2025年5月31日土曜日

浅漬けはカマルグの塩で

                                 
 ミョウガタケ(ミョウガの若い穂)は香りを楽しむ。家の庭に群生する。ときどき根元からカットして食べたが、旬は間もなく終わる。

 まずは刻んで味噌汁に散らす。糠床に入れる。あとは、即席漬けだ。そのことを前に書いた。

 カブとキュウリを買って来て薄切りにする。ミョウガタケを細かく刻む。これをだし昆布と庭のサンショウの若葉とともに、即席漬けの容器に入れて塩でまぶす。あとはバネ式の蓋を閉めて水が上がるのを待つだけ。

 初夏らしいさわやかな風味に包まれた一夜漬けだ。朝漬ければ昼にはもう食べられる。「半日漬け」でもある。

 塩は特別のものがあった。南仏・カマルグ産の天日塩で、容器には「フルール・ド・セル(塩の花)」と書かれている。

この塩は、カミサンが同級生からもらった。子どもがフランスに住んでいる。子どもを訪ねたとき、お土産に買って来たのだという。

日本の食塩よりはやや粒が大きい。なめると甘みもある。ミネラル分が多いのだろう。

「カマルグの塩」で検索すると、テレビで見た南仏の太陽と海の映像が広がった。完全な天然海塩で、フランスの料理人たちにこよなく愛され、「塩の真珠」と呼ばれているそうだ。

塩田に地中海の海水を引き、春から夏にかけて太陽と風の力で濃縮されることで、濃厚で力強い味の塩になるのだとか。

南仏の海浜といえば湿地帯が思い浮かぶのは、むろんテレビの自然番組の影響だろう。

野生の白馬が生息し、フラミンゴの大群が羽を休めている――これが一般的な南仏の海浜のイメージだが、そこに塩田も広がっているということになる。

 さて、そこでつくられた塩を使えば、少しは変わった一夜漬けができるのではないか。がぜんやる気になったので、直売所へ寄ったときにカブとキュウリを手に入れた。

 折から、山菜のお福分けが続いた。煮物や汁物にしても食べきれない。てんぷらにもなった。

 そのてんぷらにカマルグの塩をパラッとやる。とりわけ、タケノコにはこの塩が合った。タマネギのかき揚げもいける。

てんぷらはふだん、醤油につけて食べる。が、塩の方がいい場合もある。タケノコはそれで味がよく引き立った。

 一夜漬けの話に戻る。水はすぐ上がった。塩は控えめにまぶしたので、わりとあっさりした仕上がりになった。

 キュウリとミョウガタケの緑、カブの白と、いかにも5月にふさわしい彩りだ(と最後の日になって思う)。ご飯だけでなく、晩酌のつまみにもなった。ほのかに甘い塩味がとてもよかった。

2025年5月30日金曜日

『心臓とこころ』

 カテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けて10カ月余り。術後1年になる7月にはエコー検査などで経過をみる。

 子どものころから慢性の不整脈とともに生きてきた。血圧も高めだった。東日本大震災を機に症状が進み、血圧のほかに心臓のクスリも飲むようになった。

 その中で行われた左心耳閉鎖術だ。心臓由来の血栓の90%は左心耳で形成される。血栓による脳卒中を予防するのが目的だった。

心臓にも耳があることを初めて知った。ハートに羽がついたり、矢が刺さったりしたイラストにはなじんでいるが、耳のあるハートはまだ見たことがない。

ある日、図書館へ行くと、新着図書コーナーに心臓の本があった。ためらうことなく借りて読んだ。

ヴィンセント・M・フィゲレド/坪子理美訳『心臓とこころ――文化と科学が明かす「ハート」の歴史』(化学同人、2025年)=写真。

著者はアメリカの心臓専門医だそうで、長らく心臓に関する文献を収集してきた。その知見が本書に反映されている。

一般向けの教養書である。心臓=こころを表すハートのマークはいつころから使われるようになったのか。この一点だけでも興味がある。

明確に断定できる材料はない。本書の冒頭でスペインの洞窟壁画に触れ、後期旧石器時代、マンモスの絵の胸に赤い心臓のようなものが描かれていることを紹介している。

旧石器時代から人間は心臓をハート型のものとしてとらえていた、ということを暗示しているのだろうか。

下って11世紀。キリスト教神学では、ハート型がイエス・キリストの心臓を象徴するようになった。

さらに15世紀。ルーブル美術館に展示されている作者不明のタペストリー「心臓の捧げ物」(本書のカバー画像)についての説明。心臓はこころ=愛ということが含意されている。

「騎士が自分の心臓、すなわち自らの愛の象徴を、親指と人差し指の間に挟んで掲げている。心臓の形は、今の私たちがハート型として認識している印とよく似ている」

トランプのハートにもいわれがあった。ヨーロッパ中世の封建制度における身分を表しているという。

スペードは紳士階級、ハートは「純粋な心」の聖職者階級、ダイヤは商人階級、クラブ(クローバー)は農業もしくは小作農階級――なのだとか。

バンクシーの「風船と少女」は「風に運ばれていく赤いハート型の風船に手を伸ばす幼い少女の姿」を描いたものだ。著者は、現代アートには心臓のモチーフが浸透しているともいう。

それよりなにより、現実の心臓病の教材として心に残ったのが、あのオノレ・ド・バルザックだ。

彼は「うっ血性心不全」を抱えていた。体には水分がたまり、足は浮腫でむくみ、やがて感染症から壊疽(えそ)を起こして、51歳で亡くなった。

    そう、バルザック的むくみには気を付けないといけないのだ、きっと。 

2025年5月29日木曜日

街の本屋がまた消える

                     
    いわき市平字二町目のヤマニ書房本店が6月30日で閉店する。5月27日、同店の「お知らせ」がネットを駆け巡った。フェイスブックでそれを知り、絶句した。

 もう60年前になる。15歳で阿武隈の山里を離れ、浜通りの旧平市(いわき市)にある高専に入って、寮に住んだ。

 日曜日には仲間とバスで街へ繰り出した。駅前で下りると、本屋があった。ヤマニ書房だった。

 そこでよく本を買った。今でも覚えている本がある。大ベストセラーになり、歌も映画もヒットした『愛と死をみつめて』。相愛の若い女性が病気で死ぬ純愛ノンフィクションだった。

