2025年12月13日土曜日

「菌類世」?

毎日2千歩前後は歩くと決めてからは、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館へ行く、スーパーのマルトへ行くというとき、「ラトブ散歩」「マルト散歩」を意識するようになった。

 それまでは目当ての本や品物には一直線に向かい、手にしたらすぐ貸出機やレジに直行する。ほかは見向きもしなかった。

しかし、一直線だけが時間の使い方ではない。図書館にはおびただしい本がある。マルトにもたくさんの商品がある。

世代や男女、仕事や趣味、その他もろもろの需要にこたえるための本が、商品が用意されている。

頭ではわかっていても余計な時間はかけたくない、いつもそんな意識がはたらいていた。

散歩しているのだと思えばいい。最近はそんなふうに意識を切り替えて書架をながめ、商品棚をチェックする。

一直線のときにはこんなこともあった。マルトでは私がカートを動かす。レジの列に並ぶと、なぜかカミサンがいなくなる。

どこへ行ったのかな――。いぶかっているうちに、レジの順番がくる。こちらは財布を持っていない。どうするんだ。内心焦っているところへカミサンが戻って来る。突然買うものを思い出すのだそうだ。

一直線から散歩感覚に切り替えたのには、これもあった。入館・入店したときから健康を意識してフロアをあちこち移動する。

ラトブでは図書館だけでなく、階下の書店やショップもぶらつくことが増えた。買うかどうかはともかく、なにがあるのかを「ラトブ散歩」で確かめる。

ほかの大型店へ行ったときにも散歩感覚で店内を巡る。それで100円ショップでは「数独」の練習帳を売っているのを「発見」した。

図書館の話に戻る。ラトブの総合図書館は、4階が子どもと生活・文学フロア、5階がいわき資料と歴史・科学フロアだ。

これまでは一直線のほかはカウンター前の新着図書コーナーをのぞくだけだった。最近は5階も4階も巡り歩く。

そうした「ラトブ散歩」で自然科学系の書架から見つけたのが、キース・サイファート/熊谷玲美訳『菌類の隠れた王国――森・家・人体に広がるミクロのネットワーク』(白揚社、2024年)だ=写真。

現代の地質年代を「人新世」と呼ぶ言い方がある。しかし、「私たちの住む世界は菌類の世界である。(略)人類の影響がどれだけ大きくても、菌類の影響にはとてもかなわない」(序文=ロブ・ダン)。

で、現在は「『菌類世』とも呼ぶべき大きな時代の、風変わりな一時期」なのだとか。「菌類世」? ロブ・ダンはそういう視点で本書を読むことを勧めている。

 本書は、菌糸体の特質を応用した新素材・新製品、菌類の代謝産物から生まれる新薬・石油化学製品の代替製品、プラスチック分解……。マイコテクノロジー(菌工学)の可能性にも言及する。

散歩は夏井川の堤防であれ、図書館であれ、予期せぬ出会いを秘めている。そこがおもしろい。 

2025年12月12日金曜日

終活・朝活・脳活

 パッと思い浮かぶ「○活」がある。終活・朝活・脳活。若い人なら終活よりも就活、そして婚活だろうが、後期高齢者は部屋の片付けさえ即、終活になる。

 先日、座いすのわきに山積みにしておいた資料の整理をした。カミサンが座卓にこたつカバーを掛けるため、資料を移動して掃除機をかけた。それに合わせてダンシャリせざるを得なくなった。

 ブログを書くのに必要だからそこに置くのだが、終わってもそのままにしてしまう。「何年も前の資料まで必要なの?」ということで、春にこたつカバーを外すときも含めて、年に2回は資料の整理を余儀なくされる。

言われたとおりに振り分ける。あらかたはごみ袋行きになる。「これだって終活だから」。確かにそういう年齢になったのだと、妙に感心する。

当たり前の片付けが「終活」を兼ねるとなれば、甘い判断はできない。「もうこれはいい」。わりと厳しくダンシャリをする。

朝活は、カミサンが足の神経痛で横になっていたとき、店の開け閉め、ネコのエサやり、ごみ出しを「代行」したことから意識するようになった。

炊飯、料理はそのままカミサンが担当しているが、それ以外のことは指示されれば従う。

最近の習慣としては、早朝、カミサンを近所の接骨院へ送っていく。前は連絡がきて迎えに行ったが、このごろは送るだけでよくなった。

そもそも、朝は4時半には起きる。早寝だから早起きになるのは当然だ。起きるとノートパソコンを開き、翌日以降にアップするブログの原稿を入力する。

当日のブログは真夜中、一度目が覚めたときに起きて、日付が替わったことを確認してアップする。そして、遅くとも9時ごろまでには朝活(家事手伝い・入力)を終える。

日中は区内会その他、地域の用事があればそれをこなし、週に1~2回はいわき駅前の総合図書館へ行き、帰りは夏井川の堤防経由でハクチョウをウオッチングする。

堤防は工事のために通行止めになっていたが、11月30日で終了し、師走に入ると自由に行き来できるようになった。

朝9時以降はひとまず自由時間だが、ブログの仕上げと調べもの(ネット検索)をし、読書と「数独」(ナンプレ=ナンバープレース)を交互に繰り返す。散歩にも出る。

「数独」は脳活になるというので、今年(2025年)2月に始めた。まずは初級である。ルールを覚えながら、少しずつ慣れていった。

90歳になる近所のおばさんが数独をやっている。「慣れよ、慣れ」。その言葉を信じて続けたら、今では中級を越えて上級に挑戦する気持ちがわいてきた。まだ壁は厚い。が、攻略できたときの達成感は、ハンパではない。

新聞にもよく数独の問題が載る=写真。なにが脳にいいかというと、まず記憶力がアップするらしい。

   10カ月のビフォー・アフターでいえば、モノ・ゴトの記憶の輪郭がはっきりしてきた。やはり脳活にはなっているようだ。 

2025年12月11日木曜日

「きょうは来ないの?」

                                         
 毎月第2・第4火曜日に「いいのみんなの食堂」が開かれる。9月の第4火曜日、スタッフに加わっている知人から連絡があって、初めて出かけた。以来、月2回は「カミサンが夕食をつくらなくてもいい日」にして通っている。

