2011年6月25日土曜日

マメダンンゴ掘り


一週間に一度は、頭の中身が「街の人間」から「山里の人間」に切り替わる。人間と人間の関係にどっぷりつかっていると、人間と自然の関係が見えなくなる。人間と自然の関係に思いが至らないと思考のバランスが保てない、という怖さがある。「3・11」以後は特にそうだ。

新聞記者は、人間だけを相手にしていて事足れり、と思ったらおしまい。思考のバランスを取るには、住んでいる地域の自然への意識が欠かせない、と思って、この30年間を生きてきた。

哲学者の内山節さんが言う、自然と人間の交通を、自然と自然の交通を、実地に教えてくれるのが、かつては平の里山の石森山であり、今は夏井川渓谷の小集落・牛小川だ。

一年を通してみれば、四季があるから当然なのだが、自然とのかかわりは絶えず異なる。自然は流動している。すみかは変わらずにそこにあるけれども、自然の「流れ」のなかで人間は暮らしているのだ。

春には、栗の実はならない。秋には、ワラビは出ない。常に、今ある自然と向き合うことになる。個別・具体の世界。頭でっかちは、そこでぎゃふんとなる。どんないい文章を書いても、自然への思いやりが欠けているものはノーサンキューだ。

その、牛小川の今は――。水曜日(6月22日)、夏井川渓谷の無量庵でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)=写真=掘りをした。青葉が陽光を遮る、苔むした庭の一角。かがみこみ、ふわふわした苔を手で圧(お)す。苔の下の土中に幼菌が形成されていれば、そこだけ硬い感触が手のひらに伝わる。

ン?となったら、指で土の中をまさぐる。コロッと丸い幼菌が姿を現す。小石のときもある。が、たいがいはマメダンゴだ。そうやって、苔に手型を押し続ける。30個くらいはすぐ採れる。

無量庵の庭でマメダンゴが採れるとわかったのは、一昨年(2009年)の梅雨どき。ヒトデのように外皮の裂けたツチグリの成菌を発見してからだ。一般的には、ツチグリは真砂土(まさど)が露出した山道ののり面などに発生する。わが無量庵のように、苔むした庭に出るのは珍しい。

一昨年と昨年は7月に入ってからのマメダンゴ掘りだった。多少大きくなり過ぎていた。大半は食べられなかった。二つに割ると、中が“黒あん”になっている。すでに胞子が形成されていた。今年は中身が“白あん”の未熟なマメダンゴを掘ろう――それで、6月下旬の“手型押し”になった。

サイズはほとんどが小指大。これだと中身は間違いなく“白あん”だ。洗って砂を落とし、念のために二つに割る。白い。みんな白い。

マメダンゴご飯にした。炊き込みだ。残りはみそ汁に。外皮のこりこりとした歯ざわり、“白あん”のぐにゅっとした軟らかさとほのかな甘みが何とも言えない。梅雨どきの、阿武隈高地独特の珍味ではある。

あす(6月26日)の日曜日、もう一回、マメダンゴを掘りに行くことにしよう。

1 件のコメント:

kaze さんのコメント...

知る人ぞ知る!川前ではマンマイダンゴとよぶ。新ジャガとマンマイダンゴとキヌサヤ。この味噌汁を食べないと、その年の、その季節が来たような気がしない。そのほか、チチタケと茄子の炒め物。あれを食べないと、その年の夏が来たような気がしない。でも、それは、思い出の世界になってしまいました。本日、チチタケの分析結果を受け取ったので、記載します。セシューム134(1.520.0)+セシューム137(1.970.0)合計3490.0単位はベクレル。私は50歳を過ぎています。食べて大丈夫なんでしょうかね~。ただちに健康に影響ないですかね~。