 地元紙の記者になってからは、さらにつながりが深まった。二町目に6階建ての本店ビルが建つと、そこへ通い続けた。

 1階から3階まで本が並んでいる。ジャンルの異なる本の背表紙をながめるだけでも豊かな気分になった。

まだちゃんとした図書館がなかった時代、街なかへ昼を食べに出たあとは、ほぼ毎日、本店へ足を運んだ。

いつからか店長や従業員と顔見知りになり、月末払いのツケで本を買うようになった。結婚したあとも本代が月4~5万円になり、カミサンが渋い顔をした。

 仕事柄、ヤマニ書房の沿革や経営者の来歴を知るようになった。秋田生まれで、好間で炭鉱を経営して財を成した小田吉次の遺族が始めたのが、平駅前のヤマニ書房だった。

小田吉次については、いわき市が1993(平成5)年に発行した『いわきの人物(下)』に詳しい。

 同書は、いわき地域学會が市から受託して執筆・編集を担当した。私も校正に携わった。

 小田吉次には「炭鉱王・篤志家」という肩書が付いている=写真。篤志家の部分だけをピックアップすると、1936(昭和11)年、磐城高女(現磐城桜が丘高)に「小田講堂」を、1952(同27)年には磐城高校に図書館を、さらに1957(同32)年には遺言によって好間中に体育館を寄贈した。

 『いわきの人物』では、遺族は書店の経営に身を入れているとして、ヤマニの名前の由来が記されている。

小田吉次が経営した炭鉱の印が「ヤマイチ」だったので、本屋の名前を「ヤマニ」にしたのだそうだ――と。

 平商事がヤマニ書房を経営している。同社は、いわき駅前のラトブ店とイオンいわき店の2支店はこれまで通り営業を続けるとしている。

 いずれにせよ、わが家の本の大部分はヤマニ書房本店を介してそろえたものだ。今では処分に困るほどでも、現役のころは絶えず本が血、いや知の一滴になった。お世話になりました、ヤマニの本店さん。 

2025年5月28日水曜日

繰越金

                                
   新年度がスタートして早くも2カ月。区内会だけでなく、地域の各種団体も新しい事業計画と予算に基づいて活動を始めた。

始めたといっても、実際はエンドレスだ。活動には始まりも終わりもない。いちおう区切りとして年度ごとに総会を開き、事業経過と決算を承認して、新年度の事業計画と予算を決める。

予算・決算の項目に「繰越金」がある。当年度の決算で手元に残った余剰金を確定し、繰越金として次年度の予算に計上する。

繰越金は多ければ多いほどいい、というものではない。区内会でいえば、各世帯が負担する区費が収入の基盤になる。これに基づいて各種事業を展開する。事業を抑えれば支出は減る。すると、繰越金は膨らむ。

その団体にふさわしい繰越金の額があるかどうかはわからない。しかし、収入を超えるような繰越金は、やはり見直しが必要になるのではないだろうか。

実はわが行政区でも、このことが問題になった。コロナ禍による総会を、対面ではなく書面審議に切り替えた時点で、「繰越金が多すぎるのではないか」との指摘があり、当年度中に善後策を検討することを約束した。

区内会の役員が集まって協議した結果、コロナ禍前の決算状況に近づけるため、区費の3年間減額を決めた。

2025年度はその2年目。前年度と同様、減額理由を記した回覧文=写真=を配り、隣組ごとに区費を集めてもらった。

繰越金が膨らんだ理由ははっきりしている。コロナ禍による行事の中止が相次いだことが主因だ。

球技大会や体育祭をはじめ、各種行事が中止、あるいは規模が縮小され、事業費や負担金、助成金、交際費(祭礼等の祝い金)などの支出が減った。

 区内会に限らない。地域には実に多くの団体がある。防犯協会、体育協会、青少年育成市民会議……。

 これらの団体のなかには繰越金の扱いを協議して、会費や負担金の徴収を見合わせる、というケースがみられた。

 地域に根差した非営利団体にはちがいない。多くは前例踏襲で事業や予算を組む。それで問題が起きるようなことはまずない。

役員をやっているとつい、惰性でコトを進めようとする。繰越金の膨張にも鈍感になってしまう。

「多すぎる」とはなんとなく感じつつも、めんどうなのでそのままにしておく。と、やがて組織は酸欠状態になる。

それに「待った」をかけ、風通しを良くするのは、やはり若い人、あるいは新しく役員になった人だろう。

社会の常識という尺度から繰越金の額を見直す――ポストコロナ禍の今こそ、その時期にあるようだ。

2025年5月27日火曜日

山形のワラビ

                                 
 カミサンの知り合いからワラビとマイタケをちょうだいした。山形産だという。同じ日、近所に住む奥さんから家庭菜園のサヤエンドウが届いた=写真。

 これは前にも書いたことだが、春になるとネットで出荷が制限されている山菜を確かめる。

いわきでは今年(2025年)も、ゼンマイやワラビ(野生)、コシアブラ、タケノコ、タラの芽(野生)、原木ナメコ(露地)の出荷が制限されたままだ。

野生のキノコは出荷だけでなく、摂取も制限されている。除染が済んだ夏井川渓谷の隠居の庭に生えるキノコ以外は、まず口にしたことがない。

 そのなかで届いたワラビである。東日本大震災に伴う原発事故後初めて、放射能を気にせず食べる山菜といってよい。

 カミサンもワラビとはしばらくぶりだったのか、「どうやってアク抜きするんだっけ?」と台所から叫ぶ。

 私も急いでネットで手順を確かめる。灰を使うのは子どものころから知っている。重曹でもできる。あとでカミサンに聞くと、炭酸を使ったという。

 炭酸? たぶん重曹のことだろう。重曹は炭酸水素ナトリウムで、「タンサン(重曹))として売られている(スーパーにあった)。

 ワラビの袋に張られたラベルから、産地は山形県大江町、売っていたのは地元の道の駅であることがわかった。

大江町は初めて聞く名前だ。ネットで調べると、あの「おしん」(朝ドラ)の有名な「筏(いかだ)下り」のロケ地ではないか。

大江町は山形県の中央部、天童市の西方で、朝日山地の東端に位置する。昭和34(1959)年8月、左沢(あてらさわ)村と湯川村が合併して誕生した町だという。

同町の左沢地区は、かつて最上川舟運の中継地として栄えたところだそうだ。筏下りはその名残でもあろうか。

酒田での奉公のために、子どものおしんが筏に乗って最上川を下る。河原では母親が泣きながら筏を見送る。あの有名なシーンが思い浮かんだ。

その最上川は福島県との境の西吾妻山に発し、山形県の中央部を縦断しながら新庄市付近で西に向きを変え、酒田市で日本海に注ぐ。

大江町付近でも蛇行し、筏下りのロケ地を過ぎると曲流して東へ向かい,やがてまた北流する。それもあってか、付近では近年、水害が続発したそうだ。

さて、いわきと山形となれば、平山崎の専称寺である。その末寺が大江町にあるのではないか。

故佐藤孝徳さんが平成7(1995)年に発刊した『浄土宗名越派檀林専称寺史』に当たると、「左沢村」に「観音山法界寺」があった。

大江町には山号が「左沢山」の法界寺がある。専称寺末だった法界寺だろうか。たぶんそうだろう。ロケ地からは少し北西の方向にある。

ワラビはちょっと煮過ぎたのか、アクは抜けたがだいぶ軟らかくなっていた。でも、おしんやお寺の話が加わった分、滋味は増したようだった。

2025年5月26日月曜日

さや大根

                       
 こういうのをカルチャーショックというのだろう。いわき昔野菜保存会の総会のあと、交流会が開かれた。その席で知ったことだ。

 大根は地中で長く肥大した根を食べる。秋まきなら冬、春まきなら夏と、年に2回は栽培・収穫できる。

 それしか頭にない人間には、根ではなく開花後にできるさやを食べると聞いたときには、最初なんのことかわからなかった。「さや大根」だという。

 白菜、大根、ニンジンその他、野菜は薹(とう)が立つ前に収穫する。つまり、未熟な状態で収穫するのがコツ、ということになる。

 さや大根はその逆だ。わざわざ薹が立って花が咲くのを待つ。そして、結実し始めた若いさやを収穫する。

花を食べる、さやを食べる、というのはなかなかイメージしにくい。が、キヌサヤエンドウは花が咲いたあとの若いさやを食べる。この点では、さや大根はキヌサヤと同じだろう。