11月の第2火曜日は昼、カミサンが「女子会」に参加するというので、マチへ送って行った。

 終わって迎えに行くと、余った食べ物と、「通りで売っていたので買った」というサラダ白菜を持っていた。

 「みんなの食堂」に行く時間(夕方4時過ぎ)になると、「行くの?」という。持ち帰った食べ物を含めて、おかずが余っている。

 それを食べれば、カミサンは夕食をつくらないですむ。老夫婦2人だけでは、余ったおかずを食べるだけでも大変だ。ここは「みんなの食堂」へ行くのを休んでおかずを始末しなくては――となった。

 するとほどなく、知人から電話が入った。「きょうは来ないの?」。行かない理由を説明する。「おかずが余って、それを食べちゃわないと」

 11月の第4火曜日は、その2日前の日曜日にイベント兼ねて実施する、ともいう。「日曜日は刺し身なんだよ」。というわけで、11月は2回とも「みんなの食堂」へ行くのを休んだ。

 そんな電話があったあとだけに、夜は少し厳粛な気分でおかずを食べた。おかずは女子会で出たてんぷら、ドレッシングをかけたサラダ白菜とキュウリ、前日からのおからの煮物、朝の残りの味噌汁=写真。

 焼酎のつまみとしては余るほどだ。おかげで、いつもよりは少し焼酎の量も増やし、時間をかけて残さずに食べた。

 サラダ白菜は初めてだった。定期的に届く特製のドレッシングがからみあって、いい味になっていた。レタスやキャベツよりサラダ白菜の方が私の口には合っているようだ。

 このごろはどういうわけか晩酌のおかずが多い。先日量ったら、体重が増えていた。食べ過ぎの自覚があったので、「やっぱり」である。

 11月をパスしたあとの、師走第2火曜日。「みんなの食堂」の日が近づいたある日。知人から「9日は『おにぎりと豚汁』くらいになる、それでもよかったらどうぞ」というメッセージが入った。

 実は、食べる方は抑えてもいいかなと思っていたときだけに、喜んで出かけた。豚汁は、今まで口にしたことのない新感覚の味だった。

子どもたちのお母さんといえば、30~40代だろう。私らから見るとわが子よりは若い世代である。その若い世代がつくった豚汁だという。

カミサンが直接その女性においしかったことを伝えると、大喜びしていた。こういう交流も「みんなの食堂」ならでは、なのだろう。

2025年12月10日水曜日

後発地震

                                              
 夜中に一度目が覚める。12月8日は深夜の11時15分、ユラユラ長く揺れる地震と同時に覚醒した。いやな揺れだった。

 トイレから戻ってテレビをつけると、北海道から東北の太平洋沿岸に津波警報・注意報が出されていた。

ほどなく市から貸与されている防災ラジオも、海岸や河口付近にいる人はただちに退避を――と呼びかけた。放送は何回も繰り返された。

 やがて気象庁から「北海道・三陸後発地震注意情報」が発表された。後発地震? そうだった。3・11の東日本大震災がそれだった。

 3・11の2日前、マグニチュード7.3の大きな地震が発生した。今思えば「前震」だ。そのあと、マグニチュード9.0の超巨大な「本震」がきた。「後発地震注意情報」はそれを機に新設され、今回初めて発表された。

 自分のブログでこの注意情報の運用方法について触れていないか検索したらあった。

令和5(2023)年1月に回覧網を通じてチラシを配布していた。忘れていた。後発地震の怖さを再確認するためにも要約・再掲する。

――令和4(2022)年12月16日、「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が始まった。それを知らせるチラシ=写真=が同5年1月、回覧網を通じて隣組に配られた。そこで「前発地震」と「後発地震」を知った。

本震のあとに余震がくる。これは一般の人でも承知していることだ。が、本震の前にも地震があることを、東日本大震災のときに初めて知った。

平成23(2011)年3月9日は水曜日だったが、たまたま夏井川渓谷の隠居にいて、揺れを体験した。

間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたか、と思うくらいに、揺れは外からやってきた。

「地震かな」。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。「やっぱり地震だ」。横揺れだった。長かった。

こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。県道も含めて、しょっちゅう落石がある。

地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

ラジオ(NHK)はすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え、臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた。

これといった被害はなかった。それもあって、ブログをアップした翌11日、千年に一度ともいうべき超巨大地震に見舞われるとは思いもしなかった――。

 後発の巨大地震が必ず起きるというわけではない。が、起きる可能性もあるということである。

少なくともこの1週間は3・11の記憶を反芻しながら、しかしいつものように日課をこなそうと思っている。

2025年12月9日火曜日

渓谷のあの店が…

        
 磐越東線の江田駅(旧江田信号場)といえば、眼下の県道沿いに立つ朝日屋である。江田駅と朝日屋は、私の中では常にセットで記憶されている。

 それをはっきり自覚するようになったのは、平成7(1995)年以降だ。この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日には地下鉄サリン事件が起きた。

さらに(これは個人的な出来事だが)この年、5月末から義父が建てた渓谷の隠居へ通い始めた。

毎週土曜日夕方、ひとり車で朝日屋の前、つまりは江田駅の下を通って牛小川の隠居へ行く。

カミサンはたまに翌日曜日、一番列車で平(現いわき)駅から江田駅までやって来る。私は車で迎えに行き、朝日屋のそばの駐車場でカミサンが階段を下りてくるのを待つ、ということを長年続けた。今は日曜日、夫婦2人だけの隠居通いである。

