2025年1月8日水曜日

最初のごみ収集日

            
   年末年始の長い休みが終わって、いつもの日常が戻ってきた。新年最初の月曜日(1月6日)は役所の仕事始めの日。そして、わが地区では最初のごみ収集日だ。

家の前の歩道にごみ集積所がある。わが家でごみネットの出し入れをしている。出しっぱなしにしていると、だれかが違反ごみを置いていく。それを防ぐために、週末にはネットを取り込む。

月曜日。起きるとすぐ私がごみネットを出す。木曜日、収集車が来たあと、カミサンがごみネットを引っ込める。

年が明けて5日の日曜日夜、「あしたは『燃やすごみ』の最初の収集日、ごみネットを出すこと」、そう自分に言い聞かせて寝た。

正月気分を引きずっていると、ごみネットを出し忘れてカラスの襲来を招く。ネットをかけていても、カラスはごみ袋を突つき、引っ張り出して、生ごみを食い散らかす。生ごみとわかれば、カラスは仲間を呼んで乱暴狼藉に及ぶ。

人間よりまずはカラスだ。正月早々、カラスに隙を見せたくはない。後始末が、なにより大変だから。

年末年始はごみ収集が休みになる。それに合わせてカラスも通りから姿を消した。しかし、静かな日々が続いたと誤解してはならない。カラスはいつも、どこからかえさを狙っている。

ごみ袋はふだんの3倍くらいは出た=写真。やや離れたところにある集積所もこんもりとしている。

いつもの日よりかなりの量が出たから、回収時間も遅れるに違いない。その間にカラスが現れなければいいのだが……。

ほぼ1時間ごとに、家の中から様子をうかがう。ごみ袋は数を増したが、さいわいカラスは現れない。

カラスには盆も正月もない。日々、えさを求めて飛び回っている。どこに集積所があるかは先刻承知だ。苦労せずとも腹を満たせる場所が、そこにあるのだから。

いつもの時間よりはかなり遅い午後零時半すぎ、収集車がやって来た。昼食後は昼寝をする。それを我慢して収集車が来るのを待った。

止まればエンジン音やドアの音でわかる。その音がしたので、急いで家の中から様子をうかがう。ごみ袋はすべて回収された。違反ごみはなかった。

せめて初日だけでもカラスとは無縁でいたい。収集車が来るまで、ずっとそう念じていた。

そのとおりになった。それから30分後、カラスが1羽、近くに来て「カア、カア、カア」と三度鳴いた。私には「あらら、遅かった、残念」と聞こえた。

たまたま初日は人間が勝った。カラスは人間の年末年始休が長すぎたために、油断をしておくれを取ったのだろう。

2025年1月7日火曜日

隠居の庭の雪

                 
 正月三が日に2回、「御降(おさがり)」があった。3日の夜は雪になったようだが、翌朝、阿武隈の山並みを見るとそれほど白くはない。5日はいつもの冬の山並みに戻っていた。

 いわきの平地も路面が濡れただけですんだ。しかし、夏井川渓谷はどうだろう。北向きの森の斜面はともかく、日当たりのよくない県道小野四倉線には雪が残っているかもしれない。

 冬場、渓谷の隠居へ行くかどうかは、山並みの様子を見て判断する。もう一つは、隠居の手前の小集落に住む友人がSNSに上げる情報だ。

5日朝、フェイスブックをのぞくと、雪が積もったのは県道から山に入った自宅周辺だけ、とあった。

県道には雪がない。山並みにも雪らしいものは見当たらない。5日は新年最初の日曜日である。いつものルートを利用して隠居へ出かけた。

 いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造の広域都市である。別の言葉でいえば、沿岸部と平野部、そして広大な山間部からなる。

 夏井川渓谷はマチとヤマの境目に位置するといってもいい。平野部が住宅の1階、山間部が2階だとすると、渓谷は1階と2階をつなぐ階段の「踊り場」だ。

標高は200メートルほどで、雪の降り方も平地とそう変わらない。ところがその先、ヤマになると雪が降ればすぐ銀世界に変わる。

渓谷の隠居へ通い続けて、今年(2015年)で満30年になる。30回も渓谷の冬を経験すれば、道路のどこが雪で危ないかは体が覚えている。

 行けるところまで行こう。道路に雪が残っていたら、そこで引き返す。隠居までの要注意ポイントは2カ所だ。

まずは平地から段丘に移り、さらに渓谷へと入っていくあたり、南側に杉林があって日がささない「地獄坂」がある。ここが最初のポイントだが、さいわい雪はなかった。

次のポイントは江田の手前のS字カーブ。あまり日がささないところでもあり、何度か圧雪状態を経験してきた。ここもふだんの路面と変わりがなかった。

ただ、道端にはかすかにまだら雪が残り、先へ進むにつれてそれが目立つようになった。

隠居に着くと、庭の一部に雪が残っていた=写真。日当たりは悪くはない。が、なぜかそこだけ雪に覆われている。

籠場の滝の下流から上流へと、谷底には巨岩が転がっている。それもすっぽり綿帽子をかぶっていた。北向きの対岸の森も林床が白く染まっている。

県道沿いの広葉樹がすべて葉を落としたために見通しがよくなった。それで谷底も、対岸の様子もはっきりわかる――。

と、これは日曜日の渓谷の様子だが、翌6日は午後遅くから雨になった。予報では会津を含む福島県全域が雨のマークになっていた。それも南西からの雨雲だ。この雨量では、隠居の庭の雪も消えたに違いない。

2025年1月6日月曜日

御降(おさがり)

