2025年10月29日水曜日

直売所でバッタリ

                                 
   JAその他、野菜の直売所へはよく行く。味噌漬けや梅漬けなどの加工品を含めて、だれが何を出荷しているかとなると、まったくわからない。わからなくてもいい。食べてうまければそれでよし、である。

それでも、この味噌漬け、そして梅漬けは、野菜はどこのだれがつくったのか、気になるときがある。

特に味噌漬けの場合は、昔からの強烈な味だったり、現代風のさっぱりした味だったりと、作り手によって違いがはっきりしている。

 現代風の味噌漬けでも、具材の切り方に差がある。小さく刻んだもの、ざっくり切ったものと、生産者の個性が出る。

 ごはんのおかずには、味噌漬けは具が小さくて細かい方がいい。それだけ塩分摂取が抑えられる。なくなりそうになるとまた買いに行く。

 おもしろいことに、同じ容器に入っていても、行くたびに値段が上がっている。10円とか20円だが、買う側としては解せない。量も少なくなっている。

 カミサンがレジの女性に尋ねると、「なんともねぇ、生産者が値段を決めるものだから」という。

 それでわかった。味噌漬けの値段や量が変動するのは、出荷者(生産者)が違うからだろう。

生産者の持ち込みによる委託販売である。容器のラベルに表示されている生産者名も含めて「商品」ということになる。

 そんな直売所での、日曜日昼下がりの出来事だった。夏井川渓谷の隠居からの帰り、平窪の「やさい館」で買い物をした。店に入るとき、棟続きの倉庫に野菜を持ち込む生産者がいた。

店内に入って野菜を買い物かごに入れていると、その生産者が商品棚にキャベツを並べ始めた。

寒いのでこちらは長そでにカーディガンだが、向こうは半そでの丸首シャツ1枚だ。見るともなく見ていると、どうもどこかで会ったような顔である。

向こうもキャベツを並べながら、同じような思いで記憶を探っていたらしい。少したって、どちらからともなく「ああ」となって、私が声を出した。「Hさんじゃないですか!」

Hさんは川前の農家で、紅葉シーズンになると夏井川渓谷の江田駅前で野菜を直売する。

今年(2025年)は渓谷随一の景勝地・牛小川で野菜を直売することを考えた。わが隠居は、庭だけは広い。玄関の前だけでもかなりのスペースがある。

直売所に借りられるかどうか、私たちが隠居にいるとき、訪ねてきた。むろんOKしたが、後日、別の住民からの勧めもあって、隣の「錦展望台」を利用することになったという。

そのHさんがやさい館にも野菜を出荷していた。さっそくキャベツを買う。前にキャベツと大根をいただいたことがある。それを思い出した。

駐車場でHさんにキャベツを買ったことを伝えると、おまけといって車からブロッコリーを1個取り出した。家に戻ってパチリとやったのがこれ=写真。

絶えず変化する自然だけでなく、こんな出会いもあるから、日曜日の渓谷通いはやめられない。

2025年10月28日火曜日

アオテングタケ

                               
    最初に断っておく。表題の「アオテングタケ」は架空のキノコだ。

  10月26日の日曜日は、未明の4時過ぎから雨になった。気象会社の「時間天気」によると、10時ぐらいまでは雨が続き、その後一時やんでまた降り出すという予報だった。

曇りなら夏井川渓谷の隠居へ行く。前後にカミサンのアッシー君をする。一つは、市役所の駐車場にある古着ボックスに、わが家に持ち込まれた古着6~7袋を搬入すること。

もう一つは、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」へカミサンの忘れ物を取りに行き、ついでに昼食をとること。

隠居へ行く途中、三島(小川)の夏井川でハクチョウの有無を確かめることも予定に入れていたが、雨では行ってもやることがない。ハクチョウは前日、中神谷の夏井川で今季初めて確認した。

とりあえず10時ごろまで家にいて、雨が上がったらヤマではなくマチとハマを巡る。そう決めて、ブログの下書きをつくったり、本を読んだりしていると、いい具合に雨が上がった。今だ。急いで車のトランクに古着の袋を詰め込み、市役所の駐車場へ直行した。

サーフィンが開店するまでは少し時間がある。鹿島街道の鹿島ブックセンターにはしばらく行っていない。通り道である。そこで本をながめながら、面白そうなものがあれば買うことにしよう。

同センターには大型書店ならではの楽しみがある。ふだん利用している総合図書館と違って、思わぬところに思わぬ著者の本がある。

新書、選書、新刊本と背表紙をながめているうちに、レジから最も遠い角の詩集のコーナーに、表紙にベニテングタケなどのキノコが描かれた宮沢賢治の本があった。

飯沢耕太郎編『宮沢賢治きのこ文学集成』だった。飯沢さんはキノコ愛好家としても知られる。彼の『きのこ文学大全』(平凡社新書)は、わが家のどこかでほこりをかぶっているはずだ。

表紙を見て買う気になり、財布を握るカミサンに渡すと、「どこにキノコの写真があるの」。どこにもない。で、却下! 賢治全集なら家にある。それを読めばいいじゃないか、というわけだ。

まあ、いい。気を取り直してサーフィンに向かう。店の前の駐車スペースに車を止め、カミサンが助手席から下りると声をあげた。「キノコがある!」

2階の店に通じる階段入り口の手前に花壇の飾りがあった。そこにベニテングタケを模したキノコの置物が配されている。よく見ると、青と緑の色違いのテングタケもある=写真。

なるほど。架空のキノコには違いない。が、装飾の世界では「アオテングタケ」も「ミドリテングタケ」もありだ。

ベニテングタケは毒キノコだが、キノコが登場するヨーロッパ系の絵本、ロシアの画家ビリービンの挿し絵などでは、キノコの代表のように扱われている。美術作品では草間彌生の水玉模様が有名だ。

