、20歳前後のころ、毎日のように耳にした。今でもイントロが流れると、メロディーが脳内に鳴り響く。

 元知事は、現職のころはメディアを介して動向を知るだけだった。その後、知事を辞し、司法との闘いを経たあと、何度か顔を合わせたことがある。

 東日本大震災の直前、2011年3月6日に友人が元知事を招いて、いわき市平の高久公民館で講演会を開いた。

 友人の文章によると、元知事は講演のなかで「いずれ日本の原子力政策はつまづく」と語った。「いずれ」どころか、5日後に大震災が発生し、原発の苛酷事故が起きた。

 その1年前にも、やはり友人が元知事を招いて講演会を開いた=写真。演題は「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」だった。

元知事は2009年9月に平凡社から『知事抹殺――つくられた福島県汚職事件』を刊行する。その出版を踏まえたものだった。そのときの拙ブログを要約・再掲する。

――元知事はどんな理念・哲学に基づいて「地方自治」を推し進めてきたのか。その一つが首都機能移転問題だった。

これに関する朝日新聞「論壇」への投稿「新首都は『森に沈む都市』を目指せ」に目を見張った記憶がある。

講演では、元知事自身の「思想形成史」に興味を持った。高校時代に、旧ソ連によるハンガリー侵攻が起きる。

大学時代には60年安保があった。30歳のときにチェコ事件が発生する。早くから政治に関心を抱いていた。民主主義と人権にかかわるものに無関心ではいられなかったのだろう。

それと並行して『岩波茂雄伝』を介して藤村操を知り、E・H・フロムの『自由からの逃走』などを読む。

さらには、青年会議所時代に安藤昌益を知り、自分で学問をつくりあげた個性に引かれていく――書物から得たものを咀嚼し、血肉化していく知的な営為はなかなかのものだ。

少なくとも、思索を深め、理念・哲学を形成する生き方から、私は元知事が「慎み深く、考え深く」を実践しようとしている人だ、ということが理解できた――。

元知事の訃報に接して、この本を再読している。恐れていた原発事故が現実に起きたことを踏まえていうのだが、知事としての思想と行動は県民の「安全・安心」に立脚したものだった。読み進めるにつれて、その思いを強くする。

2025年4月5日土曜日

春の主役

                      
   気象庁はソメイヨシノを生物季節観測に取り入れている。以来、私たちは報道発表を介して、桜=ソメイヨシノの開花を春到来のサインとして受けとめるようになった。

それぞれの地域にソメイヨシノの標本木がある。いわき市の場合は旧小名浜測候所内の桜がそれだ。

測候所が無人化されてからは、地元の市民団体と元職員が協力してこのソメイヨシノをチェックし、「開花宣言」をしている。

今年(2025年)は3月28日に小名浜での開花が宣言された。春がきたか――。若いころは開花の発表にときめいたものだが、今はどうも反応が鈍い。なぜだろう。

ハクモクレンやユキヤナギ、レンギョウなどの開花が先行した。夏井川渓谷でも、アセビやマンサクが咲いている(先の日曜日=3月30日は、用があって渓谷の隠居へは行けなかった。そのため、アカヤシオの開花はまだ確認していない)。

平地のわが家の庭では、ソメイヨシノの開花宣言より早く、プラムが咲き出してすぐ満開になった。

それだけではない。ソメイヨシノに先立って、「シン・桜」といってもいいカワヅザクラの開花を、メディアがニュースで取り上げた。その流れで、平の街なかにある早咲きの桜も紹介された。