白菜の菜花を食べる話は知っていた。私らも春になると、菜花をもらって食べる。そのためだけに種まきをずらす友人もいる。

 白菜も大根も同じアブラナ科だ。花が咲けば実がなる。その実がさやの中で形成される。キヌサヤを栽培したことがあるので,実の形成過程は想像がつく。

夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。辛み大根は今や自生に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

たまたまさやが落下したのをそのままにしておいたら、月遅れ盆のあとにちゃんと双葉が現れた。

この何年か、さやごと種を収穫したあとにこぼれ種で発芽した辛み大根だけを育てている。

 その辛み大根が、今年(2025年)も開花したあと、さやをいっぱい付けた。これもさや大根だから、食べごろにはちがいない。

さや大根の話を聞いたのは土曜日(5月24日)。翌日曜日朝、雨が小やみになったところで、辛み大根のさやを摘みに隠居へ出かけた。

さやはこぶ状にふくらんだものからでき始めたものまでさまざまだった。しかも、まだ鮮やかな緑色をしている=写真。

そのうちの一つを、生のまま試食する。辛くはない。実もやわらかい。かんだあとからほのかに大根の味がした。

これはいける! キヌサヤと同じように、汁の実・炒め物・煮物にいいのではないか。

というわけで、まずは湯がいてマヨネーズあえにしてみた。味はほとんどない。が、何度も食べているうちに、ほのかな辛みが広がってきた。

辛み大根は冬、よくて牛乳瓶くらいに肥大した根を引っこ抜き、おろして薬味にする。とにかく辛い。それもあって、一冬に利用するのは4、5本程度だ。

 そのために春がくると、狭いエリアながら一角が大根の花だらけになる。当然、さやも始末に困るほど付く。

それをさや大根として利用できるなら、一石二鳥だが……。マヨネーズあえだけでは、まだなんともいえない。いろいろ試してみるとしよう。

2025年5月24日土曜日

「編む」ということ

                                              
   編み物の「編む」がテーマなのに、勝手に編集する意味の「編む」と思い込んでしまった。

「ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎあわせる」というサブタイトルも、誤読を誘った。

ロレッタ・ナポリオーニ/佐久間裕美子訳『編むことは力』(岩波書店、2024年)=写真。カミサンが図書館から借りて読み終えたあと、手に取った。

編み物を通して、編み物の歴史と本質を考察した本だった。著者は編み物を実践するイタリア出身のエコノミストだという。

本のカバーのそでに「心安らぐ趣味として親しまれる編み物は、フェミニズムや社会運動を支えるツールでもあり続けてきた」とある。

そこから「個人と政治、愛と経済を結びつけ、社会を何度でも編み直してきたパワーの歴史」をたどっている。

編集の仕事をしてきた経験からいうのだが、編集とは新聞や本、雑誌などをつくることだけではない。自分の一日の予定を組み立てることも一種の「編集」とみなすことができる。

その意味では、人間は絶えず自分を、自分と社会とのかかわりを「編集」しながら暮らしている、と私は思っている。

編み物はむろん、やったことがない。子どものころ、毛糸の束を腕にはさんで、母がぐるぐる毛糸玉を作る手伝いをしたことがあるだけだ。

冬は主に手編みのセーターを着た。結婚してからは、元は漁師が着ていたというアイルランドの「アランセーター」にもそでを通した。冬、ニットの帽子をかぶっていたこともある。

そんな記憶がよみがえったものの、技術的な話はさっぱりわからない。ただ、「愛と経済」の意味はなんとなくわかった。

アラスカの先住民の話が出てくる。「大半の女性たちはお金のために編み物をし、家族の収入に貢献した」

刺繡(ししゅう)もそうだろう。シャプラニール=市民による海外協力の会が支援活動を続けているバングラデシュには伝統的な刺繍ノクシカタがある。

これを生かしたフェアトレード商品がある。生産者の生活向上を目的にしているところは、編み物と同じだ。「愛と経済」はこのことをいうにちがいない。

 シャプラニールは具体的な取り組みとして、児童労働削減のため、現地のパートナー団体とともに、ダッカ市内でヘルプセンターを運営している。

14歳以上の家事使用人の少女には縫製、絞り染め、ブロックプリントなどの職業訓練を、さらに全員を対象にした授業では刺しゅう、調理実習、ペーパークラフト、アクセサリ―作りなどを行っている。

というわけで、編み物についてはよくわからないうちに読了した。そして、これは付け足り。

手芸の編み物が確立するより前に、編むこととして漁網があったらしい。「網」は「編み」と同根なのだろうか。

2025年5月23日金曜日

情報に感謝

                                            
 たまにブログのコメント欄を開く。新しいコメントが入っているときがある。先日は「カエデ」さんから、やなせたかしの父親と草野心平に関する情報が寄せられた。

 「クエルボの人」さんからは「令和の米騒動」にからんで、毎日新聞の「余録」にライスキング国府田敬三郎が取り上げられたことを教えられた。ありがたいことである。

 カエデさんの情報は、ノンフィクション作家梯久美子さんが書いた評伝「やなせたかしの生涯――アンパンマンとぼく」(文春文庫、2025年)=写真=の中に出てくるものだった。

 やなせたかしの父親・清が朝日新聞の特派員として中国に赴任していたとき、草野心平らと「一葉社」という短歌結社をつくっていたことが書かれています。心平は広東省の大学に在学中だったそうです――。

初耳である。念のために、いわき市立草野心平記念文学館が発行した図録の年譜に当たると、大正13(1924)年・21歳の項に「一葉会」の記述があった。読み飛ばしていたのだ。

同年9月、心平は嶺南大学最終課程に進級する。同時に、学内に新設された「日本語講座」の担任講師となる。さらに、広東の教会でキリスト教徒として洗礼を受けたが、すぐ帰俗する。

 そのあとにこうある。「当時、日本人居留地、沙面の同好者が集まって『一葉会』なる短歌会が結成され、広東領事館書記官足羽憲太郎夫人雪野らと心平も有力メンバーであったが、翌年六月の沙基事件の直前に解散となる」