サーフィンのアオテングタケから、次々に想像が広がる。それでしばらく遊んだ。そんな日曜日の過ごし方もたまにはいい。

2025年10月27日月曜日

一周忌

        
  10月16日は親友の命日だった。その日は朝起きると黙祷して、家で静かに過ごした。

庭の花はと見れば、ホトトギスのつぼみが一輪、赤みを帯びていた=写真。翌日には開花した。数日後には二十数輪になり、翌日には四十数輪と花の数が倍増していた。

親友は、私が地域紙の記者になって初めてできた、取材先の知り合いの一人だった。アフターファイブでも家族ぐるみで付き合った。

5月のタケノコパーティー、7月のホタル狩り。その他もろもろの市民活動……。命日を前に友人との半世紀近い思い出がよみがえった。

親友は去年(2024年)亡くなった。「そろそろ命日だな」。故人を思い出していたころ、共通の友人から電話がかかってきた。「これから近況報告に行く」

生涯現役の見本のような人だ。近況報告とは? いわきでの仕事はこれからも続けるが、生活の拠点を娘一家がいる東京に移すという。

もともと東京出身だから「帰郷」するようなものだろう。要するに、「別れのあいさつ」である。

友人一家もタケノコパーティーやホタル狩りに参加した。時には夫だけで、田町(飲み屋街)で一杯やることもあった。「逝った人」と「行く人」と、寂しさがまた募る。

身内ではカミサンのすぐ下の弟が去年の11月初旬に亡くなった。その一周忌が10月25日、カミサンの実家の菩提寺で行われた。

義弟は、両親が用意したわが家の隣の家に引っ越して来た。カミサンが食事の世話をした。

 法事のあとに墓参りをした。墓地は好間の市街と田畑が見渡せる高台にある。北側斜面の防災工事が再開されるとかで、樹林に続いて竹林が伐採されてなくなっていた。

 見晴らしがよくなったのはいいが、防風林の跡から砂が強風で飛ばされ、本堂を直撃するようになった。西側と北側の白壁がそれで網点が付いたように汚れていた。

 カミサンは、義弟も生前目にしていただろう庭のホトトギスの花を切って持参した。それを墓と実家の仏壇に供えた。

 実家に戻れば会食(精進揚げ)である。それまで、テレビでドジャースとブルージェイズのワールドシリーズ第1戦を見た。

といっても2対2のあと、ブルージェイズが大量9点を入れた時点でチャンネルを替えた。その直後、大谷が2ランホームランを打ったことはあとで知った。

精進揚げには魚栄(平)のうな重が出た。これには思わずほおが緩んだ。「生きててよかったね」。そんなことを言いながら味わった。

カミサンの実家(元米屋)では年末、もちをつくって歳暮として配る。もち米をふかす「釜じい」を担当したことがある。そのときの昼食が魚栄のうな重だった。

 私たちは人生の日暮れにいる。それは間違いない。しかし、日暮れには日暮れの、夜には夜の楽しみがある。うな重がうまい。星空が面白い。うな重を食べると元気が出て、友人に贈った言葉がよみがえる。「死ぬまで生きなくちゃ」

2025年10月26日日曜日

ハクチョウが来た

                                
 いわきにハクチョウ飛来――の第一報に接してから9日目。10月25日にやっとこの目で飛来を確かめた。

ハクチョウ飛来地の夏井川(平・塩~中神谷)には、なぜか今季、ダイサギが何羽も定留している。堤防に出るとついハクチョウと誤認する。それが何日も続いた。

 「孫」の父親が10月17日、ハクチョウが飛来したことをフェイスブックで伝えた。平・平窪の夏井川に第一陣がやって来た、というサインである。

これを機に平・塩~中神谷の夏井川をながめ、日曜日には小川・三島の同川でハクチョウの有無を確かめる。それが近年のならいだ。

 今年(2025年)は福島県内第一陣として、10月9日、猪苗代湖に52羽も飛来した。猪苗代湖に第一陣が到着すると、およそ1週間後(遅くとも10日後)には、いわきの夏井川にも現れる。

 10月9日付のブログでは、三島でサギをハクチョウと見誤ったことに触れ、10月15日には第一陣がやって来るかもしれないと書いた。それから2日後の今季初飛来だ。

 ブログは2008年2月下旬に始めた。秋にはコハクチョウをウォッチングする。毎年、初飛来の日(正確には私の「初確認日」)をブログに書き留めてきた。

 記録はあいまいな記憶を一掃する。「そう記憶している」といった甘い記述を粉砕する。事実に勝る表現はない。

 というわけで、2008年秋から2024年秋までのハクチョウの「初確認日」(届いた情報も含む)をチェックしてみた。

いずれも10月である。上旬は8、9日。中旬は10、11、12、13、15、16、17、19日。下旬は20、23、29日。そして今年は10月17日。この18年間の平均飛来日(確認日)は10月15日だ。

ハクチョウ飛来の報を受けたその日、マチへ行くカミサンのアッシー君をしながら、一部、夏井川の堤防を利用した(平・鎌田~塩区間は堤防工事のために通行止め=週末は休工で通行可)。

わが生活圏では新川合流部の塩地内がハクチョウの越冬地だ。しかし、ハクチョウらしい姿は確認できなかった。新川合流部まで見通せる場所まで行ったが、やはりハクチョウの姿はない。

翌日から、用事をつくっては何度も新川合流部が見渡せるところまで車を走らせた。いつも白い鳥がかたまっていて、最初は「来た!」と喜ぶのだが、すぐダイサギとわかってガックリくる。

25日は朝、法事でカミサンの実家の菩提寺へ向かう途中、堤防に出た。するとサケのやな場の下流、調練場(中神谷)の夏井川にハクチョウがいた=写真。その数ざっと20羽。今季初確認だ。

不思議なもので、それからはハクチョウと誤認していたダイサギが遠目でもすぐサギとわかるようになった。

法事からの帰り、また堤防を利用した。新川合流部には20羽ほど大きな鳥がいた。ダイサギとアオサギだった。調練場ではハクチョウが朝と同じように羽を休めていた。「うん、うん、よしよし」である。

2025年10月25日土曜日

キノコには骨がない

                               
   ちょっと旧聞に属するが、キノコのことなので、備忘録として――。晩酌をしながらテレビのニュース番組を見ていたら、「10月15日は『きのこの日』です」という。

10月15日がなんで「きのこの日」? あとで調べたら、日本特用林産振興会が1995年に制定した。

そのワケは、10月には野生のキノコが多く採れる。鍋物の季節を控えてキノコの需要が高まる時期でもある。月の半ばなら人々の暮らしもそうあわただしくはないだろう。

ということから、キノコの消費拡大や正しい知識の普及を目的に、10月15日を「きのこの日」に制定したそうだ。

私にとっては毎日が「きのこの日」である。というのは、味噌汁には必ずナメコを入れてもらうからだ。

そのナメコも、いつからか豆のような小粒ではなく、傘の開きかけた大きめのナメコを好むようになった。

一つには、東日本大震災と原発事故以来、いわきでは野生キノコを食べたり、出荷したりできなくなったことが大きい。

栽培ナメコが、慣れ親しんできたウラベニホテイシメジやタマゴタケ、ナラタケ、その他もろもろのキノコの舌ざわり・味・見た目の象徴になった。

野生のキノコと同じような大きさは無理にしても、それらを食べているような気分に浸るために――というわけである。

1週間、あるいは10日にいっぺんくらいのペースでスーパーへ買い物に行く。アッシー君、そして買い物カート担当だ。店内を巡りながら、ナメコだけは私が買い物かごに入れる。

