大阪・関西万博が4月13日に開幕した。それを伝える新聞記事=写真=を読みながら、55年前にやはり大阪で開かれた万博のことを思い出していた。
21歳のときだった。開幕から3カ月ほど万博の駐車場でアルバイトをした。
宿舎は会場の近くにあった。宿舎と職場(駐車場の事務所)を往復しながら、ときに会場のパビリオンを巡り、休みの日には会場内の「万博中央口駅」から電車で大阪の街へ遊びに出かけた。
叔父が東京で駐車場を経営する会社に勤めていた。その会社が万博駐車場の仕事を引き受けた。
叔父の家の近所で間借りをし、ぶらぶらしていた私を見かねて、叔父が大阪でのアルバイトを勧めた。東京を離れたかった私は、この話に乗った。
大阪万博は昭和45(1970)年3月14日から9月13日までの半年間開かれた。記録によると、入場者総数はおよそ6400万人に達した。
「同僚」には語尾に「――ずら」がつく静岡県人が多かった。当然、宿舎は一緒だった。これに、会場近くから通勤する地元の仲間が加わった。
仕事が終わると、仲良くなった人間とよくパビリオン巡りをした。出入りが自由だったのは、駐車場スタッフのカードか証明書のようなものを持っていたからだろう。
もう記憶はちぎれてすりきれているが、岡本太郎作の「太陽の塔」(高さ70メートル)には圧倒された。特に鳥のようなてっぺんの「黄金の顔」、唇をひん曲げた正面の「太陽の顔」は、今もありありと思い浮かぶ。
開幕して間もない4月26日、この太陽の塔で騒ぎが起きた。塔の黄金の顔の右目部分に男が籠城(ろうじょう)したのだ。「ハイジャック」ならぬ「アイジャック」事件で、私ら駐車場スタッフもニュースで事件を知って、あとで見に行った。男は大型連休中の5月3日につかまった。
時代のキーワードは、新左翼・ロックアウト・投石・機動隊・催涙ガス……などで、男もそうした風潮に影響されたようだ。
よく訪ねたパビリオンはスカンジナビア館だった。レストランでの飲み食いが目的だった。展示物では、メキシコ館の「巨石人頭像」に圧倒された。
そのころ、詩誌の「現代詩手帖」だけを読んでいた。投稿を始めてすぐ大阪へ移った。関東に住む親友から手紙が来て、投稿欄に作品が載ったことを知る。
それを機に、駐車場での仕事を途中で切り上げ、暮れには友人と2人、パスポートを持って沖縄をさすらった。翌春にはJターンをして長い髪を切り、地域紙の記者になった。
さて、極私的思い出話の締めくくりは、大阪・関西万博の想定入場者数だ。2820万人だという。55年前の半分以下ではないか。経済も、人口も右肩下がりの時代を象徴している、としかいえないのだがどうだろう。
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