 「一葉社」と「一葉会」。「社」と「会」の違いはあるが、心平が短歌の集まりに加わっていたことは、年譜からも裏付けられた。

 まずは『やなせたかしの生涯』を読まねば――。ネットで調べると、本は出たばかりで、文庫本であることがわかった。

 作者は、評伝には定評のあるノンフィクション作家で、いわきでも吉野せい賞表彰式で講演をしたことがある。そのときの講演概要が雑誌「うえいぶ」第49号に掲載された。

 当時、この雑誌の編集を担当していたので、講演内容を原稿にまとめ、主催の市を介して梯さんに掲載許諾の連絡をとったところ、快諾を得た。

 その梯さんが書いたやなせたかしの評伝である。これはぜひ手元に置かなくてはと、マチへ行ったついでに本屋へ寄ったのだが……。

ほかのやなせたかし関連本はあっても、『やなせたかしの生涯』はない。後日、また本屋へ行って文庫本コーナーをなめるように見たら、1冊だけあった。

奥付を見ると、3月に発売されてすでに7刷に入っている。どうやら売れ行きは好調らしい。

 カエデさんが紹介した部分は、「第1章父と母」の中ほどに出てくる。父・清は「取材・執筆のかたわら、広東省の大学に在学中だった詩人の草野心平らと『一葉社』という短歌結社を作るなど、文学活動も楽しんだ」。

心平と短歌、やなせたかしの父と心平の関係、あるいは一葉会か一葉社か、調べる楽しみがまた増えた。

2025年5月22日木曜日

移住のあいさつ

                                           
   フィリピン出身のエド君と彼女が久しぶりにわが家へやって来た。自分の車で東北を一周してきたという。犬の肉球をかたどったような「準チョコレート菓子」を土産にもらった。

箱には秋田犬の顔と足の肉球のイラストが描かれ、「あきたいぬ」の「いぬ」にひっかけて「いぬってる」とあった=写真。「祈ってる」という意味だろうか。

エド君はラーメン屋で、彼女は介護施設で働いている。よく休めたなと思っていたら……。間もなく神戸に移住するという。そのあいさつに来たのだった。

新しい職場は既に決まっている。彼女はホテルのフロントで、エド君は同じホテルの厨房で働く。

いわきを離れる前に、東北の地を自分の目で確かめたかったのだろう。猫の田代島、石巻、盛岡、男鹿(おが)半島などを訪ねたそうだ。

そもそもは雨がもたらした出会いだった。今から3年前の大型連休中のことである。

宵になって急に雨が降り出した。するとほどなく、若い男性がびしょぬれになってわが家(米屋)に飛び込んできた。「傘、ありませんか。あったら売ってほしい」。それがエド君だった。

カミサンが応対した。だれかが置いていった透明な「コンビニ傘」がある。そのなかの1本を進呈した。

そのとき、カミサンがいろいろ聞いたらしい。ラーメン店の近くにアパートがある。歩いてスーパーへ買い物に来た帰りだった。「また来ます」といってわが家を出た。

それから1週間後、エド君が顔を出した。そのとき、ドライマンゴーを置いていった。

そして、3回目。8月に入って、彼女と一緒にやって来た。彼女は当時、大阪で介護の仕事をしていた。

彼女は、第一印象は日本人と変わらない。そう感じるほど顔立ちが日本人に似ている。

日本語の勉強をしているということだった。わが家に外国人用の日本語の教材があったので、カミサンがそれを彼女にプレゼントした。やがて彼女は試験に合格し、いわきで介護の仕事を見つけた。

同じ年の暮れには、エド君がチョコレートの詰め合わせを持ってきた。クリスマスプレゼントだという。自転車を卒業して、「車を買いました」。そう報告に来たこともある。

最近は顔を見せることもなかったが、それも無事に暮らしている証拠だ。そこへ突然、2人で現れたから驚いた。

雨が取り持つ縁だ。傘だけのつながりだが、それを大切にしてくれていたのだと思うと、胸が少し熱くなった。

「神戸へ行っても、いわきはふるさとです」「第二の、な」。「いわきのお父さん・お母さん」は、2人が着実に人生のキャリアを積み重ねていることに、うれしさと寂しさを感じてならなかった。

2025年5月21日水曜日

タイヤを更新

                                  
   車を「フィット」(ホンダ)から「アクア」(トヨタ)に替えて2年半になる。新車ではない。先日、取り替えてから2回目の車検を受けた。

40代のころから車の買い替えやメンテナンスを同じディーラー(個人業者)にまかせている。

フィットより燃費のいい車を、というと、ディーラー自身が乗っているハイブリッドのアクアを勧められた。

それに決め、走行距離8万キロ超の中古車を手に入れた。現在の走行距離はざっと9万6600キロ。1日換算では20キロも走っていない。

ふだんはいわき駅前のラトブへ行く程度。長距離はといえば、日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行くくらいだ。

車に関しては前からずっと、このディーラーにまかせっきりだ。車検となると、朝、代車でやって来て、私の車を持って行く。夕方、メンテナンスを終えた車を戻すと、代車で帰って行く。

代車でどこかへ行く、ということはまずない。そのままにしておく。あるだけでありがたい。エンジンオイルの交換のときもそうやって来てくれるので、大助かりだ。つまり、私は何もしなくていい。

今回は車のタイヤを見た瞬間、劣化が激しいことを指摘した。「このままではバースト(破裂)しますよ」

エンジンの音やハンドルの動きがやや重い。車検に通るには、タイヤだけでなく、劣化した部品を交換する必要がある。それも含めて補修・交換をしてもらわねば、という思いがあった。

さっそく戻ってきた車の調子を確かめる。エンジンをかけて、ハンドルを動かす。前より音が軽くて静かになっている。

実はタイヤで気になっていたことがある。ラトブの地下駐車場に入ると、ハンドルを切るたびにタイヤがキーキーいう。雨の日は車から垂れたしずくで路面がぬれているために、音がいちだんと大きくなる。

その話をすると、「私の車のタイヤも鳴りますよ」。そうか、タイヤが古いせいではないのだ。

ラトブの駐車場の床面は地下1階と2階をつなぐスロープがコンクリートのままのほかは、走行面が青緑色と灰色でコーティングされている。そのコーティングのせいで音が鳴るわけだ。

新しくなったタイヤ=写真=でラトブの図書館へ出かけた。駐車場でのキーキー音を確かめる意味合いもあった。

晴れていたので、駐車場の床は乾いている。それでもハンドルを切ると、かすかにキーキー音がした。やっぱりコーティングのせいだった。

アクアには燃費の良さで乗り換えた。ガソリンスタンドへ行くのは、前はおおよそ「20日にいっぺん」だったが、今はほぼ「1カ月にいっぺん」だ。車検を終えたので、燃焼効率はさらによくなっていることだろう。

