2012年10月15日月曜日

金澤翔子美術館


いわき市遠野町に金澤翔子美術館がある。金澤さんはダウン症の書家だ。建物に入るとすぐ正面に「希望光」の大作が飾ってあった=写真

リーフレットによれば、津波被災地を訪ねた彼女が瓦礫の間に小さな赤い花を見つけ、「希望の光だ」とつぶやいた。被災者に寄り添う思いを「共に生きる」に表し、希望があることを伝えたくて「希望光」を書いた。そもそも美術館がいわき市に開設されたのも、東日本の復興を願ってのことだという。

同美術館は2011年12月1日、「きもの乃館 丸三」の協力を得て、その建物のなかにオープンした。知人がスタッフとしてかかわっている。すぐにでも訪ねたかったが、ずるずると日が過ぎて、きのう(10月14日)、ようやくカミサンと訪ねた。作品を見るのが主。それは当然だが、同時に知人の陣中見舞いを兼ねる。

館内に入った瞬間に目が合った。「あっ!」となって、まずは観覧料1人800円を払う。知人に案内されて金澤さんの書を見て回った。

「空」の字がいくつか展示されているコーナーで、不覚にもこみ上げてきそうになった。「空」の字を見た子どもたちがさまざまな反応を示すのだという。「空」が笑っている・泣いている・パンダに似ている・疲れている……。金澤翔子さんのストレートな思いが字に反映され、子どもたちがまたそれを見てストレートに反応する。

NHKの大河ドラマ「平清盛」の題字は彼女が書いた。テレビでは縦3文字だが、美術館に展示されているのは横3文字だ。さすがに縦と横とでは雰囲気が異なる。が、「平清盛」も含めて彼女の作品には、一般のプロにはない豊かな造形性がある。

プロでもアマでもない、なにか別の――そう「天与の役目」(母親の泰子さん)を与えられた書体。私たちが使う「心」だとか「夢」だとかは、すっかり手あかにまみれてしまった。それをまっすぐ見つめて書くから、こちらにぐさりとくるのだ。そこが違う。久しぶりにゆったり、ふんわりした時間をもてた。

2012年10月14日日曜日

わがふるさとで休憩された


天皇・皇后両陛下がきのう(10月13日)、阿武隈高地の川内村を訪問された。東北新幹線で郡山駅に着いたあとは、車で国道288号=写真=を東進し、田村市都路町から国道399号に折れて川内村へ入られた。

東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を受けて「全村避難」を強いられたが、今年に入って村長が「帰村宣言」をし、4月に役場機能が村に戻った。村民が帰村するための除染作業が行われている。仮設住宅も建てられた。その視察と激励が目的だ。

私はすっかりいわきの人間になったが、生まれも育ちも川内村の隣、同じ阿武隈高地の田村市常葉町だ。阿武隈をふるさととする人間として、両陛下の来訪が、川内村民のみならず両国道沿いに住むわが身内を、親戚を、知人・友人を元気づけた――と容易に想像できる。

両陛下が利用されたルートは、いわきから川内経由で田村市常葉町の実家へ帰るときのルートでもある。常葉町の先、船引、三春、郡山へと続く道も、子どものころ、バスで行き来したのでなじみがある。

3・11後、「ニーパーパー」(国道288号)は原発事故の避難ルートになり、記者たちの取材ルートになった。8月に帰ったときには、警視庁から派遣されているパトカーとすれ違った。そして今度は、両陛下がそのルートを往復された。

住民は沿道のあちこちで、小旗を振りながら両陛下の車が通られるのを見守ったことだろう。けさの福島民報によれば、両陛下は行きと帰り、田村市常葉行政局(旧常葉町役場)で休憩された。わがふるさとで休まれた、通過しただけではなかったのだと、胸のなかでもう一人の自分がつぶやいていた。

2012年10月13日土曜日

除染講習会


放射線・除染講習会が8月25日(いわき市総合保健福祉センター)と、9月29日・10月11日(市文化センター)に開かれた。8月の講習会に参加した=写真。10月11日には、区長さんと一緒に受講した。

最初の案内文書に、放射線や除染の知識を持つ人材を確保し、放射線に関する正しい理解や、生活圏の除染を推進するため、地域で放射線測定や除染活動を実施する団体のリーダー等――が対象とあった。

区内会の一員として定期的に区内の放射線を測定している。昨年11月下旬には、子供を守る会の保護者の協力を得て、通学路の高圧洗浄や公園の生け垣の剪定、草刈りなどの除染作業を実施した。今さら講習会もないものだと思いながらも、放射線への理解を深めることにした。