ナメコを好むもう一つの理由は、そのぬめり。ナメコはぬめりが強い。たいていは豆腐とナメコその他の味噌汁にする。味噌汁自体もナメコのぬめりが溶け出して喉ごしがいい。

ぬめりの正体は粘液多糖体。食物繊維のひとつで、胃や鼻の粘膜を丈夫にするらしい。ナメコ自身の乾燥も防ぎ、防寒コートの役目も果たすという。

特に、今年(2025年)の夏は猛烈な暑さが続いた。晩酌時には、朝の残りの味噌汁も、前夜の残りの焼き肉も冷やして食べた。冷製焼き肉、冷製味噌スープである。

味噌スープに入っているナメコの、キョロッとしたのど越しのよさ。これが、扇風機を強にしながら、汗ばみながら箸を動かす身にはとてもよかった。

 さらにもう一つ、最近思ったことだ。今年は久しぶりにサンマが豊漁だとかで、わが家にもお福分けが届いた。

 それこそ何年ぶりかで焼きサンマを食べた。次の日も、また次の日も出てきた。が、どうも箸が進まない。

 そのころには冷製ではなく、熱々の味噌汁が晩酌のおかずになって出た=写真。サンマを見ながら、味噌汁のナメコを口にしながら思ったのは、「キノコには骨がない」ということだった。これが、ナメコが好きな第三の理由。

※追記=最初、粘液多糖体をムチンと表記しました。「ムチンは動物性のもの」というコメントが入り、検索したところ、ナメコのぬめりは「ムチンに似たもの」で、「粘液多糖体」がより正確な表現ということでした。、「ムチン」を「粘液多糖体」に訂正しました。詳しくはコメントをお読み下さい。

2025年10月24日金曜日

冨田武子遺作展へ

                                  
   いわき市文化センター5階で10月26日まで、冨田武子遺作展が開かれている=写真。23日付のいわき民報で知り、ルーティンの「朝活」をすませてからすぐ見に行った。

冨田さんはいわき市内の中学校美術教諭を定年で退職したあと、画家として制作活動に励み、主にボタニカルアートを手がけてきた。

菌類にも造詣が深く、長年、いわきキノコ同好会の会長を務めた。私も創立時から同好会に加わり、冨田さんから多くのことを学んだ。

去年(2024年)暮れの総会では、第30号の会報を最後に、会を解散することが決まった。それから季節がひとつ巡ったばかりの4月に亡くなった。総会で顔を合わせたのが最後になった。

最終30号の原稿は11月1日締め切りという案内が、ずいぶん前に事務局(遺族)から届いた。

会報には拙ブログの中からキノコに関する文章を選んで転載してきた。今回も同じ流れで、冨田さんの思い出を中心に文章を組み立てた。先日やっと、それをメールで送った。

遺作展は、冨田さんが講師を務めた「ボタニカルアート泉」が、恒例の作品展に併せて企画した。

会場の隣では、新世紀福島支部の作品展が同会期で開かれている。そちらにも冨田さんの「タンポポと綿帽子」(油彩)が遺作として展示された。

冨田さんのボタニカルアート作品はいわき民報紙上でなじんできたが、原画にはやはり作者の息遣いが感じられる。

キノコと植物を組み合わせたもの、キノコ単独のものとあるが、ボタニカルアートの世界では、菌類の細密画はきわめて珍しいのではないだろうか。

種類でいうと、ナスコンイッポンシメジ、ヌメリアイタケ、キツネノワン、オオシロカラカサタケ、アミガサタケ、エノキタケ、ムラサキシメジ、コウタケが美を競っている。

「サトザクラとキノコ」と題された作品は、サトザクラの花と猛毒のシャグマアミガサタケを組み合わせたものだ。

単に「キノコ」としたのは、猛毒と知って鑑賞者が不安になるのを避ける意味があったか。

オオシロカラカサタケは南方系の毒キノコで、日本では関西を中心に分布し、いわき市内ではハウス内での発生は確認されていたが、野外では未確認だった。

これが冨田さんによって、泉町の住宅の庭や畑で確認された、誤って採取しないように、という呼びかけも兼ねていたはずだ。

食毒を超えてキノコの美を伝えるだけでなく、キノコによる食中毒を防ぐ一助になれば、という思いがあったことは30年に及ぶ交流のなかで、肌で感じてきたことだ。

私は、ナスコンイッポンシメジには出合ったことがない。冨田さんは、画家としてはこのキノコを、色を最も愛していたのではないか――。作品を見ながら、そんなことを思った。

2025年10月23日木曜日

大活字本を借りる

                                              
   いわき市の総合図書館は、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の4・5階に入居している。

4階は北側が「子ども」、南側が「生活・文学」フロア。5階は北側が「いわき資料」、南側が「歴史・科学」フロアで、南側の階段近くに「大活字本」コーナーが設けられている。

階段の前にはテーマに合わせた本を並べる書架がある。10月は4階が「秋を楽しむ」、5階が「大活字本」で、5階から4階へ下りようとしたとき、足が止まった。

「寝床用の本を借りよう」。瞬時にそう思った。書架をながめると、群ようこ『ネコの住所録』があった=写真。

大活字本は前に一度読んだことがある。自分のブログをチェックすると、10年前(2015年)の10月20日に「大活字本」と題して書いていた。まずはその部分を再掲する。

 ――遠近両用のメガネをかけているが、新聞や本はずっと裸眼で読んできた。ところが最近、いちだんと「花眼」度が進み、日によってはメガネなしでは新聞活字がぼやけるようになった。(こうしてお年寄りは新聞から離れるのかもしれない)

いわき総合図書館に大活字本コーナーがある。図書館のホームページを開いて間宮林蔵関係の図書を検索したら、吉村昭の『間宮林蔵』(上・中・下)があった。この際、大活字本を読んでみるか。すぐ図書館へ出向いて借りてきた。

 大活字本の『間宮林蔵』は講談社文庫を底本に、2012年、埼玉福祉会が上・中・下の3冊本として発行した。文字の大きさが5ミリ強、つまり16ポイント。1行31字、1ページ11行だ。なにかに似ている。そうだ、小学校低学年の教科書だ――。

 それから10年。「花眼」度がいちだんと進み、日中は新聞・本だけでなく、テレビも眼鏡が欠かせない。

 寝床ではさすがに眼鏡をはずす。睡眠薬代わりだとしても、本は読みたい。裸眼で読みだすとすぐ視線が止まる。

なんという字だろう。たとえば、ハン・ガン/斎藤真理子訳『回復する人間』の第1行。「よりによってなぜ今日、あの鳥のことを――」の「あの鳥」が、頭の中では「あの島」に誤変換されている。

 そのあとに続く文章でも、「十二月」を「十一月」ないし「十三月」、「白く」を「曰く」、「出勤」を「出動」、「雪におおわれた山」を「霊におわれた山」と誤読する。「仁川」には「ニンチョン」とルビが振ってあるが、これはもう判読不能だ。

 埼玉福祉会発行の大活字本はまったくその心配がない。眼鏡なしでも、この字はなんという字か、などと考えなくていい。

 『ネコの住所録』の最初のエッセー「「二重猫格」を、久しぶりに寝床で読み切った。といっても10ページ弱だから、文庫本では4ページにすぎない。それで十分。寝床では大活字本――これが癖になりそうだ。

2025年10月22日水曜日

土曜日は「寅さん」

        
   9月にテレビを新しくした。最初に届いたのはすぐおかしくなった。テレビ本体に不具合があったらしく、何日かたって別の新しいテレビが届いた。今度は大丈夫、安心して見ている。