2025年5月20日火曜日

輸入米

                                            
   日本統治下時代、「台湾総督府農事試験場はイネの専門家である磯永吉(いそえいきち)に依頼し、日本のジャポニカ米を台湾に導入して試験的に植え付け、改良を行わせた」。

数年の努力の末、「ついに新品種の栽培に成功し、一年に二回もしくは三回の収穫が可能に」なった。新品種は「蓬莱米」と名付けられた――。

5月19日付の拙ブログ「小籠包」で、翁佳音・曹銘宗/川浩二訳『図説食からみた台湾史――料理、食材から調味料まで』から、以上のような「米」の記述を紹介した。

その結果、「台湾人が日常的に食べる白米飯も、じょじょに長粒米から『蓬莱米』に変わっていった」そうだ。

台湾には「長粒米、短粒米、もち米と世界における三大分類の米が揃っている」。多様な米食文化の豊かさが台湾の特徴だという。

さて、磯永吉である。ネットには、磯永吉(1886~1972年)は広島県出身の農学者で、「台湾農業の父」とあった。

台湾にはいろんな「父」がいる。いわき市渡辺町出身の高木友枝(1858~1943年)もその一人。「台湾医学衛生の父」といわれた。

ほかには、かんがい事業の水利技術者八田與一(1886~1942年)。「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」である。新渡戸稲造(1862~1935年)は「台湾製糖の父」だ。

高木はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生に尽力した。

ついでに、もう一つ。「蓬莱米」を知ったのがきっかけで、先日のテレビのニュースを思い出した。

ニュースは日本の米価格の高止まりと、店頭での品薄感を解消するため、大手スーパーや地方のスーパーが外国産米を販売する動きが広がっている、というものだった。カリフォルニア(アメリカ)の「カルローズ」と台湾米を取り上げていた。

「カルローズ」の「ローズ」にも記憶があった。明治の末期に渡米し、大農場を経営して「ライスキング」と呼ばれた、いわき市小川町出身の人間がいる。国府田敬三郎(1882~1964年)で、彼が手がけた中粒種が「国宝ローズ」だ。

ライスキングの縁者である国府田英二さん(故人)がいわき民報に連載したものが本になった。『国府田敬三郎とアメリカの米づくり』(1988年)=写真=で、巻末に松崎昭夫東大農学部助教授(当時)ほかの特別寄稿が載っている。

その中にこんな記述がある。「国宝ローズをはじめ現在栽培されている中粒品種の多くは日本型の品種の血をひいている。(略)一九五〇年代にはカルローズが、そして一九七〇年代後半からは短稈改良品種群が普及した結果、倒伏がなくなり収量が飛躍的に向上した」

カルローズも台湾米も日本の米の親類のようなものかもしれない。ニュースをきっかけにライスキング関連の本を読み返して、そんな感想を抱いた。

2025年5月19日月曜日

小籠包

「食」からみた台湾史だという。台湾で食べた小籠包(しょうろんぽう)がパッと頭に浮かんだ。

 2009年の秋、同級生と還暦を記念して海外修学旅行を始めた。北欧を訪ねた。翌年秋には台湾を旅行した。もう15年前のことだ。なぜだか小籠包のうまさだけが、今もよみがえる。

 台北市内の料理店で、ほかの料理と一緒に小籠包が出た。口に入れた瞬間、スープのうまみと中身がジワッと口中にとろけて広がった。食べ物のおいしさに感動したことはそうない。が、この小籠包は格別だった。

その故事来歴がわかるかも――。翁佳音・曹銘宗/川浩二訳『図説食からみた台湾史――料理、食材から調味料まで』(原書房、2025年)=写真=を図書館から借りて読んだ。前書きによれば、著者の翁佳音は歴史学者、曹銘宗は新聞記者らしい。

小籠包に関する記述は大項目の「麦」の中に出てくる。第二次大戦後、中国各省から大量の移民が渡ってきた。その過程で「小麦粉食文化」が広まり、すぐ日常食になった。小籠包も大陸から伝わったのか。

 「台湾の小籠包で知られる『鼎泰豊(ディンタイフォン)』は、台湾の飲食ブランドの代表であるだけでなく、国際市場も開拓し、一九九三年にはアメリカの『ニューヨークタイムズ』紙により世界の十大レストランの一つに選ばれた」

 「鼎泰豊」は台湾を代表する点心料理店だという。ここで出される小籠包が評判を呼び、店もまた世界的に有名な存在となった。

 私たちが入った料理店は、小籠包のうまさからして「鼎泰豊」だったと思いたいのだが、今となっては判然としない。

いずれにせよ、小籠包と鼎泰豊は台湾の小麦粉食文化の象徴になっている。とはいえ、小籠包に関する情報はそこまでだった。

あとはネットで補足するしかない。中国河南省では今も「スープ入り餃子(ぎょうざ)」が好まれている。そうした小麦粉食文化が大陸に広まり、中華民国の台湾移転に伴って、上海から台湾に小籠包が伝わったと、ウィキペディアにはある。

ついでながら、同書では主食の「米」を真っ先に取り上げている。インディカ米しかなかった台湾に、日本統治時代、ジャポニカ米が導入された。

「台湾総督府農事試験場はイネの専門家である磯永吉(いそえいきち)に依頼し、日本のジャポニカ米を台湾に導入して試験的に植え付け、改良を行わせた」

数年の努力の末、「ついに新品種の栽培に成功し、一年に二回もしくは三回の収穫が可能に」なった。

台湾の米を日本の本土へ――。日本の食糧不足の一助に、というのが背景にはあった。新品種は「蓬莱米」と名付けられ、日本でも食べられるようになったという。

 磯永吉は「台湾農業の父」だそうだ。台湾にはこうした「父」が何人もいる。それについては、あとで報告したい。 

2025年5月17日土曜日

カイロス時間

                                         
  もう1カ月以上前になる。朝日新聞の「天声人語」(4月13日付)が、大学の入学式の学長式辞を取り上げていた。

 そのなかで同志社大学の学長式辞に触れ、こう記していた。「いま大切なのは、機械に刻まれ、管理される時間<クロノス>ではなく、自然のなか、ゆっくりと時を満たす感覚<カイロス>ではないか。立ち止まる。じっくり待つ」

クロノスとカイロスはギリシャ語で時間を表す言葉だという。コラムを読みながら思い出した本がある。

哲学者内山節さんが書いた『時間についての十二章――哲学における時間の問題」(岩波書店、1993年)だ=写真。それについては、2年ちょっと前に拙ブログで取り上げている。それを要約・再掲する。

 ――内山さんの著作から、時間は通り過ぎるだけではない、回帰=循環して蓄積することも知った。

なかでも、ふだん暮らす街場と、日曜日だけ身を置く夏井川渓谷の時間の違いについて考えるきっかけになった。

自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす。1年ごとにこれを繰り返す。つまり、時間は年輪となって木の内部に蓄積される。

自然の世界ではそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。動物の時間、植物の時間、菌類の時間……