1回目と3回目とで講座の内容に違いはない。①放射線測定と除染活動の推進について②放射線の基礎③除染の基礎――だ。題目は同じでも回を追って話の中身が深まるのだろうか。そんな期待があったが、最初の話のおさらい、あるいは講師が異なることによる情報の追加、といった程度だった。

区内10地点の線量(地上5センチ、1メートル)を1人で測定している。測定機器はサーベイメーター(ラディ)で、電源をオンにして35秒がたつと数値が表示される。数値は10秒ごとに変化する。65秒から測定を開始するのだという。そんなことを今度の講習会で知った。

つまり、最初の3回の数値は無視する。1分以上たったあとの4回目から8回目まで、計5回の数値を記録して平均を出すのが「正しいやり方」だという。自分の体が遮蔽物にならぬよう、ラディから体を離すことも学んだ。

これまでは、「平均」よりは高くなって下がる「頂点」の数値を記録してきた。平均すればたぶんそれより低い値になる。1人で測定する以上は、「目安」としてのデータしか出せない。としても、一度平均値を出す必要はある。

2012年10月12日金曜日

溪谷のセイタカアワダチソウ


夏井川渓谷の秋にそぐわない色がある。十何年か前に帰化植物のセイタカアワダチソウが咲いた。ヨシ原が一度刈られ、放置されたあと、瞬間的に根づき、花開いたのだ。それ以来だろう、セイタカアワダチソウの黄色い花に気づいたのは=写真

自分の記録に当たったら、無量庵の下、岸辺のヨシ原が刈り払われたのは1998年だった。無量庵の対岸に水力発電所を持つ東北電力が、尾根筋の送電鉄塔を高くする工事をした。川をはさんだこちら側、ヨシ原が資材置き場になった。ヘリコプターが現れ、ホバリングをして資材を運ぶのを、無量庵から眺めた。V字谷ゆえの、曲芸的な作業だった。

工事が終わった翌年、資材置き場はススキが伸び、ヨシもちらほら生えて「ボサ」(灌木などが生えた草むら)になった。さらに次の年には元のようにヨシが優先し、間にセイタカアワダチソウが黄色い花を点々とつけた。セイタカアワダチソウは翌年、ヨシに埋没して姿を消した。

無量庵の隣に「錦展望台」がある。所有者が古い家を解体し、谷側の杉林を切り払って行楽客のビューポイントにした。道路をはさんだ山側の杉も伐採した。そのあたりに、セイタカアワダチソウが生え、花をつけた。去年も咲いたかどうか、ちょっと記憶にない。

よくよく見たら、少し下流、洪水でえぐられ、復旧工事が行われた路肩にもセイタカアワダチソウが咲いていた。いったん裸地化したところは、セイタカアワダチソウの絶好のゆりかごなのだろう。

それからの連想――。耕作が行われなくなった双葉郡の田畑は、セイタカアワダチソウにとっては天国だ。「季節外れの菜の花畑のようだった」と新聞記事にあった。原発避難者は美しかったふるさとの風景の変貌に心を痛めているに違いない。

2012年10月11日木曜日

ハクチョウ飛来


国道399号はいわき市小川町・三島地内で夏井川と出合う。きのう(10月10日)、国道と並行する川に成鳥2羽、幼鳥3羽、計5羽のコハクチョウが羽を休めていた=写真。夏井川渓谷の無量庵へ行く途中、「もしや」と思いながら近づいた。川が見えた瞬間、「もしや」が現実になった。

急に冷え込んできたので、ハクチョウの飛来が早まりそうな予感はしていた。猪苗代湖に飛来したというニュースに接していたのが大きい。にしても、まだ10月上旬から中旬に移るところだ。いわきへの飛来は最も早い部類に入るのではないか。

私がフィールドにしている夏井川の下流、平・塩~中神谷地内では、コハクチョウの飛来はだいたい10月下旬だ。昨年は10月29日、おととしは10月23日だった。主な越冬地の平中平窪は、中神谷から4~5キロは上流だろうか。そこに現れたあと、下流の塩~中神谷へ、上流の三島へハクチョウたちが分散する。

三島でコハクを見た以上は、中平窪も、塩~中神谷もチェックしておこう、となるのは当然だ。無量庵からの帰り、三島でウオッチングすると、コハクと一緒にいたオナガガモが4羽になっていた。いよいよ中平窪に飛来しているのを確信する。

