2025年5月19日月曜日

小籠包

「食」からみた台湾史だという。台湾で食べた小籠包(しょうろんぽう)がパッと頭に浮かんだ。

 2009年の秋、同級生と還暦を記念して海外修学旅行を始めた。北欧を訪ねた。翌年秋には台湾を旅行した。もう15年前のことだ。なぜだか小籠包のうまさだけが、今もよみがえる。

 台北市内の料理店で、ほかの料理と一緒に小籠包が出た。口に入れた瞬間、スープのうまみと中身がジワッと口中にとろけて広がった。食べ物のおいしさに感動したことはそうない。が、この小籠包は格別だった。

その故事来歴がわかるかも――。翁佳音・曹銘宗/川浩二訳『図説食からみた台湾史――料理、食材から調味料まで』(原書房、2025年)=写真=を図書館から借りて読んだ。前書きによれば、著者の翁佳音は歴史学者、曹銘宗は新聞記者らしい。

小籠包に関する記述は大項目の「麦」の中に出てくる。第二次大戦後、中国各省から大量の移民が渡ってきた。その過程で「小麦粉食文化」が広まり、すぐ日常食になった。小籠包も大陸から伝わったのか。

 「台湾の小籠包で知られる『鼎泰豊(ディンタイフォン)』は、台湾の飲食ブランドの代表であるだけでなく、国際市場も開拓し、一九九三年にはアメリカの『ニューヨークタイムズ』紙により世界の十大レストランの一つに選ばれた」

 「鼎泰豊」は台湾を代表する点心料理店だという。ここで出される小籠包が評判を呼び、店もまた世界的に有名な存在となった。

 私たちが入った料理店は、小籠包のうまさからして「鼎泰豊」だったと思いたいのだが、今となっては判然としない。

いずれにせよ、小籠包と鼎泰豊は台湾の小麦粉食文化の象徴になっている。とはいえ、小籠包に関する情報はそこまでだった。

あとはネットで補足するしかない。中国河南省では今も「スープ入り餃子(ぎょうざ)」が好まれている。そうした小麦粉食文化が大陸に広まり、中華民国の台湾移転に伴って、上海から台湾に小籠包が伝わったと、ウィキペディアにはある。

ついでながら、同書では主食の「米」を真っ先に取り上げている。インディカ米しかなかった台湾に、日本統治時代、ジャポニカ米が導入された。

「台湾総督府農事試験場はイネの専門家である磯永吉(いそえいきち)に依頼し、日本のジャポニカ米を台湾に導入して試験的に植え付け、改良を行わせた」

数年の努力の末、「ついに新品種の栽培に成功し、一年に二回もしくは三回の収穫が可能に」なった。

台湾の米を日本の本土へ――。日本の食糧不足の一助に、というのが背景にはあった。新品種は「蓬莱米」と名付けられ、日本でも食べられるようになったという。

 磯永吉は「台湾農業の父」だそうだ。台湾にはこうした「父」が何人もいる。それについては、あとで報告したい。 

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