2025年5月17日土曜日

カイロス時間

                                         
  もう1カ月以上前になる。朝日新聞の「天声人語」(4月13日付)が、大学の入学式の学長式辞を取り上げていた。

 そのなかで同志社大学の学長式辞に触れ、こう記していた。「いま大切なのは、機械に刻まれ、管理される時間<クロノス>ではなく、自然のなか、ゆっくりと時を満たす感覚<カイロス>ではないか。立ち止まる。じっくり待つ」

クロノスとカイロスはギリシャ語で時間を表す言葉だという。コラムを読みながら思い出した本がある。

哲学者内山節さんが書いた『時間についての十二章――哲学における時間の問題」(岩波書店、1993年)だ=写真。それについては、2年ちょっと前に拙ブログで取り上げている。それを要約・再掲する。

 ――内山さんの著作から、時間は通り過ぎるだけではない、回帰=循環して蓄積することも知った。

なかでも、ふだん暮らす街場と、日曜日だけ身を置く夏井川渓谷の時間の違いについて考えるきっかけになった。

自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす。1年ごとにこれを繰り返す。つまり、時間は年輪となって木の内部に蓄積される。

自然の世界ではそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。動物の時間、植物の時間、菌類の時間……

森を巡るとより鮮明になる。「この林床にタマゴタケが出た」「この倒木にヒラタケが生えていた」「この木の根元にマイタケが出た」

フィールド(現場)で得た「情報」も、過ぎ去らずに体に蓄積されている。時間は一つではないのだ。

「山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあった」と内山さんは言う。

異なるスケールの時間とは、たとえば一日の巡りや一年の季節の移り行き、15~20年ごとの薪炭林の伐採などのことである。

季節の移り行きのなかには当然、山菜採りやキノコ狩り、あるいは狩猟などが組み込まれている。

ところが街場では、「時計の時間」に基づいて経済が動いている。通勤・通学者は夏も冬も、春も秋も、時計が決めた時間に家を出なくてはならない。

内山さんは問いかける。「なぜ私たちは時計の時間にしたがって成長し、時計の時間にしばられながら就職し、定年を迎え、時計の時間に計算されて死ななければならないのか」

   それは現代社会が時計の時間に基づいてつくられているからだとして、それ以外の「存在の方法」を見つけ出そうではないかと呼びかける――。

カイロスとはつまり、内山さんがいう蓄積する時間のことだろう。

家庭菜園をやっているとわかる。ネギの採種・収穫・定植……。いずれも時が熟すのを待つ。つまり、天声人語いうところの「ゆっくりと時を満たす感覚」だ。難しいことではない。

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