言葉は悪いが、ソメイヨシノの開花は、ニュース価値としては二番煎じ、三番煎じでしかなかった。

「きょうは開花が見送られました」。東京では「開花」よりも「開花宣言」の有無が報じられた。これには思わず苦笑した。

開花が宣言されたあと、いわきは冬に逆戻りしたような寒さと雨にたたられた。「花見」気分ではなかったことも、ときめきからは遠い理由だったか。

金曜日(4月4日)に街へ行った帰り、やっと信号待ちの間にソメイヨシノの花を見た=写真。

それくらい今年はソメイヨシノの開花には関心が薄かった。いや、年々薄くなっている。

ソメイヨシノは交配によってつくられた園芸種で、葉より先に花が咲く。てんぐ巣病にかかりやすい。それもあって、ヤマザクラに比べるとはるかに寿命は短い。「寿命60年」説が言われている。

それでソメイヨシノの並木が伐採されたところもある。近所の老木も少し前に切られた。

 自分のブログを読むと、私の中ではだいぶ前から「ソメイヨシノ離れ」が起きている。代わるように「発見」したのが、草野心平記念文学館の奥、小玉ダムの周囲を覆うヤマザクラだ。私はひそかにそのへん一帯を「いわきの奥吉野」と呼んでいる。

街の春の主役は、もうソメイヨシノではなくなったのかもしれない。

2025年4月4日金曜日

日本水素の時代

                      
 日本水素から日本化成、そして三菱ケミカルへ――。企業名は変わったが、昔の「日本水素」の方が私にはピンとくる。そこで時間が止まっているのだろう。

 小名浜は港と漁業のまち。やがてこれに臨海型の工場が加わる。その中核をなしていたのが昭和12(1937)年発足の日本水素だ。

創業からざっと90年の歴史を持つ工場が、令和9(2027)年3月末までに製品の生産を終了するという(いわき民報)=写真。

 ニュースに接して真っ先に思い浮かんだのが、叔父一家と社宅と昭和30(1955)年前後の小名浜の海だった。

 阿武隈の山里から小名浜の日本水素に就職した叔父が同郷の女性と結婚し、工場の西方の社宅に住んでいた。私と同年代の娘が3人いた。

 記憶している地名は弁別(べんべつ)、そして吹松(ふきまつ)。年に1回は祖母に連れられて、この社宅を訪ねた。

一家はのちに、平屋から海寄りの中層アパートに引っ越す。工場が林立する前のことで、白砂青松の海岸が東西に長く伸びていた。

ここで初めて海を見たときの驚きと恐れが、今も鮮やかによみがえる。夏のある日、従妹たちに連れられて海で水遊びをした。小学校に入るか、入ったころのことで、寄せては引く波にめまいを覚えて、つい砂浜に座り込んだ。

従妹たちはキャアキャアいいながら、波打ち際で遊んでいる。それを半分うらやましげにながめていた。

水素の工場には小名浜近辺の人ばかりか、遠く中通りからも次男、三男が勤め、社宅から工場へ通った。叔父の親友の一人は同じ阿武隈の山里の出身だった。

 阿武隈の山里からバスと磐越東線のSLで平駅(現いわき駅)に着き、駅前から大型バスに乗って、湯本経由で小名浜の「水素前」で下りる。これが小名浜を訪ねるときの定番コースだった。

水素前からちょうどいい時間のバスがないときには、社宅のある弁別まで歩いた。子どもの足にはこれがきつかった。

「水素前」にいたときだから、たぶんバスを待っていたのだろう。昼間から酔っ払ったおっさんがフラフラ歩いていて、ヘドロのたまった側溝に頭から突っ込んだ。

びっくりした。が、子どもでは手助けしようもない。バタバタもがく姿が今も鮮やかだ。おっさんは周りの人に引っぱり出されたはずだ。

これはたぶん、あとになっての夏休みの記憶。小名浜の本町通りに「国華堂」という名前の店があった(と記憶する)。そこで生まれて初めてソフトクリームを食べた。やわらかくて甘かった。

三菱ケミカル、すなわち日本水素がなくなる――。従妹たちにとっては、小名浜はふるさと。が、そのシンボルは臨海工場で埋め尽くされる前の白砂青松の海に違いない。

2025年4月3日木曜日

「ゲーテ曰く」

                             
 小説の『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)=写真=を読んでいる。23歳の若さで芥川賞を受賞した大学院生鈴木結生(ゆうい)さん=福岡市=の作品だ。