中平窪は、少し上流の久太夫橋から眺めた。思ったより多くのハクチョウがいた。間違いない、第一陣がやって来たのだ。その足で塩~中神谷へ行く。ハクチョウたちの姿はなかった。が、ここへやってくるのも時間の問題だろう。

今年は夏に、死んだと思っていた残留コハクの「左助」が現れた。まるまる3年ぶりの再会だった。現れたと思ったらすぐ姿を消した。少したってまた現れ、すぐまた姿を消した。どうやって3・11をしのいだのか、インタビューしたいくらいだが、「左助」は声をかけても応じない。今年は2009年以来、4年ぶりに仲間と再会する。そんな期待が膨らむ。

2012年10月10日水曜日

シャプラニール40周年


いわきで被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営している、シャプラニール=市民による海外協力の会が今年、設立40年の節目を迎えた。会報「南の風」40周年記念号に、強口暢子いわき市社会福祉協議会長が寄稿している=写真

社協は3・11後、全国から駆け付けた社協職員やNPO、ボランティアなどの受け入れ窓口になった。「この1年以上にも及ぶ取り組みの中で、多くの支援団体に支援を頂いたが、シャプラニールの存在とその活動は群を抜いている。(中略)私ども社協にとっても欠くことの出来ない心強い存在になっている」。強口会長の実感だろう。

シャプラの前身「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ち上げた一人が、いわき市出身の親友だったので、そのころからシャプラの活動を視野に入れてきた。シャプラは3・11後、いわきを拠点に支援活動を展開している。いわきのDNAをもった組織だからこそと、私は勝手に解釈している。

10月27、28日には東京・芝の増上寺三縁ホールで40周年記念のフエスティバルが開かれる。被災地支援の一環としていわきの民工芸品や野菜が販売される。出店するのはスカイストア(野菜)・クラフト夢現(木工芸品)・木地処さとう(伝統こけし)・いわき絵のぼり吉田(絵手ぬぐい)・磐城高箸(割箸セット)。関東の人はぜひおでかけを。

シャプラは今年、沖縄県が主催する「沖縄平和賞」を受賞した。沖縄県が評価したということが、なによりもうれしい。ついでにいえば、「ぶらっと」もきのう(10月9日)、開設満1周年を迎えた。

2012年10月9日火曜日

津波は南から来た


先日、いわき地域学會の巡検が行われ、4・11で被災したヤマ(田人)と、3・11で津波に襲われたハマ(久之浜・四倉・薄磯)を訪ねた。ハマでは、防波堤のそばに仮の祭壇が設けられたり、コンクリートの基礎だけになった住家のあとに花が供えられたりしているのを見た=写真

巡検参加者におととい(10月7日)、いわき自然史研究会編『証言 2011年3月11日 いわき~伝え継ぎたい東日本大地震の記憶~』(2012年3月11日発行)を発送した。デジタル技術にかけてはピカ一の事務局次長・巡検担当のW君が来宅し、10、11月の地域学會市民講座の案内はがきも印刷し、投函した。

自然史研の冊子は①証言(60人余が3・11と4・11の体験記を寄稿)②地震被害③津波被害――の三本立てだ。体験記を投稿したので、春に冊子が届いた。今回、巡検の資料として冊子を調達し、発送したあと、遅ればせながら熟読した。

自然史研は地質学がベースの民間調査研究団体だ。地震・津波に関する考察に合点がいった。

久之浜の波立海岸にある弁天島は大地震にも姿を変えず、大津波に襲われても鳥居は無事だった。弁天島と連なる陸側の岬も変化はなかった。ほかの岬が崩落したのに無事だったのは、島も岬も硬い岩でできているからだとか。

「津波は南から来た」。体験者が口々にいう。なぜそうなのかわからなかったが、冊子を読んで納得した。

「2011年3月11日午後2時46分、岩手県三陸沖で起こった地震により津波が起こる。この津波はその後約15分(午後3時頃)で第一波がいわき市に到達する」。第一波はさほど大きな津波ではなかった。

「いわき市を通過した津波は、その後に茨城県沖で起こった地震の津波といわき市より南でぶつかり津波が増幅したと考えられる。これが第二波以降となり、第二波はいわき市に3時30分頃に到達した」

この第二波と第三波がいわき市に大きな被害をもたらした。津波が南から来たメカニズム、地形による被害の大小がようやく頭に入った。これも巡検のおかげだろう。