江田駅は、ハイカーが背戸峨廊(セドガロ=夏井川支流の江田川)に入渓するための降車駅でもある。帰りはもちろん同駅から列車に乗る。

朝日屋は食料品店兼食堂だった。ハイカーや行楽客が食事をし、食料品を買い求める店でもあった。

 いつだったか記憶が定かではないが、食堂が営業をやめ、それを知らずに入った私は、代わりにカップヌードルを買って店を出た。

 それからしばらくたって、といっても2~3年前までは開いていたようだが、食料品店もやめて建物が残るだけになった。

渓谷へ通い始めたころ、私らはまだ40代だった。朝日屋のご夫婦は、私たちの親よりは少し若い年代のようにみえた。

 その朝日屋に防塵ネットが張られ、重機が入って建物を解体し始めたのに気づいたのは11月30日。

 その1週間後、隠居からの帰りに見ると、かなり解体が進んでいた=写真。14日の日曜日には、更地になっているかもしれない。

解体風景を見て、江田駅にまつわる思い出がよみがえった。まだ信号場時代のことだ。高専の夏休みが始まるのに合わせ、同級生数人と一緒に汽車で中通りの実家に帰省した。

途中、江田信号場で1人の女子高生が下車した。車内で声をかけたのかどうか、同級生の1人がえらく彼女に興味を示した。

あとで付き合いを始めたか、いやそこまではいかなかったか。そのへんは記憶もあいまいだが、車内ではその女子高生の話で大いに盛り上がった。

江田信号場経由で背戸峨廊へ入渓したときには、偶然、小名浜の従妹(いとこ)を含む他校生と一緒になった。

もしかしたら朝日屋へ寄ったかもしれない。が、なにしろ60年前のことで、記憶は既にもうろうとしている。

その朝日屋が姿を消す。江田駅とセットの朝日屋にまつわる記憶も、あらかたは「更地」になってしまうのかもしれない。

まだ建物の残像が生きているうちに、自分自身のために、朝日屋の思い出をブログに残しておこう。そんな気持ちがわいたのだった。

2025年12月8日月曜日

ハンドウォーマー

「あったかソックス」(商品名「まるでこたつソックス」)をはいて一晩寝た経験からいうと、就眠中の足の冷えはこれでなんとかなる(もちろん冬場は湯たんぽも使う)。

 次は手だ。義弟は晩年、指先のない手袋を常用していた。「あったかソックス」から義弟の手袋を思い出し、カミサンに言うとすぐ遺品の中から取り出して来た=写真。

 名前を何というのだろう。検索すると「指なし手袋」「指なしグローブ」「ハンドウォーマー」といった名前が現われた。「指なし――」は使いたくないので、「ハンドウォーマー」でいく。

ハンドウォーマーはほとんどが手首の上まであるタイプだ。義弟のそれは毛糸で編まれたもので、ぎりぎり手首までしかない。

このハンドウォーマーをはめてノートパソコンを使ってみると、手のひらがキーボードの冷たさを全く感じない。

パソコンを使うのは検索とブログの原稿入力が主なので、冬場はこのハンドウォーマーが重宝しそうだ。

義弟はパソコンもケータイもやらなかった。私と同じように心臓の薬を服用していた。それで冬になると手足が冷えて困っていたのかもしれない。

今ごろになってそのことに気づき、カミサンに言うと「手の甲の内出血痕を人に見られたくなかったのかも」。手の甲だけすっぽり隠れる形状を見ると、それもあったのだろう。

冬は3つの「首」を冷やさないような対策が必要だという。「あったかソックス」の包装袋には、「足首、手首、首は血流のポイント、ここが冷えると体全体の冷えを呼んでしまう」とあった。

足首は「あったかソックス」、手首は「ハンドウォーマー」、首は「マフラー」。それで少しでも体の冷えを防ぐ。

 今は布団から抜け出したあとがちょっときつい。部屋の空気は冷えびえとしている。明かりをつけ、電気マットをオンにして、石油ストーブに火をつける。

 これだけのことなのに、素手では冷たい。手袋があるといいな――。言葉にすると、そんな感じの毎日だ。

 日中もこの思いは変わらない。いくら電気マットを付けて、毛布で足をくるんでも、指先はひんやりしている。これをなんとかしたい。

そこに「あったかソックス」が手に入り、義弟の「ハンドウォーマー」が加わった。ハンドウォーマーはもっと手首が隠れるのが欲しい。

手甲まではいかなくても、手首から5センチほどは腕を包むタイプがいい。そういう手袋を買ったが、まだ納得はできないでいる。

 これまでは、こうしたグッズに無頓着だった。しかし、使ってみるとはなはだ都合がいい。晩酌を始めると手指に温かさが戻っているときがある。

 ついでながら――。ある朝、散歩から帰ると、座いすのそばの資料がわきによけられ、カミサンが掃除機をかけていた。

 そのあと、座卓にこたつカバーが掛けられた。足の冷たさはこれでさらに緩和された。「強制代執行」をしないとカバーは掛けられない、と踏んだらしい。 

2025年12月6日土曜日

置き干し柿をもむ

                                
   干し柿をつくっている、というのは正確ではない。干し柿ができるのを待っている、というべきか。

庭に落ちていた渋柿の皮をむき、軒下につるすのではなく、屋内で浅いざる(直径47センチ)に置く。手抜きでも干し柿はできるのではないか、とひらめいた。

これは、そうして「置き干し柿」を始めてから1カ月近い「中間報告」でもある。

ざるは2階の窓際に置いた。それが11月11日。以来毎朝、様子を見に行く。最初の1週間はこんな具合だった(11月18日のブログから)。

――ちょっとした振動、たとえば地震、あるいは家の前の道路を大型車が通ると、すぐコロリとなる。で、毎日、置き場所を探りながら並べ直す。

揺れを感じなかった日でも、なにかが影響するのか、1個か2個はコロリとなっている。

小さな泡を吹いている傷口もあった。果肉がとろけそうになっている。これがざるにくっつくと厄介だ。

ざるも時々、半回転させる。曇りガラス越しとはいえ、光がまんべんなく当たるようにする――。

柿がコロリとなるのは、振動もあるのだろうが、柿自身の変化が原因かもしれない。

というのは、水分が抜けるにつれて、柿はやわらかくなる。すると重力の影響か、ひしゃげるように変形したものが出てくる。それでバランスを崩すのではないか。

簡単にいうと、しっかりした円錐形がつぶれた台形、あるいは先端がひしゃげたとんがり帽子のようになる。

それで絶えず11個の柿を、ざるの角度に合わせながら並べ替える。ざるもときどき回転させる。

干し始めて10日もたつと、かなりやわらかくなってきたので、もんで形を整えた。そうすることでバランスもよくなる。

月が替わり、師走を迎えたころには、倒れる柿はなくなった。色も朱赤色から茶黒っぽく変色してきた。ここまでくると、もう仕上げを待つばかりだ。

12月4日朝、家が揺れた。最初ドンとなってグラグラッときた。震源はいわき市の好間ないし閼伽井嶽あたり。震度は2だった。

すぐ干し柿を見に行く。大丈夫だった。ついでにざるごと台所に戻し、軟らかくなった干し柿は1個ずつラップに包んで冷凍室に入れる。

傷があって一部やわらかかったものは、硬くなるのも早い。果汁もしみ出して、ざるの下の台紙まで濡らしていた。これが2個あったので、カミサンと試食をした。ほんのり甘かった。