 カミサンの知り合いが「読んだから」と言って持ってきた。カミサンが本を差し出したので、飛びついた。

 鈴木さんは福岡市で生まれたが、牧師である父の転任に伴い、1歳から小学5年生まで福島県郡山市で過ごした。小学3年のときに東日本大震災に遭遇し、避難生活も経験した。

 まだ前半を読んだだけだが、特に目に留まった二つのことを紹介する。一つはトーマス・マンのゲーテ評。これにはうなった。

「あらゆることを知ろうとし、あらゆることを知らせてもらって、他人が偶然に持っている知識をわがものにしようとした……もっとも包括的な、もっとも全面的なディレッタント……総合的アマチュア」

 アマチュアかどうかはともかく、総合的な人間だったことはまちがいない。それを紹介するくだりを要約すると――。

「ファースト」の詩人、「ゲッツ」の劇作家、「ウェルテル」の小説家にとどまらない。ニュートンに反論した自然科学者、モーツアルトの天才を見抜いた音楽家、ナポレオンから握手を求められた政治家でもあった。

 私は区内会の役員として、政治家ゲーテの4行詩「市民の義務」を座右の銘にしている。

「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」

 この4行詩は、彼の死の直前に書かれたという。彼はヴァイマル公国の宰相として、さまざまな社会施策を実施した。

自治体の首長が「市民と行政の協働作業」をいうときに、いつもこの4行詩が思い浮かぶ。

それから、もう一つ。パスカルの有名な言葉「人間は考える葦である」にからめて、今の学生の一部は「考える葦」を「考える足」と思っている、というエピソードが紹介される。

 私は新聞記者をしていたので、「記者は『足で稼ぐ』だけではだめだ、『考える足』になれ」と自分に言い聞かせ、後輩にもそうアドバイスしてきた。むろん、パスカルの言葉のもじりではある。

記者なら現場を取材するのは当たり前。しかし、同じような交通事故でも1件1件違う。なぜ起きたかを深く考えよ――。若いときの事故取材が「考える足」を生み出すきっかけになった。

少し気取っていえば、今を直視し、過去を踏まえて未来につながる思考を深めること、でもある。

さて、『ゲーテはすべてを言った』には、ゲーテを軸に古今の名言がたくさん登場する。「ゲーテ曰(いわ)く、『ベンツよりホンダ』」。そんな現代のジョークも飛び出す。

23歳にしてこの博識、郡山時代からの膨大な読書量には、ただただ舌を巻くばかり。

2025年4月2日水曜日

電波時計

ふだんは雨戸を閉めている家がある。明かりといえば、東の窓からうっすら差し込む自然光だけだ。たんすの上に置いた電波時計が止まっていた。

カミサンがマチの時計店に持ち込むと、電池交換が不要のソーラー時計だった。光に当てるといい――と言われたそうだ。

家のテレビやノートパソコンは蛍光灯(あるいはLEDの電球)と同様、コードでコンセントとつながっている。電気かみそりも同じだ。ときどき、コンセントにつないで充電する。

パソコンのマウスや自動で停止する灯油ポンプは、電源が乾電池だ。これらの不具合は目に見えるかたちでわかる。電池を交換すればいい。その延長で、置き時計も乾電池が切れたのだろう、と思い込んでいた。

電波時計はたまたま、わが家の茶の間にもあった。電波の発信地も承知している。田村市都路町と双葉郡川内村の境界にある大鷹鳥谷(おおたかどや)山(標高793メートル)の頂上付近だ。

同山が選ばれたのには、こんな理由があった。海上保安庁の電波送信施設があったこと(GPSの普及により平成5=1993年に廃止)、その維持管理のための道路・電線・電話回線が整備されていたことなどで、平成11(1999)年には送信所の運用が始まった

