2012年10月8日月曜日

阿部幸洋新作絵画展


いわき市平字堂根町のギャラリー界隈で10月6日、いわき市出身の阿部幸洋新作絵画展が始まった=写真。15日まで。

23歳の駆け出し記者が、3歳年下の駆け出し画家の個展を取材した。以来、阿部とは40年余のつきあいになる。阿部は、わが子にとっては小さいころ、最も身近な“叔父さん”だった。

阿部は、結婚と同時にスペインへ渡った。1980年のことだ。奥さん(すみえちゃん)に支えられて制作に没頭した。その人生のパートナーが3年前の9月30日、急逝した。

妻亡きあとの暮らし、仕事について、彼は多くを語らない。が、1人でなにもかもしなくてはならなくなった。それで、絵は変わったか。たぶん、変わっていない。変わったとしたらむしろ、3・11を経験したこちら側だ。

ラ・マンチャ地方の風景(建物・平原)を描いている。すみえちゃんが存命のころからのシリーズと言っていいだろう。作品のタイトルは時候に関するものが多い。午後の陽・春風・暮れどき・春めく日・春・春の午後・夕暮れ近く・秋の日・西風・西の空……。「朝」の1点をのぞいて夕暮れを描いたという。

3年前の個展でも感じたことだが、建物の背後、平原にかかる雲が灰色がかっていて、大気が湿り気を帯びている。それで見る側の心が潤ってくる、なんてことを思った。こちらが3・11以来、ラ・マンチャ(乾いた大地)になっているからだろう。

10月20日からは東京・銀座のギャラリーヤマトで「阿部幸洋展 版のしごとvol.2」が開かれる。最終日の27日にもしかしたら東京へ行くかもしれない。そのとき、時間があれば寄ってみよう。

2012年10月7日日曜日

小白井きゅうり


おととい(10月5日)、いわき市生涯学習プラザでヒューマンカレッジ(市民大学)いわき学部の講座が開かれた。「大正101年 暮鳥圏の人々――一粒の種子が芽生えるとき」と題して話した。休憩時間に旧知のMさん(内郷)から「小白井(おじろい)きゅうり」を2本いただいた=写真

「小白井きゅうり」はいわき市の北部、川前町小白井地区で栽培されている自家採種の昔野菜(伝統野菜)だ。見た目はずんぐりむっくり。でも、『いわき昔野菜図譜』(2011年3月、いわき市発行)によると、肉質はシャキシャキとして歯切れがよく、香りが高い。漬物やサラダの生食のほか、皮をむいて種を取り、炒め物やみそ汁の具に加熱して食する。

今年1月末、中央台公民館で2回目の「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれた。去年の初回は「味わってください」、今年は「種をさしあげます」がポイントだったろうか。いわきの昔野菜の種をもらって帰る人がいっぱいいた。

Mさんのブログによれば、Mさんは友人が育てた「昔きゅうり」(いわき市三和町上三坂)と「小白井きゅうり」の苗を3本もらって栽培した。友人が昔野菜フェスに参加したのだろう。

そういえば、辛み大根の種をくれた知人も、この夏は「小白井きゅうり」に元気をもらいましたと、手紙に書いていた。やはり、昔野菜フェスで種をもらったのだった。

思いもよらない大震災・原発事故を経験しからこそだろうか、一粒の種が芽生え、育ち、実るのを見るのはうれしいものだ。ちっぽけな動きが希望につながる。「メソメソしてはいられません」「被災者の私でさえ百姓をしているのに、畑を荒らしてはダメだっぺ」としかられた。詩も、野菜も、一粒の種から、だな。

2012年10月5日金曜日

富岡町の平交流サロン開所


いわき市平の市街地に富岡町の生活復興支援センターいわき平交流サロン=写真=が10月1日、オープンした。スタッフ4人のうち、1人はシャプラニールが運営している被災者のための交流スペース「ぶらっと」(イトーヨーカドー平店2階)で、ボランティアとして活動していたYさんだ。

きのう(10月4日)、嵐のような低気圧が通過したあと、カミサンを車に乗せて陣中見舞いに行ってきた。

平交流サロンはイオンの近く、平字新田前6-10にある。前は動物病院だったとか。「ぶらっと」と同様、民間の借り上げ住宅(アパートなど)に入居している富岡町民が、町の情報を得たり、交流したりする場として設けられた。イベントも行われる。

10月は、7日・京都のボランティアによる足湯・お抹茶・匂香作り、10、24日・健康相談、17日・アロマハンドトリートメント、28日・FUKUSHIMA足湯隊による足湯が予定されている。

富岡町からの避難者であるYさんは、「ぶらっと」で親身になって来場者に接していた。大人にも、子どもにも、「ぶらっと」に来てくれてありがとう――そんな感謝の念がにじみでるような応対をした。それで、来場者はなごやかな気分になったものだ。人柄だろう。