正月用には4~5個もあれば十分。残りは、だれというわけではないが、客人に食べてもらおう。

 干し柿は人間がつくったというよりは、冬の空気と時間が生み出したもので、人間はその手伝いをしただけ。

「置き干し柿」は文字通り、「置く」だけにした手抜き干し柿だ。それでも軒下につるした干し柿と味にそう違いはなかった。

2025年12月5日金曜日

フロントガラスに「ザラメ雪」

                               
   夜中に一度起きる。日が替わったのを確かめてブログをアップする。

起きると玄関の先が闇夜の中でうっすら明るかった。窓のカーテン越しに庭を見ると、月明かりの中で車が、庭木が浮かび上がっている。12月の満月は5日。明るいはずである。

それから4時間後。二度寝のあとに布団から抜け出して、玄関を開けて新聞を取り込みながら庭に出る。雲が出ているのか、星は見えない。霧雨が漂っていて、眼鏡に水滴が付いた。

夜が明けると次第に東の空が赤く燃えてきた。晴れるのだろう。雲はとっくに消えていた。

庭はふだんと変わらない。が、車の屋根とフロントガラスがうっすら雪をかぶっている=写真。義弟が住んでいた南隣の家の屋根も白い。

霧から雪になったのか。としたら、いわきの平地にも早い「初雪」が降ったのだ――。きのう(12月4日)のことである。

カミサンは足のマッサージのために、一日おきに接骨院へ行く。前は車で送迎したが、最近は送っていくだけだ。マッサージが終われば歩いて帰って来る。

早い朝食後、接骨院へ行くために車のエンジンをかける。ワイパーでフロントガラスの雪を払おうとしたら、「ガガガガ―」ときつい音がした。

なんだ、これは! フロントガラスに張り付いたのは、乾いた粉のような雪ではなく、凍った「ザラメ雪」だった。すぐやかんのお湯をタオルに注いで、フロントガラスの「ザラメ雪」を解かした。

それから2時間ほどたつと、隣の駐車場で人声がした。やはりワイパーを回して、「なんだ、これは!」となったのにちがいない。

フロントガラスの「ザラメ雪」を解かすのに手間取ったことだろう。そんな驚きと戸惑いの光景が、いわき市内各地で見られたのではないか。

カミサンが接骨院から戻って来て「報告」した。車や屋根の「雪」は、天から降ってきたのではなく、霧雨が未明に凍ってザラメ状になったものらしい。接骨院での話である。なるほど。

すると、これは霜と同じではないか(以下は、それからの憶測)。検索すると、霜とは冷たい地面や物体に接した空気中の水蒸気が直接氷の結晶となって付着したもの、とAIが回答する。

畑の大根の葉が冬の朝、霜をかぶって白くなるように、車も家の屋根も水分でぬれていた表面が凍り、そこに空気中の水分が霜となってかぶさったのだろう。車のドアの取っ手はその点、霧雨が凍結しただけのようだった。

アスファルト道路は車や家の屋根よりは保温性があるらしく、ザラメ状にはなっていなかった。運転には支障がなかった。

西の阿武隈の山並みも、最初は雪をかぶっているにちがいない、そう思ったが、いつもの初冬の姿だった。やはり庭では冷え込みによる凍結と霜が重なったのだ。

2025年12月4日木曜日

白菜を漬ける

                                
 11月下旬の連休最終日、前日に引き続き夏井川渓谷の隠居へ出かけた。モノを運ぶだけだったので、すぐ川前から差塩(さいそ)の山越えルートで三和に下り、三和ふれあい市場で買い物をした。

 例年、11月下旬にはふれあい市場で白菜を2玉買う。シーズン最初の白菜漬けは三和産で――。これをほぼ踏襲している。

 理由は簡単だ。この時期、山地の白菜は平地の白菜よりは甘い。霜が降りる時期になって、畑の野菜は凍るのを防ぐために糖分を蓄える。冬の到来は平地より山地が早い。

 ならば同じ山地の川前の白菜でもいいのではないかとなるのだが、これはもう好みというしかない。親せきが上三坂にいる、高専の仲間にも三坂出身者がいた、ということも作用している。

 山が冠雪すると差塩の山越えルートは使えない。国道49号を利用してふれあい市場へ直行するのも、道路の冠雪・凍結を考えると怖い。というわけで、山越えルートを使うのは今回だけかもしれない。