正式には「おおたかどや山標準電波送信所」というらしい。西日本にも同様の標準電波送信所がある。この電波を受信することで、日本の正確な時間が刻まれていく。

いわきの北方の、とある山から「日本標準時」の電波が発信されている、と思えば、阿武隈高地で生まれ育った人間としては、なにやら誇らしい気分になる。

ソーラー式の電波時計は光によって充電できる「電池」を搭載し、時刻合わせも不要だという。

カミサンが家に持ち帰って、すぐ光に当てると時刻が復活した=写真(左は前から茶の間にあったもの、右が止まっていた時計)。

どちらも時・分・秒、日時・曜日のほかに、温度と湿度が表示される。時刻はさすがに秒単位まで同じだ。気温と湿度が微妙に違っているのは、まあ目安に過ぎない、と思えば許容範囲か。

「ソーラー式永久時計」という言葉もあるようだ。しかし、ほんとうに永久時計かどうかは、私にはわからない。この搭載「電池」も寿命が無限ということはないと思うのだが、どうだろう。

電池、たとえば単三などをまとめて買っておく人間としては、手をかけずにすむ「ソーラー電波時計」は、デジタル社会の身近な見本のように思える。

「光を、もっと光を」。芥川賞の作品を読んでいるせいか、ゲーテの最期の言葉(とされている)名言がつい思い浮かぶ。 

2025年4月1日火曜日

新年度がスタート

          
 3月が終わった。年度末は毎年あわただしい。今年(2025年)も例外ではなかった。

 わが区内会は3月最終の日曜日に総会を開くのが慣例になっている。そのための資料づくりなどが2月から続いた。

 合間に行政が主催する講演会や研修会、会議が入る。なぜだかわからないが、年度末には行事が多い。新年を迎えて少したったころから、随時、案内が届く。

 思えば、コロナ禍の数年間は各種の行事が中止になり、総会などは書面審議になって、対面でのやりとりが減った。

その意味では、正式が略式に替わり、短縮・省略が許容された。それが、今は以前のようなやり方で行われる。

長年区の役員をやっているせいか、ついコロナ禍の「前」と「後」を比較してしまう。「さなか」の略式を経験したあとだけに、「前」の流れに戻すにはかなりのエネルギーが要る。

ほかの行政区では、役員の「2年交代」がほぼ慣例として定着している。ある意味「有期」で役員から開放される。

こちらは有期の反対「無期」で地域の仕事を続けることになる。役員を有期で卒業できるなら無理もきくだろうが、新年度にも力を残しておかないといけない。

いやいや、年間を通して行事はほぼ決まっている。加齢によって体力が衰えていることを、おのずと悟ることになる。余力などはもともとないのだ。

だからこそというべきか。地元の小学校で6年生の同窓会入会式が行われたときには、子どもたちの未来に心がいやされた。やがてこの子たちが地域を支える存在になるといいな――そんな思いにもなった。

同じ小学校の卒業生ではない。が、区の役員をしているので、「当て職」で同窓会の役員に名を連ねている。

この入会式も、コロナ禍が始まった令和元年度以来、中止が続いた。その意味では6年ぶりの再開である。

昨年5月、スポーツフェスタ(運動会)に招待された。秋には学習発表会にも招かれた。そしてこの春、同窓会入会式に続いて卒業式にも臨席した。

心がいやされるのは、やはり成長する子どもたちのエネルギーをじかに感じられるからだろう。

実は、同窓会入会式の案内状=写真=が届いたとき、ふっと気持ちが軽くなるように思ったことを覚えている。

気ぜわしい中での楽しみといってもいい。地元の住民でもある「常連講師」のジョークに、久しぶりに接した。「漫談」は6年生にも大うけだった。

さて、年度末を締めくくるわが行政区の総会も3月30日に無事終了した。新年度も役員の顔触れは変わらない。が、新しい年度のスタートに合わせて、気持ちだけは1年生のつもりで頑張るとしよう。