森を巡るとより鮮明になる。「この林床にタマゴタケが出た」「この倒木にヒラタケが生えていた」「この木の根元にマイタケが出た」

フィールド(現場)で得た「情報」も、過ぎ去らずに体に蓄積されている。時間は一つではないのだ。

「山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあった」と内山さんは言う。

異なるスケールの時間とは、たとえば一日の巡りや一年の季節の移り行き、15~20年ごとの薪炭林の伐採などのことである。

季節の移り行きのなかには当然、山菜採りやキノコ狩り、あるいは狩猟などが組み込まれている。

ところが街場では、「時計の時間」に基づいて経済が動いている。通勤・通学者は夏も冬も、春も秋も、時計が決めた時間に家を出なくてはならない。

内山さんは問いかける。「なぜ私たちは時計の時間にしたがって成長し、時計の時間にしばられながら就職し、定年を迎え、時計の時間に計算されて死ななければならないのか」

   それは現代社会が時計の時間に基づいてつくられているからだとして、それ以外の「存在の方法」を見つけ出そうではないかと呼びかける――。

カイロスとはつまり、内山さんがいう蓄積する時間のことだろう。

家庭菜園をやっているとわかる。ネギの採種・収穫・定植……。いずれも時が熟すのを待つ。つまり、天声人語いうところの「ゆっくりと時を満たす感覚」だ。難しいことではない。

2025年5月16日金曜日

小説『おらおらでひとり……』

                                             
 久しぶりに面白い小説を読んだ。若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社、2017年)=写真。

 わが家の一角に地域図書館がある。毎月、移動図書館を利用して本を更新する。その中にあった。

 2017年に文藝賞、翌18年に芥川賞を受賞したのは知っていたが、読む機会がなかった。タイトルを見て、「よしっ」と気合が入った。

 東北弁というより岩手弁だろう。主人公の「桃子さん」(子どもたちは独立し、夫には先立たれた75歳の独り暮らし女性)が胸中でつぶやくとき、ふるさとの言葉になる。

 最初の1行からそうだった。「あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが」

 東北の南端いわきに住んでいるので、「なんぼが」「おがしく」「ねべが」の「が」は、「学校」の「が」と同じ濁音であることを知っている。

 頭がおかしくなったと感じるのは、脳内に自分と対話するだれかがいるからだ。そのだれかが言う。「だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後まで一緒だがら」

 おれはおまえで、おまえはおれだ――。お茶をすすっているうちに、頭の中ではジャズのセッションのように言葉が鳴り響く。「オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ」

こうカタカナで表記されると、東北弁にも何か光が当たった感じがして口元が緩む。コンプレックスが薄れる。逆に、独自の豊かさに引き込まれる。

 作品そのものは「新たな『老いの境地』を描いた」ものだが、ここでは個人的に興味を持った中から一つだけ、地球の歴史に関する記述を取り上げる。

 桃子さんは地球46億年史の読み物が大好きだ。テレビのドキュメンタリー番組を見てから、すっかりはまった。

番組で聞きかじったことをカレンダーの裏の白地に書き込み、さらには本を読んでわかったことをノートに清書する。

小説の最終場面近く、立春を翌日に控えた節分の晩、南京豆をまき、それを拾って割りながら、かつての家族だんらんを思い起こす。

と、脈絡もなく「マンモスの肉はくらったが、うめがったが」という言葉が口を突いて出る。

それからアフリカを飛び出した人類の歩みを想像する。その命のつながりの中で生まれたわが命だという自覚。現実と夢と空想の突拍子もない組み合わせが新鮮だ。

タイトルはもちろん、岩手の詩人宮沢賢治の詩「永訣の朝」に出てくる、賢治の妹トシの臨終の言葉からきている。

原作では「おらおらでしとりえぐも」がローマ字で表記されている。孤独に負けずに生きる、生活を楽しむ、そんな桃子さんの明るさに思わず拍手を贈りたくなった。

2025年5月15日木曜日

糠漬けを試す

                  
   きのう(5月14日)の続き――。春先、白菜漬けが少なくなったのを見越して、糠漬けを再開した。白菜漬けは、わが家では冬限定の食べ物だ。春になると糠漬けに切り替える。

いつもの流れで最初はカブを、次いでキュウリを糠床に入れる。糠漬けを再開してから1カ月半。糠床は野菜の水分を吸収してだいぶこなれてきた。

カブは赤ちゃんのこぶし大だったのが、今では大人のこぶしくらいに肥大したのが出回っている。

食卓へ出すには素材の中身と大きさに合わせて、漬け方・切り方を工夫する必要がある。

小カブは根っこと葉の部分をカットし、根っこから縦に切れ目を入れて漬ける。大カブは同じ要領で縦に四等分したのを漬ける。

食べるときには薄切りにするが、大カブは薄切りのままでは食べにくい。さらに横から包丁を入れて一口サイズにする。

「これ大きいね」「これ厚いね」。食べてみて初めて、食べる人への配慮が足りなかったことに気づく。包丁を握るのは糠漬けだけの男の欠点ではある。

そんな糠漬けの日々だが、老夫婦2人だけでは、量はほんの少しでいい。とはいえ、キュウリやカブが途切れて糠床に何も入っていないときがある。

朝、あわてて冷蔵庫の野菜室を見たら、ぴったりのものがあった。忘れられてしなびた小さな大根だ。

これはいい、縦に割って天日に干す手間が省ける。少し傷んだ皮をピーラーでむき、適当な大きさにカットして糠床に入れた。

前に同じような大根を糠漬けにしたら、しんなりしてうまい「たくわん」ができた。食生活研究家でミュージシャンの魚柄仁之介さん(1956年~)の本を読んで知った「再生術」だ。

冬、たくわんをつくるときに大根を干すのと原理は同じで、水分が飛んでいる分、簡単に、しんなり漬かる。以来、大根については、魚柄流糠漬けを実践している。

キュウリは大根とは逆に、水分を保った新鮮なものを漬ける。水分が飛ぶと、中が綿のように白っぽくなる。こうなると、食べてもまずい。

しなびた大根は簡単に漬かる。24時間後に取り出して食卓に出すと、すぐなくなった=写真。

毎年のことながら、4月下旬~5月初旬にはタケノコのお福分けが続く。皮付き、皮なし(すでにゆであがっている)のどちらかだ。

煮物にしたり、お福分けをしたりしても余る。ゆであがったばかりの先端部分をカットして糠床に入れたら、いい感じだった。では、根元の方もやってみるか。

タケノコの歯ざわりを残しながら、温和な味に仕上がっていた。これもいける。

なんでもかんでもというわけにはいかない。今は庭からミョウガタケが採れる。これもサッと湯がいてから、切れ目をつけて糠床に入れた。味は、というより香りはきのうのブログで紹介した通りやさしかった。