昨年10月に「ぶらっと」を開設する前、シャプラニールはいわき市、富岡町、広野町、いわき商工会議所、社協などの関係者を招き、意見交換会を開いた。そのとき、富岡町の出席者から「いわきには4000人(現在は約5300人)が避難している。(シャプラが町より)先行して交流スペースを運営してくれるとありがたい」という発言があった。

それから1年余。福島市、郡山市、小名浜に次ぐ交流サロンが平に誕生した。「ぶらっと」では5月に最初の「富岡町民のつどい」が開かれている。連携・交流のかたちが整いつつある。「カルチャー教室に参加したい人がいたら『ぶらっと』を紹介します」。Yさんの「ぶらっと」での経験は、平交流サロンでも大きな力になるだろう。

2012年10月4日木曜日

海のバカヤロー


津波被害に遭った久之浜――。防波堤のそばに鎮座し、鳥居は流されたものの破壊を免れた小祠がある。希望のシンボルとして、ネットで紹介されることが多い稲荷神社だ。いわき市内のヤマとハマの被災地を訪ねるいわき地域学會の巡検(9月29日)でも立ち寄った=写真。ほんの気持ちだけ賽銭を納めて手を合わせた。

真ん前の防波堤に仮の祭壇があった。巡検の一行が手を合わせ、花に水をあげていたら、参加者の一人がちょっと離れたところから、海に向かって「バカヤロー」と叫んだ。友達がまだあがっていない、海を見るのは3・11以来初めて、だとか。

彼は別の海辺で生まれ育ち、画家になった。内陸の平に住んでいた。大震災で家が“全壊”になった。仲間とともに建てたログハウスのアトリエ兼たまり場が山里にある。そこで暮らしている。これも避難生活にはちがいない。

四倉へ移動するためにバスへ戻ると、別の参加者が道路向かいで地元の男性と話をしていた。かたわらには花壇がある。男性はその手入れをしていたらしい。そこで婦人消防隊員の母親が住民の避難誘導中に亡くなった。今でも海を見られない、あなたたちは幸せですねといわれた、という。返す言葉もない。が、その現実を学びに来たのだと言い聞かせる。

四倉から薄磯へ。豊間小で開催された豊間・薄磯・沼ノ内の復興祈念祭の初日、「安波さまの唄」を披露する浜菊会のステージを見た。リードボーカルは歌の伝承者・鈴木トヨノさん。海寄りの豊間中の奥にある民宿「鈴亀」のおばあさんだ。豊間中は津波の直撃を受けた。鈴亀は生き残った。

ステージの終わりに、謝辞として自分で考え、つづった文章を読みあげた。「昨年の3月11日 思いもよらぬ大震災 忘れることはできません 誰もが被災者となり 一時はどうなることかと おそろしさと不安 かくしきれません」

豊間中は、今はちょっと奥、山よりの豊間小に入居している。「小中学生の皆様 豊間小 母校にもどることができ 又今日は復興祭にと進むことが出来 うれしいです」「小中学生の皆様も強く明るく元気よく各諸先生の元に教養を身に付け 成人されますよう 祈る心でいっぱいです」

しめくくりは「老婆なり 大震災ありて唄ふ安波様でした」。文章のつたなさをこえた、真率なメッセージだった。

2012年10月3日水曜日

大津波が運んだ大仏石


四倉町上仁井田の岸前というところに、大津波が運んできたとされる「大仏石(でえぶついし)」がある。3・11に津波被害を受けた沿岸部からはやや内陸に入った小高い丘の下、民家が連なる集落の一角に鎮座する=写真

9月29日にいわき地域学會の巡検が行われた。ヤマの田人(4・11余震)を巡り、ハマの久之浜・四倉・薄磯(3・11津波)を歩いた。四倉では民家の奥にある大仏石を見学した。

大仏石には言い伝えがある。昔、この地方に大津波があったとき、海からあがった石が田んぼのなかをゴロンゴロンと転がって来て、岸前のふもとでとどまった。

いわき民報が平成10(1998)年5月28日付「カメラアイ」で大仏石を取り上げている。当主がそのコピーを持ってわれら一行を迎えてくれた。それによると、大仏石は高さ1.46メートル、幅1.2メートル、奥行き0.88メートル。見た目は「彫塑のトルソ(人間の胴体)に似た、柔らかい曲線を持つ石」だ。

なぜそれが大仏石と呼ばれるようになったのか。「外見は普通の石と変わらないが不思議なことに、子供が成長していくかのように、月日の経過とともに次第に大きくなっていった」。驚いた集落の人たちがいつからか大仏石と呼んで礼拝するようになった。ほかにも戦前は子どもの成長を、戦中は戦場からの生還を祈るシンボルとして信仰された。