2025年3月31日月曜日

令和6年度ガン・カモ調査

                      
 日本野鳥の会いわき支部から、支部報「かもめ」第166号(2025年4月1日発行)の恵贈にあずかった=写真。

1月12日を一斉調査日として行われた環境省主催の全国ガン・カモ類調査結果が載っている。

同支部は南部・北部・中部に分かれて、いわき市内15カ所でガン・カモ類を調べた。この15カ所は同支部の担当分で、ほかにも他団体が市内37カ所で調査をしているという。

私はこれまで、野鳥の会の調査をそのままいわき全体のデータと思い込んでいたが、そうではなかった。他団体分を合算して初めていわき市全体の数字がみえてくる。

というわけで、ここでは野鳥の会が担当した市内15カ所についてだけ紹介する。拙ブログの過去記事も、すべて野鳥の会のデータに依拠しているので、比較検討はあくまでも市内15カ所、ということになる。

まずはコハクチョウから。沼部(鮫川)72羽、三島(小川・夏井川)232羽、塩(夏井川=新川合流部)16羽、夏井川河口94羽の合計414羽だった

去年(2024年)は沼部24羽、三島111羽、塩123羽、平窪~愛谷(夏井川水系では最も古い越冬地)85羽の計343羽だったから、少しは数を増やした。

今年はどういうわけか平窪~愛谷には姿がなく、夏井川河口に大群が羽を休めていた。

ただし、たびたび塩を、日曜日ごとに三島を車で通りながらウォッチングしてきた人間の感覚では、ピーク時には塩も200羽前後はいたように思う。

今年「少ないなぁ」と感じたのは冬鳥のオナガガモだった。三島ではコハクチョウに寄り添うようにしてよく目立つのだが、今年の調査日にはゼロだった。

15カ所全体では、オナガガモは4年度483羽から5年度176羽に激減し、6年度(今年)はやや増加して240羽を数えた。

同じ冬鳥のマガモは減少が著しい。4年度は945羽だったのが、5年度には751羽、6年度は469羽に減っている。

オナガガモやマガモと違って、留鳥のカルガモはどうか。もともとカモ類では数が多い。

4年度の1051羽には遠く及ばなかったが、6年度は632羽と調査した水鳥の中では断トツだった。

大挙してやって来るハクチョウやカモ類は、年によって変動がある。総計で1000羽前後の増減は、私はそんなに気にしない。

暖冬であれば北海道の湖などにとどまっているケースが多いだろう。湖沼が凍結しなければ、あえて南下する必要もない。ハクチョウ類は北の方にとどまっている。

今年の調査日は、その意味ではまだ冬本番ではなかったのではないか。ハクチョウたちがピークに達したのはそのあとだったから。

2025年3月29日土曜日

ペットボトルのキャップ

               
   お茶、ジュース、スポーツ飲料……。たまに自販機からペットボトルを買って飲む。会議にペットボトルが用意されていることもある。

自分で選ぶお茶は決まっている。が、テーブルに置いてあるお茶もなかなか捨てがたい――。年度末の集まりが多いこの時期、いろんな味のお茶を楽しんでは、そんなことを思う。

今やメジャーリーグを代表する大谷翔平選手も、日本のメーカーのお茶を宣伝している。日本茶の商戦は国内外でにぎやかになってきた、ということか。

お茶に限らない。ペットボトルは自分の指でキャップをひねって開ける。このキャップを手ごわいと感じるときがある。

ペットボトルのキャップはボトル本体のリングとブリッジでつながっている。キャップのへりを握ってひねると、つなぎ目のブリッジが切れてキャップがはずれる。

このキャップはずしが高齢者には難しい。加齢や病気で筋肉量が低下する。と、足の筋肉量が低下して歩行速度が落ちたり、疲れやすくなったりする。で、さらに全体の活動量が減少する。「フレイルの悪循環」である。