2025年5月14日水曜日

春はミョウガタケ

                                            
   ミョウガは、春の「ミョウガタケ」と初秋の「ミョウガの子」が食材になる。どちらも刻んで味噌汁に散らす。香りを楽しむ。

わが家の庭、南隣の故義弟の家の庭、夏井川渓谷の隠居の庭と、ミョウガは春、競うように生えてくる。

最初はだれかが植えたのだろう。ほんのわずかの数だったのが、地下茎で増えに増え、今では30~40本になった。

手入れをしなくても、春には先端がとがった茎をのばし、月遅れ盆のころには根元にふっくらとした花穂を出す。

わが家の庭は、冬には草が枯れ、ミョウガも刈り払うので、土がむき出しになる。それが春になると、たちまち緑で覆われる。カミサンが植えた園芸種の花も、こぼれ種が根付いて数を増やしている。

その中でミョウガの芽生えを知るのは容易ではない。花眼(老眼)になってからはなおさらだ。

それでも朝、歯を磨きながらヤブガラシの芽を摘む。ついでにミョウガタケの芽生えを確かめる。

 春の大型連休を迎えたころ、5センチほどの芽生えに気づいたと思ったら、次々に地面から「とんがり帽子」が伸びてきた。

 渓谷の隠居の庭はどうか。こちらはキリの木の根元にミョウガの小群生がある。キリは台風で枝が折れたため、樹高1・5メートル余のところから伐採した。

 カミサンがその一角を花壇にし、春を迎えて手入れをした。それで、日光がたっぷり当たる。

5月4日の日曜日に見ると、15センチほどに伸びたミョウガタケがあちこちに出ていた。平地のわが家の庭より生育が早い。

下の庭にはフキが群生している。早春につぼみ(フキノトウ)を摘んで食べたが、今はつぼみとは別のところから生えたフキが葉を広げつつある。

カミサンはこのフキを、私はミョウガタケを摘んだ=写真。フキは身欠きにしんと一緒に煮物になって出た。ミョウガタケは刻んで味噌汁に散らした。1年ぶりに戻ってきた春の土の味である。

ミョウガタケは一夜漬けもいい。カブとキュウリを刻み、風味用として庭のサンショウの木の芽とミョウガタケをみじんにして加え、だし昆布も入れる。即席漬けだからこそ、風味とうまみが出る。この季節、一番好きな食べ物だ。

糠漬けも試したことがある。最初は10センチくらいの長さにして漬けたが、イマイチだった。浸透圧がよくはたらかない。細いわりには硬いので、塩味と滋味がしみこむには時間がかかる。

皮をむかないで入れたウドがそうだった。皮をむいたとたん、すぐしんなりした。それにならって、ちょっとゆがいて縦に包丁を入れる。

まだ茎が細いこともあって、24時間でしんなりした。刻んでご飯のおかずにすると、ミョウガの香りが口中に広がった。次はフキも――なんて妄想がふくらむ。

2025年5月13日火曜日

5月の雨

 1年で一番爽快な月は5月。そう思い込んでいたのは、天気と気温と湿度がいいあんばいの日があるから、そして冬枯れた山野が若葉で彩られるからだろう。

 とはいえ、ずっと晴れてさわやかな日が続くかというと、そうでもない。けっこう雨が降る。

今年(2025年)の大型連休は、いわき市(小名浜)の場合、前半の4月28、29日と後半の5月2、3、6日と雨に見舞われた。

5月11日の日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、街で買い物をした。午後1時前後、交差点で信号待ちをしていると、体操着姿の子どもと保護者が前方を横切った。

そうか、運動会が雨で一日順延になったのだな。前日(土曜日)の雨と目の前の親子連れがつながった。

わが地区では、小学校の運動会は「スポーツフェスタ」という名称に変わった。今度の週末(5月17日)に予定されている。

ところが、天気予報はあまりよろしくない。雨の場合は翌日に順延される。繁華街の小学校同様、2週続けて順延の可能性が大きい。

5月はこんなに飛び飛びに雨が降ったっけ? 客観的な材料が欲しくて、ネットで検索すると、気象台のデータがヒットした。

それによると、小名浜の降水量の月別平均値(1991~2020年)は、最多が10月の193.1ミリ、次いで9月の192.3ミリだ。逆に少ないのは冬場の11、12、1、2月でいずれも2ケタ台である。

5月は146.1ミリ。梅雨期の6月は149.5ミリ、7月は160.7ミリだから、6月並みというところだろうか。

意外と雨が多い印象だ。5月は「晴れてさわやかな日が続く」というよりは、コロコロ天気が変わる、というのが現実のようだ。

草野心平の「五月」という短い詩にも影響されていた。4連13行のうち、最初と最後の連を紹介する。

「すこし落着いてくれよ五月。/ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。」。これが最初の連。

最後の連は「五月は樹木や花たちの溢れるとき。/小鳥たちの恋愛のとき。/雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。/落着き休み。/まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。」で終わる。

この詩人の直観と快晴の日が重なって、5月は爽快な月というイメージが出来上がったようだ。

雨天順延で運動会が行われた5月11日の日曜日は夜半に天気が崩れたらしく、12日は起きると雨だった。玄関前の木々の葉に雨滴が連なっていた=写真。

あとで心平について検索をかけたら、5月12日が誕生日だったことを知る。なんという偶然。

   それをことほぐ意味で、「五月」に1行を加えたくなった。「あんまり泣かないでくれよ五月」 

2025年5月12日月曜日

月桂樹の花

夏井川渓谷の隠居の庭に、渓谷の植生とは無関係の園芸木が1本立っている。月桂樹だ。前はカミサンの実家の庭にあった。

移植した根っこから生えた「ひこばえ」が伸び、いつの間にか隠居の物置の屋根を超えた。

5月11日に土いじりを終え、地面を見ながら庭を一巡すると、たまたま見上げた屋根の上でホオノキの花が風にあおられていた。

ほかの木はどうか、と見れば、月桂樹になにかふわふわしたものがいっぱい付いている。白っぽい花がほんのり薄くピンク色に染まっていた=写真。

月桂樹の花を初めて見た。花そのものはとても小さい。あとで調べてわかったのだが、月桂樹の花は淡い黄色が一般的だという。

ならば、月桂樹ではない? ネットで調べ続けると、あった。月桂樹は雌雄異株で、雄花と雌花がある。黄色い雌花がやがてピンク色に変わることがある。そのピンクだろう。ピンクの雌花は珍しいそうだ。

15年前、月桂樹が「再生」した顛末をブログに書いた(2010年3月10日付)。それを現在形にして引用・抜粋する。

――カミサンの実家の庭に月桂樹が植えてあった。ざっと60年前、味噌蔵と物置の北側に種をまいたら発芽したという。

最初は日陰の身だったが、味噌蔵を移動すると光が差してぐんぐん生長した。幹の直径が根元で50センチほどにまでなった。

2007年に倉庫を建て替えた。そのとき、月桂樹が切り倒された。カミサンの頼みで根っこが掘り起こされた。

根っこは臼(うす)になるくらいに大きい。それを車で運んで夏井川渓谷の隠居に移植した。

枯れるかもしれない。が、月桂樹の生命力にかけたい。なにしろフランスにいる友達との思い出が詰まった木だ。

隠居では、日当たりのいい物置の前に穴を掘り、二人がかりで根っこを据え、土をかぶせて放置した。

すると翌年、根元から「ひこばえ」が伸び、若葉が芽吹いてきた。ひこばえは次々に現れて切り株を取り囲むようになった。

このままでは生長のエネルギーが分散される。育ちのいい枝2本を残してあとは切り取った。

月桂樹はクスノキ科の常緑樹だ。葉をいっぱいまとうようになった。葉をもむといい香りがする。

葉を乾燥させたものは、フランス語で「ローリエ」、英語で「ローレル」。香辛料=料理用ハーブとして広く用いられているという。強い生命力でよみがえりつつある「食材」の生長が楽しみになった――。