 白菜は1玉を8つに割り、天日に干してから漬ける。計16割り。夫婦2人だけなので、これを食べきるには、1カ月はかかる。

春の終わりの大型連休のころ、糠漬けに切り替える。それまで4~5回は白菜を漬ける。

真冬には平地の白菜も甘みを増す。そうなればどこでもいい。どこかの直売所を訪ねたときに白菜も調達する。

さて、今季最初の白菜漬け込みである。夕方まで晴れる日を選んで、朝方、縁側に白菜を干した=写真上1。

夕方には漬け込む。そのために、甕(かめ)を洗い、ユズの皮をむいてみじんにし、乾燥した柿とミカンの皮、昆布、鷹の爪、食塩を用意する。これは待ったなしの作業だ。

白菜は重さが何キロだから食塩は何グラム、なんて計算はしない。もう指が覚えている。少なくともここ数年は「手分量」でやっている。

漬け込みには台所のいすとテーブルを利用する。いすに甕を置く。テーブルに白菜を置く。もう1つのいすに座って、白菜を手に持ち、葉を1枚ずつ開いて食塩を振る。  

甕の底が見えなくなったら90度回転し、同じ要領で白菜に食塩を振る。2段目もふさがったら、また90度回転して残りの白菜に食塩を振る。

その都度、風味用のユズと殺菌用の鷹の爪を散らし、昆布とミカン・柿の皮などを加える。

甕は、台所には置かない。そこだと明るすぎる。北向きの階段下に据える。甕を移してから、重しを2個のせる。これで漬け込み作業は完了だ。

金曜日(11月28日)に漬け込んだのが、翌日には早くも湿り、翌々日には水が上がったので、重しを1個減らした。

さらに押し蓋の上まで水が上がったことから、師走初日の朝、1切れを取り出して食卓に出した=写真上2。

食塩はまだなじんではいなかったが、白菜には甘みがあった。期待通りだった。これで漬物は当分買わずにすむ。

2025年12月3日水曜日

さわやかな日本晴れ・下

                               
   11月30日の日曜日も前日に引き続き、さわやかな日本晴れになった。夏井川渓谷の隠居へは少し早めに出かけ、生ごみを畑に埋めたあと、磐越東線に沿って上流の小野町へと車を走らせた。

 29、30日と同町で磐東線の「小野新町駅開業110周年記念イベント」が行われた。同駅では「小野新町駅今昔写真展」など、駅から少し離れた同町多目的研修集会施設では「東方文化堂ギャラリー」などが開かれた。

 東方文化堂(磐越東線ギャラリー)は同駅裏の県道沿いにある。古物商の渡辺伸二さんが運営している。

 渡辺さんは磐東線を利用して平工業高校に通学した。それがきっかけかどうかはわからないが、筋金入りの鉄道マニアである。同町にUターンすると、自宅兼店舗に東方文化堂を開設した。

平成19(2007)年には『磐越東線ものがたり 全通90年史』を出版している。この本には世話になった(3年前、改訂増補版が出た)。

令和3(2021)年4月下旬、東方文化堂を訪ね、渡辺さんから説明を受けた。そのあと、渡辺さんに場所を聞いて町なかの渡久製菓から「ぬれ花まめ」を買って来た。

最近では、郡山市で発行されている月刊タウン誌「街の灯(ひ)こおりやま」に「磐越東線 各駅停車散歩」を連載した。毎回、渡辺さんから掲載誌の恵贈にあずかった。

駅も、多目的研修集会施設も、人でごった返していた。駅そばの駐車場に入ると、カミサンがホームの待合室を撮影した=写真上1。

この駅のホームには思い出がある。10年前の「小野新町駅開業100周年」のときにも触れた。それを再掲する。

――4歳か5歳のころの、磐東線にまつわる最初の記憶。祖母に連れられて、汽車で平のおばの家を訪ねた。

磐東線は今も単線だ。小野新町駅で平からやって来る汽車を待っていたのだろう。あまり待ち時間が長いので、ふらっとホームに出たら地下通路の階段が見えた。そのままトントンと下りて、駅の改札口の方へ上りかけたとき、連れ戻された。

地下通路の不思議な感じと、だれかに呼び止められて振り返った光景が頭に残っている――。

イベント会場では磐東線に関するグッズや写真、その他の資料が展示されていた=写真上2。

渡辺さんの案内で展示物を見て回った。さすがは「磐東線博士」である。どんな質問にもよどみがない。

 前に会ったとき、カミサンは「ぬれ花豆」の店を聞いた。今回は豆腐である。どこに豆腐屋があるか尋ねると、町役場の近くに新菊とうふ店があるという。そこから豆腐5丁を買って戻った。

2025年12月2日火曜日

さわやかな日本晴れ・上

                                
 さわやかな日本晴れだった=写真上1。午前中こそ風があったものの、午後になるとほとんど凪(な)いで、出歩きたい気分になった。

 11月29日、土曜日の午後。いわき市文化センターへ出かけた。泉彩華会絵画展と、同サークルの指導者だった故冨田武子さんの遺作展が30日まで開かれた。

たぶん最後の遺作展である。冨田さんの作品をこの目に焼き付けておこう、そんな思いもあった。

 冨田さんが指導してきたもう1つの絵画サークル、「ボタニカルアート泉」の作品展でも遺作展が開かれた。

冨田さんのボタニカルアート作品はいわき民報紙上でなじんできた。画家であると同時に、いわきキノコ同好会の会長でもあった。

泉彩華会展でも、キノコと植物を組み合わせた作品や、子どものころから親しんできた馬の絵が展示された。

冨田さんにはキノコ同好会で指導を受けた。やはり、キノコの作品に目がいく。「9月の森は忙しい」と題された大作は、中央にタマゴタケが配されていた。

ほかに、ムラサキシメジらしいもの、オチバタケの仲間らしいものが描かれた作品もあった。

なかで、強くこちらに迫ってくる作品があった。枯れ木に張り付いたカエルの卵塊のようなキノコで、実見したことはない。

年末の同好会の総会・勉強会で、会員がこのキノコを紹介した。拙ブログから、勉強会(2018年)の中身を抜粋・再掲する。

 ――勉強会は、橋本和昭さん(須賀川市)が担当した。主に観察会でのキノコを写真とともに紹介した。

阿武隈の山々では除染名目で森林の改変が行われた。それで、ある村では福島県で絶滅危惧Ⅰ類のセンボンキツネノサカズキ=写真上2=が消滅の危機にある。

橋本さんたちは緊急避難的にセンボンキツネノサカズキが発生した倒木を別のところへ移した。

その倒木の養分を食べつくしたら、センボンキツネノサカズキはどうなるのか。除染か保存かの二者択一ではなく、除染も保存も、の折り合いのつけ方はできなかったものか――。

このセンボンキツネノサカズキを描いたと思われる作品が2点あった。ミズナラなどの倒木に発生する美しい珍菌で、主に北海道で見つかっていることから、北方系のキノコなのかもしれない。

人知れず生まれて消えていくものがある。そうした菌類をいとおしむ冨田さんの思いが作品から伝わってきた。

ついでながら、ウィキペディアでは阿武隈の発生地を「川内村」と具体的に表記している。

2025年12月1日月曜日

指が生えかわる?