ざっと1年前、この悪循環に絡めてペットボトルのキャップのことをブログに書いた。

――ペットボトルのキャップもフレイルの目安になるらしい。まだ開けられる。とはいえ、きつくて開栓に手間取るものが出てきた。

この開栓と老衰の関係をネットで検索すると、伊藤園と鹿児島大学医学部による共同研究の結果が載っていた。

キャップの開け方には4つある。「側腹つまみ」「筒握り」「3指つまみ」、そして「逆筒握り」だ。

 逆筒握りは、ボトルを片手で持ち、片手(利き手)でこぶしを下にするようにして、キャップを回すやり方だ。 

研究結果では、前記3つはフレイルについて有意な関係は見られなかった。が、逆筒握りは筋力低下と関係があることがわかった。

東日本大震災ではペットボトルの水の差し入れがありがたかった。今はその開栓ができるかどうかが問題だ――。 

ペットボトルのキャップはなんとか開けられる。しかし、手ごわくなったという意識は変わらない。

そうしたなかで、役所で会議があり、テーブルに用意されていたペットボトル(水)を開栓すると、意外や意外、わりと簡単に開いた=写真。白く細いブリッジを数えたら、12あった。

あとで、別の会議で出てきたペットボトル(水)のつなぎ目を数えたら倍あった。開けるのに手間取ったわけだ。

高齢者に対応したペットボトル? まさか。いや、そうかもしれない、なんて思ったが、楽に開けられるのであればそれにこしたことはない。

 家ではもちろん水道水ですませているが、車で遠出するときにはこれもいいか、そんな気になった。

2025年3月28日金曜日

ミクロの森

                             
   たとえば、いわきの中心市街地からほど近い石森山。そこに張り巡らされた遊歩道のへりに、フラフープ(プラスチック製の輪)を置いたつもりになって読んだ。

D・G・ハスケル/三木直子訳『ミクロの森――1㎡の原生林が語る生命・進化・地球』(築地書館、2013年)=写真。

ハスケルはアメリカの生物学者で、テネシー州にある原生林の地面に直径1メートル余の「定点」を設け、ひんぱんに通って円内の様子を観察した。本書は1年間に及ぶその詳細な記録だ。

帯に本の中身が凝縮されている。「草花、樹木、菌類、カタツムリ、鳥、コヨーテ、風、雪、嵐、地震……。さまざまな生き物たちが織りなす小さな自然から見えてくる遺伝、進化、生態系、地球、そして森の真実」

 森の生態系がもつ物語は、チベットの曼荼羅と同じくらいの面積の中にすべて存在している、と著者はいう。この視点を踏まえながら、紡がれた物語(要旨)をピックアップすると――。

【2月2日】地球の大気に酸素が含まれるようになったのは、約25億年前に光合成が発明されてから。酸素は危険な、化学反応性の高い物質で、酸素に毒された地球からは多くの生物が姿を消し、あるいは身を隠さざるを得なかった。

 ――糠床には嫌気性の酪酸菌がすむ。糠床をかき回さないとこれが増殖して悪臭のもとになる。地球に酸素が生まれたとき、それを嫌って身を隠した生物の一つがこの酪酸菌だったか。

 【5月25日】子育て中のメス鳥はカタツムリが背中にしょっている炭酸カルシウムが欲しくてたまらず、カタツムリを探して森を飛び回る。

 ――カタツムリの本を読んだばかりだったので、理由が気になった。鳥は卵を産む。卵の原材料を調達しないといけない。そのひとつがカタツムリの殻だったのか。

 【12月3日】初めの陸生植物は、根も、茎も、本当の意味での葉ももたない、無秩序に拡がった糸状のものだった。だがその細胞には菌根菌が入りこんでいて、植物が新しい世界にゆっくりと慣れるのを手助けした。