 移植し、根付き、やがて一本立ちにしたのが、今では幹の直径10センチ余の若木になった。

  ひこばえは切っても切っても現れる。それを切り続けていれば、やがては立派な2代目の月桂樹になるはずだ。花が咲けば実がなる? 新たな興味もわいてきた。 

2025年5月10日土曜日

朝ドラ「あんぱん」

           
 朝ドラの「あんぱん」を見ているうちに気が付いた。そうか、これは『アンパンマン』の生みの親、やなせたかしと妻をモデルにしたドラマなんだ――。

 東日本大震災の前、常磐にある野口雨情記念湯本温泉童謡館で月に1回、童謡詩人についておしゃべりをした。

童謡館がオープンするとほどなく、初代館長の故里見庫男さんから「文学教室」の依頼を受けた。まずは金子みすゞを、あとは自由――というのが唯一の注文だった。

みすゞについては断片的な知識しかなかった。いろいろ調べているうちに、水戸で生まれ、平で育った島田忠夫が金子みすゞと双璧をなす新進童謡詩人であることを知った。みすゞと一緒に忠夫も取り上げた。

「全国区」の童謡詩人であっても、どこかでいわきの人間とかかわっていないか、いわきとゆかりのある人間とつながっていないか――そういった観点から調べていくと、闇に光がともることがある。忠夫はそんな存在だった。

その後、みすゞの師匠の西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは工藤直子、竹久夢二、そして雨情、山村暮鳥ゆかりの人々を調べて、都合17回、彼らの人と作品を紹介した。まど・みちお、やなせたかしも調べて話した。

やなせは2009年に『たそがれ詩集』を出したばかりだった。そのなかの「晩年」に引かれた。

朱子の「偶成」(少年老い易く学成り難し……)の最初の行をもじっていた。「老年ボケやすく/学ほとんど成らず/トンチンカンな人生/終幕の未来も/なんだかヤバイ/それでも笑って/ま、いいとするか」。これも紹介した。

記憶に新しいところでは、東日本大震災がおきた直後の日曜日(3月13日)、ラジオ福島が午前10時の時報のあと、「アンパンマンのマーチ」を流した。

この選曲に、娯楽を突然奪われた子どもの親たちから多くの感謝の言葉が寄せられた(『ラジオ福島の300日』=2012年毎日新聞社刊)。アンパンマンは希望の象徴になった。

 さらにもう一つ。2013年夏、草野心平記念文学館で「みんなだいすきアンパンマン やなせたかしの世界展」が開かれた。草野心平生誕110周年・同館開館15周年記念の冠がついていた。

詩人としてのやなせの代表作は「手のひらを太陽に」だろう。童謡館でやなせを取り上げていたこともあって、この企画展には違和感はなかった。来館者は開館記念展以来の「大入り」とかで、 軽く2万人を超えた。

朝ドラに刺激されて、図書館からやなせたかしの本を借りようと思ったら、主なものはすべて「貸出中」になっていた。出納書庫にあるものを中心に4冊を借りた=写真。

自伝に近い本を読みつつ、朝は「あんぱん」を見てやなせワールドに浸っている。

あんぱんづくりの名人「ヤムさん」(阿部サダヲ)は、アンパンマンの「ジャムおじさん」そっくりではないか。召集令状がきた若者に「勇ましく戦おうなんて思うなよ」と説く姿に共鳴した。

2025年5月9日金曜日

今度は白い猫が

                                 
   わが家の庭に白い猫=写真=が現れてから、まだ日が浅い。家の人間を警戒してか、距離を保ちながら庭にとどまっている、と思ったら……。

3年ほど前、不妊・去勢手術を受けて耳にV字の切れ込みのある「さくら猫」(キジトラ)が庭に現れた。カミサンがえさをやると次第に慣れて、縁側で休むようになった。

カミサンが段ボール箱を、そのあと「えじこ」(人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)をベッドにすると、そこで一夜を明かすようになった。やがて「ゴン」という名がついた。

 去年(2024年)春、ゴンのほかに黒白の「ハナクロ」が現れた。ゴンはすっかり私に慣れたが、ハナクロはいまだに私の姿を見ると、動きを止めて逃げる姿勢をとる。

それから1年、この3月には、「えじこ」にどこかの茶トラが入っていた。そのあとに現れた白猫だ。これも片耳にV字の切れ込みがある。狙いはゴンのえさだろう。

この白猫はどことなく「気品」がある。全身が真っ白で、あごのあたりは特に毛が長い。モフモフしている。系統的にはペルシャだろうか。

たまたま読んでいた本に猫のルーツに関する記述があった。山田政弘『絶望の生態学――軟弱なサルはいかにして最悪の「死神」になったか』(講談社、2023年)から抜粋する。

私たちに身近な猫は外来生物だという。猫は約1万年前、中東でヒトに飼いならされるようになり、その後、ヒトとともに世界中に広まった。

ツシマヤマネコなどは在来種だが、もともと猫は日本列島には生息していなかった。書物には8~9世紀ごろから登場する。遅くともこのころには猫が持ち込まれていたことがわかる。

 中東にルーツを持つから「気品」があるわけではない。おそらく気品をかもす猫が選抜されて、貴族のペットとして珍重されるようになった。そんな歴史と現実の白猫が結びついて、私の中でペルシャかもしれない、となったようだ。

 キジトラ、白黒、茶トラよりは体も大きい。その大きさに圧倒されるのか、ゴンは白猫が現れると隅っこで小さくなっている。

 カミサンは、ゴンとは別に、庭の一角にえさを用意した。えさは小皿に入っている。茶の間からは草に隠れて見えない。

ある朝、ガラス戸越しに見ると、白猫が盛んに草を食べている(ように感じられた)。

猫も草を食べるのか。そうだとしたら大発見だ。あとで庭を見ると、草ではなくキャットフードだった。

どうやらこの白猫はどこかの飼い猫らしい。早朝、私が起きて庭に出ると、放置された犬小屋に座り込んでえさを待っていた。えじこを占領していたときもある。しかも、えさ食べるとすぐ姿を消す。

かわいげがないというか、ほかの猫を、ヒトを何とも思わないような雰囲気がある。猫もそれぞれ性格が異なるらしい。