                                           
   図書館で、寝床で読む大活字本を探していたら、田部井淳子さんのエッセー集『山の頂の向こうに』が目に止まった=写真。

田部井さんは女性として初めてエベレスト登頂に成功した。田村郡三春町がふるさとだ。私は同じ田村郡の常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育った。「田村郡」のくくりでいえば、同郷の大先輩である。

大活字本は、小説だとページを繰る回数が多くなる。エッセーはその点短いので、1つひとつ読み切るのにそう時間はかからない。いいところで睡魔がやってくる。で、この本を借りた。

なぜ田部井さんの本か。田部井さんをモデルに、吉永小百合さんが主演した映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」が公開された。それで、ネットを含むメディアの情報が脳内にインプットされていたようだ。

田部井さんが女性だけでエベレストに遠征し、登頂に成功したのは1975年。今年(2025年)はそれからちょうど50年に当たる。

とりあえず寝床で読み始めると、これがおもしろい。本を持つ手の力がスーッと抜けるときもあれば、読み続けて1時間が過ぎ、2時間がたつこともある。

 映画の原案は田部井さんの別の本、『人生、山あり“時々”谷あり』である。ネット情報だけでいうのもなんだが、『山の頂の向こうに』の続編とでも呼べるエッセー集のようだ。

 『山の頂の向こうに』でも触れているが、「“時々”谷あり」は、たとえば子どもの成長に伴う行動の振幅の大きさなどを指しているのだろう。

『山の頂の向こうに』で最も強烈な印象として残った出来事を紹介する。田部井さんは1981年、チベットのシシャパンマ(8012メートル)を登頂したあと、左足の指が凍傷にかかる。その顛末がすさまじい。

キャンプに戻って足をお湯につける。「凍った指がだんだん解凍していく時の痛さは、とても言葉には表現出来ない」。これだけでも驚きだが、さらに事態は深刻化する。

 北京の病院は切断するかどうかという判断だった。「切るのは嫌だ」とそのまま帰国して、日赤病院で1本1万5千円の注射を2回打ってもらう。もしかしたら、これが効いたか。

 自宅で走り回る長男をつかまえ、おむつを取り換えようとして、田部井さんは転ぶ。そのとき、凍傷の足を包んでいた包帯がポロリととれる。

「キャーッ黒い指がない。なんと黒い部分だけ包帯にくっついているではないか。なかから生まれたばかりの赤ちゃんの指のような、赤い細い指が現われている。爪はない」。ドクターに電話すると、「よかったですね。切らずにすみましたね」。

 指が再生した? それから足の指を鍛えるためにジョギングを始める。それを知った知人の世話で翌年、青梅マラソンに出場し、30キロを完走する。青梅マラソン出場の裏にはこんな奇跡と努力があったのだ。

2025年11月29日土曜日

豹変いや猫変

                                 
 大活字本の動物エッセー、群ようこ『ネコの住所録』は、2匹の近所の猫について書いた「二重猫格」から始まる。

人間の「二重人格」になぞらえて、通行人と飼い主とでは態度をガラリと変える猫のことを「二重猫格」と表現した。

首輪をした黄色いオス猫の「ゴン」は道路に突っ伏して死んだふりをする。通行人はびっくりするが、飼い主が声をかけると「ニャーン」としっぽを振って家の中に入る。

大きな家の立派な門の中にミカン箱のベッドを置いてもらい、ドテッと横になっている「ブタ夫」(キジトラのオス=「チャーリー」という名前が付いている)は、通行人が声をかけても「ブニャー」と押しつぶした憎たらしい声で鳴くだけだが、飼い主が声をかけると「ニャー」と言って起き上がる。

このエッセーを読みながら、わが家の「さくらネコ」の「ゴン」(キジトラ)と「シロ」(全身が真っ白)のふるまいを思い出した。

飼い猫ではない。地域猫で、カミサンがキャットフードをやると、まずゴンが縁側にすみつくようになった。

最初は段ボール箱、ついで「えじこ」(人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)をベッドとして用意した。

あとから来たシロは最初、どこかのお嬢さんみたいにとりすましていたが、ゴンよりは年かさらしく、なにかというとゴンを威嚇する。

カミサンはそれでゴンを応援することが増えたのだが、猫同士の力関係を変えるまでにはいかない。

シロは、人間に対しても横柄なところがある。ゴンは玄関のたたきにある踏み台にお座りをして、時折、物欲しそうに「お手」をしてこちらを見る=写真。

シロはそんなことはしない。ちょっと目を離したすきに茶の間に上がり込む。「コラッ」。一喝すると、脱兎のごとく庭に走り去る。

それだけではない。シロはゴンのベッドを奪った。カミサンは新たにゴンのベッドをつくってやった。

カミサンが足の神経痛に見舞われた時、私が代わってえさを与えた。今も時々、代行する。

すると、私を避けて突っ走り、少し先からこちらを振り返って見ていたシロが、だんだん距離を縮めて、今では「ニャー」と鳴くまでになった。11月に入ると足元にすり寄って一周までした。

君子は豹変する。その「豹変」と「二重猫格」から思い浮かんだ言葉が、シロの「猫変」ぶりである。

えさをやるのは朝と夕方の2回だ。夕方は特に「えさ、ちょうだい」の鳴き声が玄関先で繰り返される。

それだけではない。先日も縁側の方からうなり声が聞こえた。やはりシロである。ゴンを縮み上がらせている。なんだか白雪姫をいたぶる王妃みたいだ。

2025年11月28日金曜日

「ウ・サギ」

                                
 「ウサギ」は「ウ」と「サギ」に分けられる――なんて思ったわけではない。逆である。鳥のウとサギを並べると「ウサギ」になる。で、いちおう間に「・」(中黒=なかぐろ)を入れて「ウ・サギ」とした。