前は2006年製造の中古テレビで、震災後、家を解体するというので、廃棄処分になったのを引き取った。

その前のテレビがダメになったとき、それを引っ張り出した。ちゃんと映るというので、そのまま見てきた。

製造年以後に開局したテレビ局の番組は見たくても、リモコンにその局の数字がない。今度は以前のテレビのようにBS11イレブンが見られる。

BS11イレブンはカミサンが見る。好きな番組は「名探偵ポワロ」。ニュース番組は5~6時台で終わり、7時になるとリモコンをカミサンに渡す。

最近は午後1時からの中国ドラマ「如懿伝(にょいでん)」も見る。私もつられて、たまにだがポワロと中国の王宮ドラマをのぞく。

土曜日は土曜日で、宵の6時半になるとカミサンはBSテレ東にチャンネルを合わせる。映画「男はつらいよ」を放送している。「寅さん」は私も見る。

それで、「これは前にやったよ」「これも前に放送したよ」と、わきから茶々を入れることもある。

10月11日の「男はつらいよ」は、これまでとはちょっと違っていた。いや、ちょっとではない。大いに違っていた。

映画「男はつらいよ」シリーズ50周年記念作品として、2019年「男はつらいよ お帰り寅さん」が公開された。そのテレビ放送である。

50年も続けて寅さん映画を製作してきたこと自体、驚きである。その記念映画の内容もまた驚きだった。

寅さんの甥っ子・満男はサラリーマンを経て新進作家になっていた=写真(ネットのテレ東情報)。

結婚して娘が生まれ、すでに大きくなっている。が、妻は死んでいない。7回忌の法要が営まれる。いつの間に、というか、こちらには想像もつかないような飛躍だ。

当然、「くるまや」の「おいちゃん・おばちゃん」は遺影だけの出演になった。隣の工場はアパートに代わり、「くるまや」はカフェになっている。寅さんの妹さくらと夫の博はくるまやの裏の住居に住んでいる。

さくらは老眼鏡をかけ、博は頭が白くなっている。老いを物語るシーンがあった。いつもの「くるまや」の茶の間で、家族が座卓を囲んでいる。囲んではいるのだが、博は椅子に座っている。

年をとると立ち上がるのがきつくなる。座卓を脚の長いテーブルに替え、いすで食事をと、私ら夫婦も話している。現にそうしているシルバー家庭がある。

寅さんとその家族を描き続けてきた結果、家族の代替わりまで話が発展したわけだ。

そういえば、ポアロ探偵も言っていたな。「人間は年をとると耳に毛が生える」。思い当たることがこうも増えるとは――。ときどき感心しながらテレビを見る。

2025年10月21日火曜日

ネギとけんちん汁

                                
 まずは四字熟語「画竜点睛」のおさらい――。意味を再確認するためにネットで調べたら、注意すべき点が二つあることを知った。

「画竜」は「がりょう」と読む。「睛」は天気の「晴」ではない。右側の下が「月」ではなく「円」である。なるほど、そこまでは注意が届かなかった。

 ということで本題。わが家では夏を除いてけんちん汁(豚汁)を食べる。晩秋から春先までは、特に回数が多くなる。

 豚肉にサトイモないしジャガイモ、そしてニンジン、ゴボウ、豆腐、こんにゃく、ネギ。ほかにナメコやマイタケ(いずれも栽培もの)が入る。東北地方では、醤油ではなく味噌仕立てが普通だ。

 10月16日の夜、久しぶりにけんちん汁が出てきた。「ネギを切らしたの」。隣に直売所がある。そこにも売っていなかったという。ネギの入らないけんちん汁は初めてだ。

 けんちん汁は晩酌のおかずでもある。朝の味噌汁のお椀よりは大きめのお椀に入って出てくる。それを2杯。チビリチビリやっていると、ほどなくお椀がカラになる。

 ネギなしのけんちん汁はしかし、どうも落ち着かない。いつもだと小口切りか斜め薄切りのネギが浮いている。これがない。味も何か一つ物足りない。ほのかな香りと甘みを欠いている。風味は七味だけだ。

 そう、ことわざでいえば「画竜点睛を欠く」である。「画竜点睛」の意味は、「物事を仕上げるために必要な最後の仕上げ」、あるいは「ほんのわずかな部分に手を加えることで全体が引き立つこと」だという。

 けんちん汁の場合はネギがこれに当たる。コンニャクやジャガイモが切れても、「画竜点睛を欠く」という気分にはならない。しかし、ネギだけは別である。

カミサンもそのことは重々承知の上だったようで、翌日、アッシー君を務めてマチへ行った際、スーパーに寄ってネギを買った。

 けんちん汁は、ある限り毎食出る。翌日の夕方、今度はネギ入りのけんちん汁が出た=写真。ナメコのほかに、大熊産のアラゲキクラゲも入っていた。

 見た目からして、いつものけんちん汁である。前夜と違って違和感はまったくない。心穏やかでいられる。口に入れるとネギの軟らかさが加わって、舌が喜んだ。

 やはり、ネギは点睛である。最後にネギを加えないとけんちん汁は完成しない。逆からいえば、ネギを欠いたけんちん汁は未完成の半食品だ。

 冷ややっこの薬味や卵焼きの具にも利用される、という意味では、ネギは食卓では名脇役だろう。

しかし、ネギがないとけんちん汁が仕上がらないとなれば、ネギは「もう一つの主役」である。

今年(2025年)の春は苗づくりに失敗したが、渓谷の隠居でネギだけは栽培を続ける。そう決めている人間としてはちょっとひいき目に言ってみた

2025年10月20日月曜日

もうあの暑さを忘れた

                        
     晴れていれば朝は庭に出て、歯を磨きながら草木をながめる。しかし、カラ梅雨から夏、さらには秋と酷暑が続いた。朝から照りつける。で、庭に出るのを控える――そんな日の連続だったが……。

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、秋の彼岸を過ぎるとしのぎやすい天気に変わった。庭での歯磨きが復活した。

しのぎやすいどころか急に冷え込んで、こたつが恋しいときがある。茶の間の座卓(壊れたこたつ)の下には電気マットを敷いている。先日、このマットをオンにした。

足には手ぬぐいを縫い合わせた布をかけて冷えをしのぐ。座卓にカバーを掛ける日も近い。

季節の巡りはいつものことだ。とはいえ、人はいとも簡単に目先の状況に順応してしまう。

あんなに暑かった夏のことをすっかり忘れて、今はどう体を温めるか、そのことで頭がいっぱいだ。なんとも皮肉なことではある。それはしかし、生物としての生存本能なのかもしれない。

もともとヒトは(ほかの生物もそうだろうが)、天気の変化に即応しながら生きてきた。

そしてヒトだけ、暑いときは暑いように、寒いときは寒いように衣食住を調節することを覚えた。

今年(2025年)はクマが人里にまで押しかけているが、ヒトはふだん生活圏でこれらの動物を危険視することはない。

その意味では、ヒトにとって生存するうえでの一番大きな危機は地球の温暖化、それに伴う夏の酷暑と冬の厳寒ではないか。寒暖の変化を甘く見ると命取りになる。

「あんなに暑かったのに……」なんてぼやいている暇はない。酷暑時の服装と意識を引きずっていると、急な冷え込みに対処できずに風邪を引く。ということで、今夏の酷暑の記憶は秋の寒冷を前にスパッと頭から消えた。

