2025年6月23日月曜日

締め切りだけが人生だ

                                 
   唐詩選の原作を離れて広く日本人に浸透した井伏鱒二の超意訳がある。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」

 この名句にならって、ときどき口の中でつぶやく言葉がある。「締め切りだけが人生だ」。10年前の拙ブログでも「締め切りのある人生」について触れている。

作家の故清川妙さんのエッセー集『清川妙 91歳の人生塾』(小学館)に、「締め切り」の話が載る。

「心に締め切りを持とう」というタイトルで、「39歳で執筆生活をはじめて以来、ひと月も休まず、締め切りというものと付き合ってきた」として、こう述べる。

「もしかしたら私にとって締め切りとは、ひとつの挑戦なのかもしれない。(略)何も意識しなくても日々流れていく時間を、あえて自分で意識して管理していくこともある」。それに触発されてこんなことをブログに書いた。

 ――2007年秋に会社を辞めて、やっと「締め切り」のない生活を楽しめると思ったのも束の間、年が明けると次第に落ち着かなくなった。

ちょうどそのころ、若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。アナログ人間なので、デジタルの知識・技術にはうとい。

全部セットします、文章を打ち込むだけでいいです、というので、2008年2月下旬、「新聞コラム」の感覚で「ネットコラム」を始めた。

一日に1回は自分に「締め切り」を課する。一日をその「締め切り」を軸にして編集する。

しかし、それだけが「締め切り」ではない。回覧物を配る、所属する団体の書類をつくる、案内はがきを印刷して投函する。そういったことにもすべて「締め切り」がある。

締め切りが終わったら、次の「締め切り」がやってくる。その繰り返し。締め切りが自堕落になるのを防いでいるのかもしれない――。

原稿だけではない。年度が新しくなると、区内会に各種の依頼・要請が届く。これも期限、つまり締め切り付きだ。

回覧の文章を作って隣組に配るのだが、やはり期限=締め切りを明記せざるを得ない=写真。

前年度までは広報資料の配布が月に3回あった。この4月からはそれが1、15日の2回に替わった。

回数が減ったのはいいのだが、期限(締め切り)の関係で月2回の回覧では間に合わないものも出てくる。

たとえば、一斉清掃。今年(2025年)は6月8日だったが、1日に市から提供を受けたごみ袋を、回覧網を通じて配るとその日までに間に合わないかもしれない。

で、5月20日、臨時に回覧網を使って配布した。これも実施日=期限を逆算してのことだ。

6月は、1日の「広報いわき」などの配布のほかは、予定がない。つまり、15日は配布が休みになった。

一時的に締め切りから開放されるとはいえ、なにがあるかわからない。回覧配布回数が減れば減ったで、「締め切りだけが人生だ」という思いが強まる。やはり、地元の回覧物があって、15日前後に配布した。

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