                     
   元日は晴れ。2日は夜更けに雨が降った。3日も夜、少し雪が降ったらしい。

2日はトイレに起きて雨音に気づいた。3日の雪は日付が替わった4日未明、SNSで知った。

今年(2025年)最初のブログを投稿するついでに、X(旧ツイッター)とフェイスブックをのぞいたら、いわきのあちこちから雪の情報が上がっていた。

夜が明けてから周りを確かめる。雪が積もった気配はない。が、道路は少しぬれて光っている。いわきの言葉で「たっぺ」(アイスバーン)になりかけているようだった。

庭の車は、屋根にまだら雪が残り=写真、フロントガラスが凍っていた。日が昇ると、縁側のひさしから解けた雪が雨だれになって落ちてきた。やはり、3日の夜更けには平の神谷も雪になったのだ。

 4日は土曜日。仕事始めを行ったところもあるようだが、役所などは5日の日曜日を含めて正月休みだった。

この年末年始はいつになくのんびりした。カレンダーの巡り合わせがよかったのだろう。

元日付の市の広報は12月28日に配った。それから8日間は何もせずに過ごした。わが「初仕事」のごみネット出しは6日になった。

ということで、正月三が日の天気の話に戻る。俳句の世界では、三が日に降る雨や雪を「御降(おさがり)」という。新年の季語である。

出羽の国(山形県)に生まれ、磐城平の專称寺で修行し、幕末の江戸で宗匠として鳴らした俳僧に一具庵一具(17811853年)がいる。若いときにこの俳僧を調べたことがある。

昭和41(1966)年、村川幹太郎編『俳人一具全集』(同全集刊行会)が村山市で発刊された。

そのなかに「御降」の作品が6句ある。うち4句はこれまで何度かブログで取り上げた。残る2句を紹介する。

 

御降にやがて庭木の雫(しずく)かな

御降に心の花の匂ひかな

 

 1句目は御降がやんだあと、雪が解けて雫が垂れている様子を詠んだか。2句目は「心の花」が難しい。それが匂う、とはどういうことだろう。

ま、俳句はともかく、いわき地方ではずっと乾燥注意報が続いていた。それが1月2日夜9時過ぎにはいったん解除になった。

とはいえ、4日未明にはまた乾燥注意報が発表された(5日夜8時20分、解除を発表)から、2日の雨も、3日の雪も、ほんのちょっぴり空気を湿らせただけにすぎなかったようだ。

冬はこたつに足を突っ込んだままでいることが多い。どういうわけか、冬場はいつも右足のかかとにひびが入る。すでに師走からかかとにクリームを塗るのが日課になった。

これからは静電気にも悩まされる。車を降りてドアを閉めたとき、エレベーターホールの出入り口ドアを開けたとき、エレベーターに乗って「閉める」ボタンを押したとき、ビビッとなる。そんな「痛さ」がしばらく続く。

2025年1月4日土曜日

静かな正月

                      
   令和7(2025)年の干支(えと)は「乙巳(きのとみ)。年末に知人から手のひらにのる「ヘビ」の置物をいただいた=写真。

 知人は糸ノコで板を切り抜き、干支の動物をつくる。本体と台座にはマグネットがはめられている。それで、どこに置いても安定して立つ。

令和4年から置物が届くようになった。この年の干支は「壬寅(みずのえとら)」。木目をうまく利用してトラの黒い横縞を表現していた。

以来、ウサギ、タツノオトシゴと続き、正月はテレビの上で、その後はそばの本棚の上でかわいい姿を披露している。

さて、新しい年が明けた。元日のいわき地方は晴れ。海岸には初日の出を拝む人たちが繰り出したようだが、私は茶の間から東の空を仰いで1年の無事を祈った。

朝はいつものようにこたつで雑煮を食べた。去年(2024年)までは私ら夫婦とカミサンの弟を加えた3人だったが、今年は夫婦2人だけだ。

義弟はわが家の隣に住み、朝昼晩とわが家で食事をした。朝と昼は台所のテーブルで私ら夫婦と時間をずらして、晩は茶の間のこたつで私らと一緒に。

その義弟が11月初旬に亡くなった。喪中の新年である。いつもの年末だと、玄関に正月飾りを、床の間に鏡餅を供えるのだが、今年はそれを控えた。

 この2カ月、義弟の不在を実感する日々が続いている。病院へはカミサンが付き添い、私が送り迎えをした。その送迎がなくなったことで何か一つ歯車が欠けたような感覚になっている。そして、漬物。これがなかなか減らなくなった。

 義弟は私より1歳下の団塊の世代で、私と同じように夏場は糠漬け、冬は白菜漬けを好んで食べた

 わが家では、私が漬物をつくる。11月以降はしかし、甕から漬物を出す回数がゆっくりになった。

皿に入ったハヤトウリの糠漬けしかり。師走に入って漬け始めた白菜も減るのに時間がかかる。

白菜漬けは、3人で食べていたころは1日に一切れ(8分の1株)だった。ところが、2人になった今は、一切れが2日、ないし3日は持つ。

年が明けてやっと、漬けて2度目の白菜を口にするようになった。月に2回は漬けていたのが、3週間ないし1カ月サイクルになりつつある。

私はどうしても、漬物の減り具合から義弟が亡くなったことを思ってしまう。ご飯を炊き、味噌汁とおかずをつくってきたカミサンはもっとそうだろう。

いつもだと、元旦にはあらたまってあいさつを交わす。「おめでとうございます」。これが消えた。義弟は彼岸に渡ったのだと、あらためて思う元日の朝だった。