 神谷の夏井川にハクチョウが飛来してから1カ月。朝晩、わが生活圏をハクチョウが鳴き交わしながら飛び交うようになった。

 いわきの夏井川では三島(小川町)、平窪(平)、新川合流部の塩~中神谷(平)の3カ所でハクチョウが越冬する。

 塩の場合は下流のサケのやな場がある調練場(平中神谷)まで、ばらけるようにしてハクチョウが見られる。

 今年(2025年)は10月17日に「孫」の父親が平窪への初飛来を確認した。私はそれから1週間ほどたった25日に調練場で初めてハクチョウを確認した。

 それまでが大変だった。今年はどういうわけかハクチョウの越冬地にダイサギやアオサギが何羽もいる=写真上1。白い大型のサギをハクチョウと見誤ることがたびたびだった。

 三島では9月後半から、三島橋の上・下流で複数のダイサギが見られるようになった。ここでも何度か、ダイサギをコハクチョウと誤認した。

9月28日は朝、早めに家を出て8時ごろに三島を通過した。驚いたことに、三島橋直下の浅瀬にダイサギの大集団がいた。どこか近くにねぐらがあって、朝の食事にやって来たのだろう。

 三島や中神谷ばかりではない。夏井川を渡って平市街に入るとき、常磐線と並行する平神橋を渡る。その下流には国道399号(旧国道6号)の平大橋がある。この橋もちょくちょく利用する。

どちらかの橋を渡りながら、チラッと夏井川を見る。ときには上流にも下流にもダイサギがいる。

カワウも負けてはいない。週末は堤防の改修工事が休みになる。11月2日の昼過ぎ、マチからの帰りに堤防を利用すると、並列する川岸の波消しブロックの上にカワウがずらりと並んでいた=写真上2。

8月31日の夕方。同じように国道399号を帰ると、黒い隊列が見えた。車と同じ東の方向に飛んで行く。62羽ものカワウの大集団だった。

福島県によると、夏井川河口の横川にカワウのコロニーがある。そこへ帰る途中だったか。そのとき以来の衝撃だ。

「ウ・サギ」と夏井川。川には魚がいっぱいいる、というサインなのかどうか。釣りをしない人間は、ただただ「ウ・サギ」と語呂遊びをするだけだが……。

サケはどうだろう。やな場づくりはいつもよりかなり遅かったようだが。サケがどのくらい上がっているのかも気になるところではある。

2025年11月27日木曜日

あったかソックス

                                 
 神谷地区の歩こう会が公民館から夏井川河口の公園まで往復約9.5キロのコースで行われた。

堤防のごみを拾いながら自然と触れ合うウオーキングは、子どもにとっても得難い経験になったことだろう。

歩くこと自体楽しいのだが、さらにもう一つ、公民館に戻れば抽選会が待っている。「はずれ」なしなので、何かは当たる。「完歩賞」としてクオカード(商品券)も付く。

 出発式に合わせて参加者が数字の印刷されたカードをもらい、あらかじめ同じ数字の半券を抽選箱に入れておく。折り返し地点でカードにスタンプを押してもらう。それが完歩した証になる。

 毎回、出発式であいさつをし、番号を引く係になる。景品は米やキッチンペーパーなどいろいろで、抽選する本人は「まるでこたつソックス」が当たった。

 靴下が入っていた袋には「冷え対策」「独自の温熱刺激設計。つま先からふくらはぎまであったか保温」とあった。

 裏面に詳しい「解説」が載っていた。「足首のはなし」として、「足首、手首、首といった“首”は血液が集中して流れるポイント。ここが冷えるとカラダ全体の冷えを呼んでしまう。冷えから守る秘密は“首”にある」。

 「リラックスしたい」「冷えたフローリングがつらい」といったときにはお勧めの靴下だという。

その日の夜、さっそく「あったかソックス」をはいて寝た。なるほど。足元の冷えを感じずに目が覚めた。

実はその日の前の晩、今季初めて湯たんぽを使った。2日目は「あったかソックス」をはいたので、湯たんぽは休んだ。しばらくは湯たんぽなしでいけそうだ。

私は末端の血流が悪い。子どものころから「手足が冷たい」といわれてきた。秋の終わりになると、手足の冷えを自覚する。

で、朝起きるとヒーターをかけ、部屋が暖まったら石油ストーブに切り替える。下着は長袖、そして下ズボンをはき、散歩には手袋とマフラーをして出かける。

後期高齢者は早めの防寒対策が必要――そう思っている人間には、「あったかソックス」は願ってもない景品だった。

区長仲間が解説にあるイラストを見て、「昔はやったルーズソックスだね」という。そういうはき方もOKらしい。

去年(2024年)夏、短期入院で「左心耳閉鎖」術を受けたとき、「弾性ストッキング」(ハイソックス)をはいた(はかされた)。

術後はベッドでじっとしていないといけない。人によっては下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)が起きるらしい。それを軽減・予防する靴下ということだった。

その経験があるので、夜だけでなく日中も「あったかソックス」を使ってみた=写真。とりあえず2日間使い続けて、日中は普通の靴下で過ごし、夜寝るときだけ、「あったかソックス」にはき替えることにした。

次は手か。手首を温めるバンドでもあれば、それを試してみたい。

2025年11月26日水曜日

2年ぶりの歩こう会

                                       
   未明の4時半には起きる。すぐ新聞を取り込む。ついでに庭に出て、まだ暗い空を見上げる。

11月23日の日曜日は、星は見えるが数えるほどしかなかった。夜が明けると曇天だった。

この日は「神谷市民歩こう会」が開かれる。雨天なら、延期ではなく中止である。雨でなくてよかった。

歩こう会を主催したのは青少年育成市民会議神谷支部(地域部会)で、参加者は神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロを、ごみを拾いながら歩いた。

河口の沢帯(ざわみき)公園で一休みをし、記念撮影をしたあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開き、昼過ぎには解散した。

参加したのは市民会議の支部役員や各区長、公民館職員と家族連れなど40人余り。スタッフとして区長仲間と顔を合わせたとき、去年(2024年)の歩こう会の話になった。

「去年は来なかったね」と笑いながらいわれたので、「はて、なにがあったんだっけ」と一瞬考えた。

そうだった。発熱して急きょ、公民館に不参加の連絡をしたのだった。あとで去年の手帳を見て、そのへんの経緯を確認した。

歩こう会が行われたのは11月10日の日曜日。義弟が6日に緊急入院をして、翌7日に亡くなった。

そのあと私が、次いでカミサンが発熱した。近所の医院から薬を処方してもらい、家で静かにしていると回復した。

私にとっては2年ぶりの歩こう会である。出発式であいさつしたあと、河口の公園に車で先回りして一行を待った。公園はチェックポイントになっている。区長仲間が抽選会に必要なスタンプを押した。