 さて、庭に目を移すと――。ホトトギスが蕾をいっぱい付けている。10月18日には1輪が開花した。

この野草のすぐ上に、木々の枝を利用してジョロウグモが網を張っていた=写真。よく見ると、8本あるはずの脚が5本しかない。

 獲物を捕らえているうちに脚を3本失ったか。あるいは、天敵に襲われて生き延びたものの、ダメージを受けてそうなったか。理由はむろんわからない。

 ネットで調べたところ、クモは脚を2~3本失っても死ぬことはない。5本の脚でも十分生きていられる、ということだった。

 ホトトギスのわきにあるミョウガの群落は先日、カミサンが刈り払った。ミョウガの子が少々あった。今年は8月下旬からミョウガの子を食べてきた。その意味では、これが「終わり初物」である。

 夏、糠床に虫がわいたために、長年利用してきた糠味噌を廃棄した。朝のルーティンの一つ、糠床の攪拌がそれでなくなった。ミョウガの子の糠漬けもできなかった。

ジョロウグモは庭の頭上5メートルほどのところにも、電線を利用して網を張っている。こちらはポツンポツンと6匹いて、体が大きい。いよいよ秋が深まってきた。

2025年10月18日土曜日

庭の落柿

 わが家の庭のシンボルは柿の木。私ら一家が引っ越して来たときから庭にあった。それから逆算すると、樹齢は少なくとも60年以上か。

 渋柿である。一度だけ柿の実をもぎり、皮をむいて軒下につるしたことがある。ちゃんと干し柿になったかどうか記憶がない。あらかたはカビがはえたり、ヒヨドリにつつかれたりして消えたように思う。

こんなこともした。若葉を干して柿茶をつくった。てんぷらにもした。30代のころ、日曜日は時間がたっぷりあった。いずれもその場限りで、習慣にはならなかった。

今は生(な)るがまま、落ちるがまま。業者と後輩に頼んで、二度ほど枝をバッサリやったほかは放置したままだ。

 未熟な青柿が肥大すると落下が始まる。ちょうど樹下に車を止めている。青柿が車のボンネットや屋根を直撃するので、夏の始まりから秋の終わりまでは柿の木から離しておく。

酷暑の夏だけでなく、暑い秋も過ぎて、熟した落柿が地面を赤く点描するようになった。時間がたつと皮が破け、中身もとろけてつぶれる。

たまたま樹下に立ったとき、甘く饐(す)えた匂いに包まれた。一つだけ色も形もきれいな落柿があった。

ここまで赤いと中身も甘いはず――。食欲がわいて回収し、洗って豆皿に載せた=写真。

「初物」なので、いったん床の間に飾ったあと、二つに割って晩酌のおかずにした。渋みは消えて、さっぱりした甘さが口内に広がった。

 カミサンはカミサンで、近所の故義伯父の家から、やはり地面に落ちた甘柿を持ち帰った。

甘柿は、皮がやや黄色みがかった程度で熟しきってはいない。それでも甘柿である。さっぱりした甘さは熟した渋柿と同じだが、甘みの質が違うように感じた。

若いころ、四倉の知人から、正月には冷凍しておいた干し柿を食べる、という話を聞いた。

その延長で、熟してとろとろになった甘柿をタッパーに入れて凍らせたことがある。無添加の「かき氷」ならぬ「柿氷」、つまりは「柿シャーベット」。これはこれで正月のいい食べ物になった。

11月に入ると、そろそろ白菜漬けを、となる。風味用にミカンや柿の皮を干して加える。それでカミサンの実家から干し柿にした残りの皮が届いたこともある。

秋田県に伝わる「大根の柿漬け」を食べたときには驚いた。大根を半月切りにし、塩でまぶして水気を切り、そこに熟した柿の実を混ぜて少し寝かせた即席漬けだが、大根が甘く仕上がって絶品だった。

秋田出身のおふくろさんの味を、今は彼岸に渡った区内会の先輩が伝承した。「風土」は「フード」。そのことをあらためて実感した。

   さて、とこれは蛇足。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は10月26日に詠まれた。それで、全国果樹研究連合会カキ部会が10月26日を「柿の日」に制定した。早くもその日が迫っている。 

2025年10月17日金曜日

自然はデザインの宝庫

                               
   「カニノツメ」と題した10月16日のブログで、「珍菌」が多いキノコの腹菌類に触れた。そのブログの終わりの部分。

――画廊や美術館で作者が心血を注いだ絵画や彫刻を見るのも好きだが、それと同じくらいに山野で人知れず展開される美の競演も捨てがたい――。

この「美の競演」はキノコに限らない。蛾や蝶たちも小さな背中にきれいな文様をまとい、これでもかとばかりに人を引き付ける。

 実際は人間の評価なんかどうでもよくて、天敵を欺き、異性を引き付ける――それが目的なのだろうが、見事な色彩と模様というほかない。

 山野ではなく家の中に迷い込み、写真を撮ったもののうち、種名がわかった虫たちを、そのデザインの面白さから四つほど紹介する。

まずは蛾のナカグロクチバ(中黒朽葉)=写真上1。暑くて茶の間のガラス戸を開けていたころ、カーテン代わりの蚊帳に止まっていた。初めて見る種で、最初は蝶・蛾の区別がつかなかった。

こんなときにはスケッチをして、それを基にネットで調べるのだが、「らしい」種にたどり着くまでには時間がかかる。

ところがおもしろいもので、ほかの種を調べているうちに、似たような画像に出合って「これだ」となるケーズが多い。ナカグロクチバはそうやって偶然わかった。

沖縄や九州に多い南方系の蛾だという。近年、本州でも見られるようになり、2005年発行の図鑑では、分布域は「関東以南」になった。

それから20年がたった今年(2025年)、東北最南端のいわきまで北上していることが確認できた。

エビガラスズメ(蝦殻天蛾)=写真上2=も蛾である。これも背中の文様をスケッチし、それを見ながら検索を続けているうちに、「らしい」画像を見つけた。これはどこにでもいる蛾のようだ。

ホタルガ(蛍蛾)=写真上3=は昼間、玄関の戸に張り付いていた。この蛾はなんとなくわかっていた。

頭が赤い。黒い翅に、斜めに白い帯が入っている。名前からしてそうだが、ちょっと見だけでもホタルを連想する。低山地に普通に見られる種らしいが、最近は住宅地でもよく見かけるとか。

最後に、蝶のサトキマダラヒカゲ(里黄斑日陰蝶)を=写真上4。これも偶然「らしい」画像に出合って種名がわかった。自然はデザインの宝庫――今回も、それを再認識した。

2025年10月16日木曜日

カニノツメ

                               
 10月最初の日曜日は昼前、夏井川渓谷の隠居で過ごした。カミサンは薄磯海岸にあるカフェ「サーフィン」の駐車場で開かれたフリーマーケットに出店したため、朝のうちに送り届けてハマから直行した。

