2008年5月7日水曜日

「セドガロ」宣言


いわき市立草野心平記念文学館専門学芸員の小野浩さんから『草野心平――昭和の凹凸を駆け抜けた詩人』(歴春ふくしま文庫)=写真=の恵贈にあずかった。

平成15年、福島民報が心平生誕100年を記念して「天の詩人」を連載した。小野さんは心平の「生涯」を担当した。本は、連載時の文章に加筆した第一部「昭和の凹凸を駆け抜けた」と、第二部「草野心平のかたち」、第三部「草野心平と磐城平の詩人年譜」からなる。

専門学芸員ならではの資料の読み込み、調査の蓄積に裏打ちされた安心な本――というのが、第一印象である。そして、なによりも私が評価したいのは、(本の趣旨からすれば副次的なものにすぎないかもしれないが)第二部の「五 心平が故郷に残した形――心平が命名した『背戸峨廊(せどがろ)』」だ。

「背戸峨廊」(夏井川の支流江田川)はいつの間にか「せとがろう」と誤読され、道路の案内標識にまで誤記されるようになった。3月3日にこの欄で「背戸峨廊のこと」と題して、そのへんの経緯を書いたから、詳しくはそちらを見ていただきたいが、影響力のあるエッセイストや新聞が誤記するから、ますます誤った読みが一人歩きをするようになる。

いわき市観光物産協会も誤記・誤読を追認・助長しているフシがある。先の大雨で橋が流され、「トッカケの滝」から先が通行禁止になっていた背戸峨廊が、工事が終わって5月3日から入山できるようになったという記事を、同協会がネットで配信した。検索用キーワードに「せとがろう」「せとがろ」があって、「せどがろ」「せどがろう」がないのはなぜか。本家本元がこの調子では、誤記・誤読は垂れ流しされ、増殖されるままだ。

小野さんの本はこうした誤記・誤読に待ったをかける遮断機となる。いや、なってもらわないと困る。「磐城平」を「いわきだいら」と誤読されていい気分でいられるはずがないのと同じで、「せとがろう」では不快な気持ちをぬぐえない。

地元の人間が江田川を「セドのガロ」=「セドガロ」と呼び習わしていた。終戦後、中国から故郷へ引き揚げてきた草野心平が地元の人間と江田川を探索して、「セドガロ」に「背戸峨廊」の漢字を当てた。これが真実であり、始まりである。

『草野心平全集』第8巻所収の「背戸峨廊の秋」には、「背戸峨廊」に「せどがろう」のルビが振られてある。で、私はこれまで「せどがろう」で通してきたが、これからは原点に帰って「セドガロ」と呼ぶことにする。

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