ふだんは雨戸を閉めている家がある。明かりといえば、東の窓からうっすら差し込む自然光だけだ。たんすの上に置いた電波時計が止まっていた。
カミサンがマチの時計店に持ち込むと、電池交換が不要のソーラー時計だった。光に当てるといい――と言われたそうだ。
家のテレビやノートパソコンは蛍光灯(あるいはLEDの電球)と同様、コードでコンセントとつながっている。電気かみそりも同じだ。ときどき、コンセントにつないで充電する。
パソコンのマウスや自動で停止する灯油ポンプは、電源が乾電池だ。これらの不具合は目に見えるかたちでわかる。電池を交換すればいい。その延長で、置き時計も乾電池が切れたのだろう、と思い込んでいた。
電波時計はたまたま、わが家の茶の間にもあった。電波の発信地も承知している。田村市都路町と双葉郡川内村の境界にある大鷹鳥谷(おおたかどや)山(標高793メートル)の頂上付近だ。
同山が選ばれたのには、こんな理由があった。海上保安庁の電波送信施設があったこと(GPSの普及により平成5=1993年に廃止)、その維持管理のための道路・電線・電話回線が整備されていたことなどで、平成11(1999)年には送信所の運用が始まった
正式には「おおたかどや山標準電波送信所」というらしい。西日本にも同様の標準電波送信所がある。この電波を受信することで、日本の正確な時間が刻まれていく。
いわきの北方の、とある山から「日本標準時」の電波が発信されている、と思えば、阿武隈高地で生まれ育った人間としては、なにやら誇らしい気分になる。
ソーラー式の電波時計は光によって充電できる「電池」を搭載し、時刻合わせも不要だという。
カミサンが家に持ち帰って、すぐ光に当てると時刻が復活した=写真(左は前から茶の間にあったもの、右が止まっていた時計)。
どちらも時・分・秒、日時・曜日のほかに、温度と湿度が表示される。時刻はさすがに秒単位まで同じだ。気温と湿度が微妙に違っているのは、まあ目安に過ぎない、と思えば許容範囲か。
「ソーラー式永久時計」という言葉もあるようだ。しかし、ほんとうに永久時計かどうかは、私にはわからない。この搭載「電池」も寿命が無限ということはないと思うのだが、どうだろう。
電池、たとえば単三などをまとめて買っておく人間としては、手をかけずにすむ「ソーラー電波時計」は、デジタル社会の身近な見本のように思える。
「光を、もっと光を」。芥川賞の作品を読んでいるせいか、ゲーテの最期の言葉(とされている)名言がつい思い浮かぶ。
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