3・11を経験したからこそいうのだが、私たちは歴史や伝承が語る過去の自然災害に対して鈍感だった。学び足りなかった。

大仏石を見に行って納得したことがある。岸前の西にあるのは塩木という集落。塩木は「潮来」。そこまで潮(津波)が来たという伝承がある。岸前は昔、海が近くまで来ていたことを示す。一帯は仁井田川の河口からおよそ1キロ上流だ。昔はそこまで大津波が押し寄せた――それを胸に刻む巡検だった。

2012年10月2日火曜日

被災地巡検


いわき地域学會は年に2回、巡検を開催する。先週土曜日(9月29日)に52回目の巡検を実施した。30人余が参加した。今回のテーマは「いわき市内の東日本大震災被害地を訪ねて」。参加者自身、被災者には違いないが、被害を受けた地域を自分の目で再確認し、震災がもたらした影響と今後の復興のあり方を考えよう――というのが趣旨だ。

いわき市は3・11だけでなく、1カ月後の4・11にも強烈な直下型地震に見舞われた。
3・11ではハマが津波によって甚大な被害を受けた。4・11ではいわきの南部の山間地で大規模な土砂崩れが発生した。まずはそのヤマの防災工事現場=写真=をバスから見た。

そこは浜通り南部と中通りを結ぶ「御斉所街道」(県道いわき石川線)。4・11の夕方に井戸沢断層と湯ノ岳断層が動き、震度6弱の地震に見舞われた。街道の至る所で山が崩れ、うち2カ所で家にいた3人と、車で通行中の1人の計4人が亡くなった。

東日本大震災から1年余がたった今年7月1日付で、いわきの死者は行方不明、関連死を含めて430人になった。当然、このなかにヤマの死者4人も含まれているだろう。

最初に田人公民館を訪ねた。ロビーに4・11の発生・被害状況を示すコーナーがある。断層がどう走っているのか、どんな状況で動いたのかを頭に入れた。

1年半余がたった今は、最大2メートルに及ぶ道路の段差や田んぼを貫く亀裂は、復旧工事などの結果、それとはわからなくなった。が、御斉所街道の土砂崩れ現場では、工事が進められているとはいえ、その崩落の規模の大きさに息をのんだ。そのあと、ヤマを下りて、いわきのハマ(久之浜・四倉・薄磯)を巡った。

いわきは小豆島をのぞいた香川県ほどの広さがある。ヤマ(山間部)がおよそ7割を占める。残りがマチ(平地)、そしてハマ(沿岸部)だ。広域都市のためにマチの人間には震災の全体像がなかなかつかめない。そのもどかしさを埋めるいい機会になった。

2012年10月1日月曜日

復興祈念祭


いわき地域学會の52回目の巡検がおととい(9月29日)、いわき市内で行われた。行程のなかに「豊間地区復興祈念祭――未来への架け橋 豊間・薄磯・沼ノ内」が組み込まれた。知人(地域学會相談役)が参加する、浜菊会のステージ=写真=を見るのが目的だった。

60年ほど前まで、豊間や薄磯、沼ノ内では旧暦の小正月に「安波(あんば)さま」の祭りが行われた。そのときうたわれた「安波(あんば)さまの唄」がある。唄を知っているお年寄りたちが請われて、神社の祭礼などでうたうことはあった。東日本大震災を機に、知人らが「安波さまの唄」を伝承する浜菊会を結成した。

復興祈念祭は29、30日と豊間小を会場に開かれた。歌あり、踊りあり、映画あり。ほかに屋台やバザー、写真展が行われた。二日目にはアクアマリンから移動水族館もやって来た。

豊間には大工の友人がいる。今年の3・11にキャンドルナイトが行われた。友人が大きな燭台をつくった。陣中見舞いに行ったら、手伝う羽目になった。闇のなかに「と・よ・ま」の文字が浮かび上がった。今度の祈念祭でも初日夕方、同じ燭台に「と・よ・ま」の灯かりがともったことだろう。

シャプラニールの元職員や交流スペース「ぶらっと」の利用者のほかに、友人らが組織した「とよま龍灯会」のメンバーがスタッフとしていた。今春、市役所を退職した沼ノ内の後輩も校庭で車を誘導していた。勿来のボランティアセンターで知りあった人間や、一緒に働いたことのある、今は母親記者にも会った。

初日は団体行動のために時間も限られていた。二日目、カミサンを連れて再び出かけた。ステージでは小名浜高校のフラチームが出演を終えたところだった。あとで知り合いの高校の教頭先生とばったり会った。今春、小名浜高に転勤した。フラチームのマネジャーをしているという。

キャンドルナイトのときもそうだが、豊間のイベントでは知人に出会うケースが多い。私らを含めてリピーターが多いということだろう。(昨夜から未明にかけて風雨が強まった。今朝は台風一過の青空。家の周りを見て回る。花鉢が二つ倒れただけで済んだ)