 ――拙ブログでたびたび紹介している植物と菌類の「菌根共生」の始まりがこれだろう。

「もちつもたれつの関係」は地球を覆う緑の8~9割に及ぶ。つまり、菌根が地球の緑を支えている、という認識はもはや一般的らしい。

 【12月26日】この1年、著者は科学的手法を脇に置いて、森に耳を傾けようと試みた。機械や道具を持たずに自然と対峙しようとした。著者は科学がどれほど豊かで、同時にその対象範囲も考え方もいかに狭いものであるかを垣間見た。

 ――私は30~40代前半、休日と平日の昼休みを利用して、多いときには年に100回近く、石森山の遊歩道を巡り歩いた。しかし、ハスケルのような「定点観測」を意識したことはなかった。いわば、定線観測。

あらためて定点、そして定線の両方を組み合わせることでより深く自然の本質に迫れるのではないか、と思った次第。

2025年3月27日木曜日

プラムが一気に開花

                     
   師走も大みそかに近づいたころ、おおよそ次のような文章をブログに載せた。

 ――若いときと違って、老体には寒さがこたえる。子どものころからの冷え性で、外に出るとすぐ指先がかじかむ。ふとんにもぐりこんでもつま先は冷えたままだ。

この冬初めて、家にある湯たんぽを引っ張り出した。それだけではない。ズボン下のほかに、上は毛糸のチョッキ、おちょんこ、薄いジャンパーも部屋着にしている。

暖房は石油ストーブに、時折、ヒーターを加える。ストーブだけだと室温が20度を割ることがあり、ヒーターを付けると逆にすぐ30度近くになる。

早朝は寒さがこたえる。布団を離れると、パジャマの上に外出用の厚手のジャンパーをはおり、ストーブに火をつける。こたつの下の電気マットをオンにする。

毛糸の帽子をかぶって、玄関の戸を開け、新聞と牛乳を取り込む。帽子がないと、たちまち頭部を寒気が襲う。

 うがいも、のどを潤すのも、水ではなく、温水器を通したぬるめのお湯を使う。水だと冷たすぎて歯茎が反応する。食器を洗うのも、秋の終わりのころからお湯に切り替えた――。

 秋が過ぎて冬を迎えたころの私の「防寒対策」だ。ひと冬が過ぎた今は、春に向かって逆のことをしている。

まずはおちょんこを脱ぎ、別の日はズボン下と別れる。それからほどなく湯たんぽをはずす。

ここ数日は日中、石油ストーブを消している時間が長くなった。ヒーターはむろん使わない。

食器を洗うのは、まだ水よりはお湯が多い。うがいは逆だ。だんだん水道水が多くなった。

 これら一連の切り替えは、頭ではなく体が求めてのことだ。彼岸の中日あたりからそんな感じになってきた。

 靴下も冬靴ではむれることがある。通気性のいい夏靴を思い浮かべることも増えた。

 とはいえ、後期高齢者になってからは寒暖の変化がこたえる。体に熱がこもって毛糸のチョッキを脱いだら、翌日は急に寒くなって背中がスース―する、といったことがある。

 衣服の選択は難しい。いや、慎重になったというべきか。若い人と違って一気に衣替えをすると、あとで風邪を引いたりする。

 季節の移り行きを感じるのは天気ばかりではない。3月25日は、晩酌をしていると、ハエがどこからともなく現れて、食べ物にとりつこうとした。

 さすがにそれは困るので、手で払うと当たって食卓に落ちた。まだ動きが機敏ではない。

 この日、役所で集まりがあった。昼近くに終わって帰宅する途中、ツバメを思い出して夏井川の堤防に出た。案の定だった。今季初ツバメが車の前を横切った。

 26日は朝、茶の間のカーテンを開けて庭を見ると、プラムが白い花をつけていた=写真。

 春分の日のあと、山田町では22、23、25日と最高気温が20度を超えた。それで一気に開花したのだろう。

部屋のストーブは朝9時を過ぎると消された。が、夕方5時過ぎには首筋がひんやりしたので、火をつけた。朝晩はまだ寒い。