 畑に生ごみを埋め、ネギの苗床に肥料をすき込むと、予定の作業は終わる。あとは自由時間だ。ゆっくり、じっくり、なめるように庭を観察することにした。

9~10月には道路との境界にあるモミの木の根元にアカモミタケが出てくるのだが、ここ2~3年はさっぱりだ。

 境界の木が生長して電線に触れるため、電力会社に頼んで幹と枝を切ってもらった。「モミは枯れるかもしれない」。それが2021年12月のことで、懸念された通り2本のモミが立ち枯れた。

 アカモミタケは菌根菌で、モミと共生している。モミが枯れたらアカモミタケも……。やはり、というべきか。一昨年(2023年)からアカモミタケを見なくなった。今年も期待はできない。

 ほかのキノコは? ヒラタケやアラゲキクラゲが発生する立ち枯れの木がある。腐生菌のヒラタケは晩秋のキノコである。梅雨に採れたマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も、近年は現れない。

記憶にあるキノコを思い浮かべながら巡っていると、木々に囲まれた庭の東端に、上部が赤く染まった黄色い「爪」が点々と生えているのに気づいた。

高さは2センチほど。形状からして「カニノツメ」に違いない。既にしおれかかった菌のそばには、幼菌を内包する径1センチほどの白球が7個=写真上。

まだ元気な爪を見ると、白球を破って皺しわの筒が2本伸び、先端でくっつきながら濃褐色のグレバ(ここに胞子がある)を抱えている=写真下。

グレバはハエの好きな悪臭を放つ。ハエがそれをなめに来ると、胞子もハエとともに運搬・拡散される。

シメジやマツタケをキノコの正統派とすれば、こちらは異端派だ。ある図鑑では、菌類を①ハラタケ類②ヒダナシタケ類③腹菌類④キクラゲ類⑤子のう菌類――と、大きく5つに分類して945種を収録している。

腹菌類は56種で、そのなかのツチグリ、ノウタケ、ホコリタケ、サンコタケ、スッポンタケ、キツネノタイマツは、隠居の庭でも見られる。平や小川の山で見たオニフスベ、アカイカタケ、カゴタケも腹菌類に入る。

いずれもおかしな形状と色彩の「珍菌」が多い。人間の世界で展開される美術とはまた違った自然の造形美。

画廊や美術館で作者が心血を注いだ絵画や彫刻を見るのも好きだが、それと同じくらいに山野で人知れず展開される美の競演も捨てがたい。

食毒を超えてキノコに引かれるのは、この腹菌類の多様さゆえかもしれない。隠居の庭だけでも「キノコの世界」の奥深さが実感できる。

1週間後の10月12日にはその数70以上。高さが5センチほどに生長したものもあった。一角がカニノツメだらけ、というのも壮観だ。

2025年10月15日水曜日

クリタケが食べられる?

                               
   フェイスブックに「いわき市魅せる課」の広告が載った。いわきの農産物と、それを支える人々をつなぐポータルサイト「いわきのめぐみNAVI」をPRするもので、画面を開くと新着情報に「出荷制限の緩和」があった=写真。

野生キノコの話に違いない。記事を読むとそうだった。原発震災以来、福島県内では会津の一部を除き、野生キノコの出荷制限(いわきは摂取も)が続く。

それが一部緩和されたという。リンク先の福島県のホームページの記事も含めて整理すると、次のようなことらしい。

野生のマツタケ、ナメコ、ナラタケ、ムキタケ、クリタケのうち、県の非破壊検査で基準値(キロ当たり100ベクレル)を超えなければ、検査を受けたものは出荷が可能、という内容である。

制限が一部緩和された時期は種類によって異なる。時系列でみると、マツタケは2021(令和3)年9月10日、ナメコ・ナラタケ・ムキタケは2023年11月28日。そして今回、クリタケが9月25日に同じ内容で緩和された。

マツタケはシロを持っていないので、採ったことはない。ナメコもいわき地方では難しい。ナラタケは普通に、ムキタケはたまたま、といった感じで採ってはいた。

狙って採りに行くのはクリタケだ。しかし、今はもうシロ(採れる倒木)はない。が、一部制限緩和となればキノコ採りに光がともったことは確かだろう。

水野仲彦著『山菜・きのこ・木の実フィールド日記』(山と渓谷社、1992年)は、写真のわきにメモ欄があって、採取日と場所を書き込むことができるようになっている。

原発震災の前、夏井川渓谷の隠居にこの本を置いて、採取のたびに書き足していった。その一部を紹介する。

ウラベニホテイシメジ(10/10)、アカモミタケ(10/11)、ナラタケ(10/23)、ヒラタケ・ハナビラニカワタケ・クリタケ(10/24)……。

なかでもクリタケは、10月25日を目安にシロへ行くと、はずれたことがなかった。腰のかごからあふれるほど採れた年もある。それを汁の実にしたり、おろしあえにしたりする。その楽しみが原発震災で断たれた。

2012年10月に書いたブログの一部を引用する。――キノコの「旬」は「瞬」。人知れず森の中に現れ、消えていく。

だからこそ足繁く森へ通っていたのだが、それにブレーキがかかった。図鑑をめくってキノコを追憶するだけになった。東電は「自然享受権」をどうしてくれるのだ、という思いが膨らむ――。この気持ちは今も変わらない。

あれから15年目の秋である。いわき市の「見える化」プロジェクトも、放射性物質の有無を徹底して「見せる」から、いわきの農産物のおいしさを「魅せる」に変わった。

「いわきのめぐみNAVI」はその発展形だろう。農産物や生産者、直売所などの情報がまとめられている。ときにはここを訪れて、キノコの情報を「最新化」しなくては――やっとそんな気持ちになってきた。

2025年10月14日火曜日

続・梨木香歩の本

                                          
 久しぶりに作家梨木香歩の本を読んだ。小説『冬虫夏草』と、エッセー集『歌わないキビタキ――山庭の自然誌」』の2冊で、10月2日のブログでこれらの本について触れた。

 梨木香歩は鳥類や植物だけでなく、菌類にも関心が深い。しかも、「糠床小説」まで書く。

――その昔、駆け落ち同然に故郷の島を出た私たちの祖父母が、ただ一つ持って出たもの、それがこのぬか床。戦争中、空襲警報の鳴り響く中、私の母は何よりも最初にこのぬか床を持って家を飛び出したとか」 (小説『沼地のある森を抜けて』)

こういう表現に引かれて梨木香歩が頭に住みついた。といっても、ずっと本がそばにあるわけではない。

引いたり満ちたりする波と同じで周期がある。同時代の作家では数少ないネイチャーライティングの書き手でもあり、『歌わないキビタキ』を図書館に返したあと、また3冊を借りた。

その中の1冊、『渡りの足跡』(新潮社、2010年)=写真=は、「ときに案内人に導かれ、知床、諏訪湖、カムチャツカ」などへと、渡り鳥の足跡を追ったエッセー集である。つまりはバードウオッチングを続ける作家自身の足跡の記録でもある。