歩こう会は長い間、吉野せい賞表彰式と日程が重なっていて、朝、歩こう会であいさつをすませると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。

 それが何年か前から、吉野せい賞表彰式が土曜日に変わったため、日曜日の歩こう会にも最後まで参加できるようになった。

 ただし、今年の歩こう会はいつもより開催時期が遅い。晴れれば冷たい北西の風が吹きやすい。曇天でも風があれば体が冷える。小春日ではないが、風のない曇天なのがなによりだった。

毎回、備忘録のために堤防を歩く一行の写真を撮る。今年はプラスアルファとして対岸からも狙ってみた=写真。

背景の山並みのうち、中央で三角にとがっているのは大久町の三森山(656メートル)である。

こちら側、右岸のサイクリングロードにもウォーキングを楽しむ人がいる。日曜日ならではの光景ではあった。

2025年11月25日火曜日

「草野の森」25年・下

                                                    
   国道6号の神谷ランプにある「草野の森」は広さが約800平方メートル。森としての歴史は25年とまだ浅い。

平成22(2000)年3月、勿来の四沢交差点から神谷ランプまで全長約28キロの常磐バイパスが完成したのを記念して、植樹祭が行われた。

植えられた苗木はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。

いずれもいわきの平地の潜在植生で、植物生態学者の宮脇昭さん(1928~2021年)が指導した。

 ランプ内のスペースは、のり面が半月形の森になり、残りが広場になった。広場と草地の境には照葉樹(シラカシらしい)が植えられ、今では独立樹の風格を備えつつある。

「草野の森」の前に「未来の風の乙女」像が建つ=写真。四沢交差点にも、「クロソイドの乙女」と題するブロンズ像がある。起点と終点で乙女像が交通の安全と地域の発展を祈っているのだ。

 会社をやめたあと、朝晩、夏井川の堤防を散歩した。途中、「草野の森」に寄ってブロンズ像と対面した。森がつくられてまだ10年もたっていなかった。

震災後何年かたって散歩をやめた。そしてまた最近、この「草野の森」を目的地の一つにして「準散歩」を始めた。

広場に立って森をながめるのはおよそ10年ぶりである。木々もまたその歳月を加えて生長した。

時間とともに植生が変化しつつある様子をつづったブログがある。植樹祭からは9年後、現在からだと16年前である。それを抜粋して紹介する。

――まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに生長したのがある。

いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、生長したのだ――。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。これも生長して乙女像を隠すようになった。

若い森にはびこっていたセイタカアワダチソウは、今は反対側の広場を埋め尽くしている。前に草刈りが行われたらしく、丈は低い。「セイヒクアワダチソウ」だ。

いずれにしても、と思う。「草野の森」は人間と鳥と風、そして太陽と雨との協働作業によって絶えず変化し続けていくのだろう。

2025年11月24日月曜日

「草野の森」25年・上

                                
   近所のコンビニへ行くのと同じ感覚で往復30分・2000歩程度の「準散歩」を始めてから間もなく1カ月。3つのコースを設けて週に2回繰り返す。

その日の気分で行き先を選ぶ。行き先は夏井川の堤防か「草野の森」、近所のコンビニだ。コンビニは近すぎるので大回りをして行く。

「草野の森」は旧常磐バイパス(国道6号)終点の「神谷ランプ」(本線車道への斜道)にある。

震災前は朝晩、夏井川の堤防を散歩した。今の時期ならコハクチョウが目的で、途中、必ず「草野の森」へ寄って広場で一休みした。

震災後も何年か散歩を続けた。が、やはり大災害のショックが尾を引いていたらしい。慢性の不整脈が亢進し、長い散歩にドクターストップがかかった。

以来、コンビニへも車で行く始末で、「これではいけない、フレイルの悪循環を断ち切らねば」と思いつつも、実行できずにいた。そんなとき、2000~3000歩ならいいらしいと知って、「準散歩」を始めたのだった。

夏井川の堤防は車でマチへ行った帰りによく利用する。コンビニへもしょっちゅう行く。「草野の森」へ歩いて行くのは、それこそ10年ぶりくらいだろうか。

平成12(2000)年3月、バイパスの全線開通を記念して植樹祭が行われた。当時、国際生態学会会長だった理学博士宮脇昭さんの指導で、地元の平六小、草野小の高学年生や長寿会などが「神谷ランプ」ののり面にポット苗を植えた。

ランプ内のエリアは「草野の森」と名付けられた。「草野の森」の苗木たちはその後順調に生育し、四半世紀がたった今ではうっそうとした森を形づくっている。

しかし、なかで1本、住宅地の小道から見ると、鳥か風が種を運んで来たと思われる松(クロマツ?)が枯れている。

まずその確認を――と、アスファルトで舗装された広場に立ったのだが、ほかの木々に遮られて枯れ松は見えなかった。

のり面を覆う若木群とは別に広場の中央に独立樹が立つ=写真上1。樹下にはベンチがある。

ベンチの周りにはどんぐりがいっぱい転がっていて、歩くたびに落花生の殻を割ったような音がする。

それを集めてカメラを向ける=写真上2。家に帰って、撮影データを見ながら樹種を調べたのだが、よくわからない。

で別の日、今度は落ちていた葉とどんぐりを持ち帰り、ネットでどんぐり図鑑などにあたって樹種を絞り込んだ。

どんぐりは形状と殻斗(かくと)から、スダジイではなくアラガシかシラカシらしい。そう見当がついたので、ダメ押しを兼ねて葉とどんぐりを拾いに行ったのだった。

結論は、シラカシ(らしい)。違っているかもしれないので、断定はしない。

2025年11月22日土曜日

大火の記憶がよみがえる

                                
  大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。

惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。

規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。

佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。

6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。

この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。

新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」

あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。

小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。

そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。

――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――

常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。

 あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。