冬鳥のオオヒシクイを見に新潟県の福島潟へ出かけた「コースを違える」には、コハクチョウも出てくる。

この本を読み始める前の10月9日、猪苗代湖に去年より3日早くコハクチョウの第一陣52羽が飛来した、とテレビが報じていた。

いわきのコハクチョウを見てきた経験からいうと、猪苗代湖の初飛来からおよそ1週間後には夏井川にコハクチョウが現れる。明15日に飛来してもおかしくない。

で、頭は既にハクチョウに占領されている。10月12日の日曜日はマチからの帰りに夏井川の堤防を利用した。コハクチョウは新川合流部でも越冬する。

この日は、小川・三島には残留コハクチョウの「エリー」がいるだけだった。新川合流部にも姿はなかった。

代わりにというわけではないが、堤防に出るとすぐ上空でホバリングしている大きな鳥がいた。

鳥はそのあと急降下し、水面をかすめながら急上昇した。足には獲物の魚はなかった。狩りに失敗したのだ。

車の真ん前を横切ってそばの電柱のてっぺんに止まるとき、白い顔に目を横断する黒い線が見えた。タカのミサゴだった。ミサゴは電柱に止まったと思ったらすぐ、カラスに追い払われた。

梨木本に戻る。この本で特に興味を持ったのは、ロシアのウラジオストク経由でサハリンを越え、カムチャツカ半島に飛んで、エトピリカやツノメドリ、オオワシ、オオセグロカモメなどをウオッチングしたくだりだ。

「案内するもの」の章で、「秋になれば、カムチャツカのほとんどすべての鳥は、渡りを始める。体重十グラムも、五千グラムも。群れになって、あるいは単独で」。

この最後の文章から、かの地の極寒ぶりが想像できた。カムチャツカ生まれの冬鳥がいわきに来ていても不思議ではない。

2025年10月11日土曜日

案ずるより……

                                 
   1、10、20日と月に3回あった広報資料の配布が、この4月から1、15日の2回に替わった。

が、年間を通じた配布件数と量は変わらないはず。それどころか、新たに季刊の「アリオスペーパー」が加わった。

 世帯配布の「アリオスペーパー」が発行される7、10、1、4月のうち、10、4月はやはり世帯配布の県の広報「ゆめだより」(偶数月発行)が加わる。

 毎月の「広報いわき」を軸にすると、10、4月は各隣組に配る資料がぐんと増える。その最初の「試練」が10月1日だった。

 広報資料は世帯数分をまとめて、前日までに袋に詰めておく。ざっと30袋だ。それを、戸建て住宅の役員さん宅の場合は担当分をレジ袋にまとめて玄関の軒下に置き、集合住宅の班長さんの場合はそのまま1階の郵便受けに差し込む。

回覧袋はわが家に届く郵便物の封筒を再利用する。だいたいはA4サイズ用の角形2号封筒だ。

ところが、これでは間に合わないときがある。その場合、ある班長さんから提供されたB4サイズ用の角形0号を利用する。

7月1日に初めて「アリオスペーパー」が配布資料に加わったとき、「10月は全体のボリュームが気になる」と書いた。

 まずは先日、近隣の区長さんが集まったときの感想。「10月1日付の『広報いわき』が遅かった」「1袋では収まらなかった」

 世帯配布が「広報いわき」など4種類、隣組に各1枚の回覧が2種類。これが行政から届いた配布資料だ。

 ほかに、10月19日に実施される「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」で使用するごみ袋(わが区の場合は各世帯1枚)と土のう袋(各隣組に1枚)を別袋で用意し、隣組によっては区独自の回覧も加えた。

 10月は年度後半の始まり。集合住宅の場合、大半の隣組で班長が交代する。そのために9月末締め切りで世帯数と新班長を把握するための調査表を配るのだが、どうしても抜けるところがある。その補正もしないといけない。

まずはいつもの封筒より大きい封筒を使い、2袋にしたのを班ごとにくくる=写真。集合住宅では1階の郵便受けにカギがかかり、封入口から入らない場合は新班長さんの戸口まで持っていく。

2階はともかく3、4階となると息が切れる。持病もあって階段の上り下りはきつい。で、何日も前からあれこれ考えて、①2袋に分ける②集合住宅の3、4階はカミサンに頼む――ことにした。

幸い今回も郵便受けが開いて、2袋の回覧資料をなんとか入れることができた。案ずるより産むが易(やす)し、だった。

とはいえ、集合住宅の場合、特殊詐欺などが横行していることもあって、緊急連絡用と断っても、プライバシーを理由に班長さんの電話番号を教えてもらえないケースがある。

「共助」さえ信用してもらえないのか。むしろ、こちらの「つながり」が希薄になっていくことが心配だ。

2025年10月10日金曜日

「サーフィン」フリマ

                                 
 もうこれは完全にアッシー君、そして「ついでの客」としての話だ。10月5日の日曜日、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」駐車場で、初めてフリーマーケットが開かれた。

 その1週間前、ヤマ(夏井川渓谷の隠居)からハマ(サーフィン)へ移動して昼食をとった。

 そのとき、カミサンがママさんからフリーマーケットの話を聞いて、即座に参加を決めた。

 カミサンは古物商の許可を取っている。これまでにも何度かフリーマーケットに参加しており、今回も「フェアトレード&ブロカント(美しいがらくた)」という名前で、主に古裂(こぎれ)を並べた。

 当日は朝、カミサンと荷物をサーフィンに送り届け、その足で隠居へ向かった。隠居では、10月12日に三春ネギの種をまく。その直前の準備として、苗床に肥料をすき込まないといけない。

 それを終えると家に戻って昼食をとり、役所に出す書類をつくって一休みしたあと、再びサーフィンへ迎えに行った。

 アッシー君だから、フリマの様子は全くわからない。駐車場に着くと、出店者だけだった。が、昼ごろはけっこうにぎわったそうだ。

フリマの出店者を紹介された。一人は「孫」の母親の同僚だった女性で、古本を売っていた。文庫本の『マルドロールの歌』があった。

若いころ、フランスの詩人ランボーと同時代を生きたロートレアモン(本名/イジドール・デュカス=1846~70年)に興味を持ち、散文詩集『マルドロールの歌』(栗田勇訳、思潮社)を買って読んだ。

 ランボーもそうだが、ロートレアモンも謎の多い人物である。南米のモンテビデオで生まれ、作家を志してパリへ赴いたが、『マルドロールの歌」を残して無名のまま急逝した。

 その栗田訳詩集は箱入り、新装改訂版の第4刷(1971年)で、新聞記者になりたてのころ購入した。今も手元にある。

 文庫本の方は、訳者が前川嘉男で、奥付には2006年第3刷とある。第1刷は1991年。栗田訳本からすると、一世代は過ぎている。

今はどう訳されているのか、訳自体を比較検討したくて、文庫本を買った。値段はなんと100円! 本棚の飾りにするにしても安い。

 それだけではなかった。サーフィンは2階にある。その2階の上、屋根裏部屋のような3階で、近所に住む陶芸家箱崎りえさんが一日限りの個展を開いていた。

彼女は母親の関係で区内会の役員をやったこともある。旧知の間柄だ。その縁でいくつか、彼女の作品を持っている。

作品の特徴は自由奔放な線と色彩、形だろう。大きな壺から豆皿まで、ネコを中心にした絵柄の焼き物が並んでいた。

その中から1個、三日月と自転車をこぐネコの絵が描かれた三角形の豆皿を買った。絵柄がなんとも軽やかで明るい。こちらは400円。

文庫本と豆皿を並べてみた=写真。皿の下にあるのは10月18日から田人町のギャラリー「昨明(かる)」で開く箱崎さんの個展の案内はがきである。お近くの方はどうぞ。

2025年10月9日木曜日

ハクチョウではなくサギだった

                               
 10月に入るといわきの鳥見人(トリミニスト)の頭の中には、冬鳥のハクチョウが舞い始める。

 夏井川の飛来地は、下流から平・塩(新川合流部)、平・平窪(愛谷堰上流)、小川・三島(磐城小川江筋の斜め堰上流)の3カ所で、日曜日、渓谷にある隠居への行き帰りに三島で必ず飛来の有無を確かめる。

 三島にはハクチョウが1羽残留している。毎日えさをやっている「白鳥おばさん」は「エリー」と名付けた。

 夏の暑い盛りはエリーがどこにいるか心配になり、10月に入った今は、エリーの仲間がいつやって来るか気にかかる。

 10月5日の日曜日は、朝9時ごろ三島を通過した。三島橋を過ぎるとすぐ多段式の斜め堰が目に入る。その上流、右岸の浅瀬に白い鳥が10羽ほどかたまっていた。

 おっ、ハクチョウの第一陣か! 最初はそう思ったが、どうも様子がおかしい。ハクチョウにしては体が縦に伸びていて、首も長い。ハクチョウではなくサギだった(撮影データを拡大すると、くちばしが黄色い。で、ダイサギとして扱う)。

三島橋の上下流でなぜか9月後半から、単体ではなく集団でダイサギが見られるようになった。

驚いたのは9月28日の朝8時前。三島橋を横目に通過しようとしたとき、直下の浅瀬にダイサギの集団がいた=写真。

堰の下だから水量は少ない。石がゴロゴロしていて中洲が伸びている。以前、この下流でアユ釣りをしている人がいた。ダイサギたちもアユを狙っているのだろうか。

アユであろうとなかろうと、食べ物があればダイサギはねぐらから直行する。で、その浅瀬が朝の「集団食堂」になったのかもしれない。

ずっと下流、夏井川の堤防を散歩していたころ、サギたちの集団ねぐら入りを見たことがある。

夕刻、数羽あるいは十数羽が四方八方から現れる。と、急にキリモミ状態になりながら舞い降りる。

夏井川の対岸、広い河川敷を背後にもつ水辺の竹林(平・山崎)がねぐらだった。少し様子を見てから数えたら200羽を超えていた。

三島の夏井川でも左岸側(小川・上平)に竹林があったころ、サギがそこをねぐらにしていた。早朝5時ごろ、隠居へキュウリを摘みに行ってわかった。

夏井川水系は令和元年東日本台風で大きな被害に見舞われた。河川敷の土砂除去と立木伐採などが行われた結果、山崎でも、上平でもサギのねぐらが消えた。

さて、ハクチョウの第一陣かと誤認したダイサギたちは、集団食堂で朝食を終えた中の一派にちがいない。

以前からアオサギに混じって何羽かダイサギがいた。彼らはそうしていつも三島の夏井川の岸辺にいるようだ。

三島には、早ければ10月10日には最初のハクチョウが飛来する。エリーが仲間と再会するのももうすぐ。再会が実現してやっと鳥見人の気持ちが落ち着く。

2025年10月8日水曜日

仲秋の名月

                     
 いわき市暮らしの伝承後で澤田仲子となかまたちのパッチワークキルト展「古裂(こぎれ)と色の遊び」が開かれた。

 10月3日から6日までの4日間で、最終日(月曜日)に突然、アッシー君を頼まれた。知り合いから観覧を勧められたのだという。

 ちょうど朝のうちに予定の作業を終えたので、時間的に問題はない。かえって息抜きになる。

 女性が大勢いる中で男はたった一人。大きく鮮やかな色彩のキルトを見たあと、カミサンと民家ゾーンを巡った。

 園内にイノシシの足跡がある。見かけてもそっとしておいて――受付に張り紙があったので、かえってそちらに興味を持った。

 民家ゾーンの奥、里山と接してお祭り広場がある。足跡があるとすればそこだろう。真っ先に見に行くと、地面にところどころラッセル痕があった。

白水阿弥陀堂の入り口の手前、駐車場に続く広い芝生の広場がイノシシに掘り荒らされているのを見たことがある。ものすごいラッセル痕だったが、それに比べたらかわいいものだ。

 民家ゾーンでは必ず旧猪狩家(詩人猪狩満直の生家)をのぞく。そこの縁側にお月見の供え物が飾られてあった=写真。

 ハギの花とススキ、お月見だんご、サツマイモと栗などのほかに、「お月見どろぼう」のためのお菓子も用意されていた。

 そうか、きょう(10月6日)は「仲秋の名月」だったんだ――。前に確かめていたのだが、入力作業に没頭しているうちに忘れてしまった。

 家に帰ると、カミサンがお福分けの丹波栗をゆで、夕方にはサツマイモや丹波栗、ブドウを皿にのせて縁側に飾った。

サツマイモもブドウもいただき物だ。同じころ、カミサンの友人が自家製の「お月見まんじゅう」を持って来た。

お月見まんじゅうは、ネコが飛びつくかもしれないので、ほかの供え物と分けて床の間に飾った。

問題は天気だ。この日は朝から雲が多かった。伝承郷の行き帰りには、車のフロントガラスが小さな雨粒でぬれた。

夜になっても天気は回復しそうにない。「月よりブドウ」「月より丹波栗」で、いつもよりは晩酌がはかどった。

丹波栗はとにかく大きい。中身をどう取って食べるか。一つ一つやっていたのではまどろっこしい。

二つに割って、細いスプーンで中身をかき取る。それをしばらく続けると、茶わんにいっぱいになった。

ただし大半が崩れてパウダー状になる。これをどうするか。スプーンですくって食べたが、ほかに利用法は?

ネットで調べると、「栗スープ」があった。牛乳やコンソメ鶏ガラスープの素でつくる。これは簡単かもしれない。というわけで月は見えなかったが、供え物の栗の新しい食べ方は見えた。

「栗名月」は仲秋の名月からほぼ1カ月後の十三夜(旧暦9月13日)とかで、それはそれで、もうすませた気分でもある。

翌7日がほんとうの満月だが、これもやはり雲に遮られて見るのをあきらめた。まあ、あれこれ食べて満腹になったからよしとしよう。