2008年7月14日月曜日

クイナではなくキジの雌だった


7月13日朝7時、磐越東線江田駅前の県道で――。

土曜日の夜、私はたいがい夏井川渓谷の無量庵に泊まる。翌日曜日は、カミサンが一番か二番列車でやって来るので、時間をみて最寄りの江田駅へ車を飛ばす。13日もそうして、一番列車が着く前に江田駅へ向かった。

駅に近づくと、はるか前方の道路をトコトコ歩いている雌鶏大の鳥がいた。<クイナか>。私の車と鳥の距離はざっと100メートル。すぐ駅の直下、2軒の店にはさまれた道路沿いの広場に停車すると、カメラを持って鳥を追った。

ちょうど同じタイミングで対向車が現れた。鳥に気づいて徐行し、鳥が民家の庭へそれると、私の車の前の道路で停車した。

その車にかまわず、私は鳥を追った。生け垣の先、草が茂った庭に鳥がいて、私が顔を出すと慌てて姿を隠した。かろうじて2回、シャッターを押すことができた。ピンが甘い。どこに鳥がいるかは、写真からはなかなか分からない=写真=が、とりあえずは映っている。

車に戻りかけると、道路に立ってあいさつする人がいる。道路に止めた車の持ち主だ。なんと野鳥の会いわき支部の「行動隊長」とでもいうべき知人ではないか。会うのは数年ぶりだ。彼も<クイナか>と思って車を減速し、すぐキジの雌と分かって車を進めたという。クイナであれば、その場で車を止めて撮影に入ったことだろう。

なんでこの時間に? 「夏井川渓谷にハチクマがいるという情報が入ったものですから」。ハチクマはタカの仲間だ。同じタカの仲間のオオタカや、夏に渓谷へ渡って来るサシバは承知しているが、ハチクマは初耳だ。俄然、興味がわく。

立ち話をしていると、一番列車が着いてカミサンが降りて来た。けげんそうな顔をする。それはそうだ。その時間に私が人としゃべっているのは初めてだから。

時間と場所と「クイナ」と、二人を引き合わせてくれた偶然に感謝し、「ハチクマの観察が終わったら、無量庵へ寄ってよ」ということで、その場は別れた。続きは後日。

2008年7月13日日曜日

夏井川渓谷の「崩れ」後日譚


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の両岸には幾重にも国有林が広がる。磐城森林管理署の区分では、わが無量庵の真ん前(右岸)は「いわき市三和町下永井字軽井沢国有林3い林小林班外」だ。

東北電力が水力発電所の導水路をチェックする巡視路が川に沿って伸びている。行楽客の遊歩道を兼ねる。1カ所、落石が常態化した斜面がある。最近、大きな落石があったために、立ち入り禁止のロープが張られた。で、そこを「崩れ」と呼んで行楽客に注意を喚起せねば、という話を書いた(7月1日)。

昨日(7月12日)、対岸へ渡ると通行が可能になっていた。「崩れ」のそばに「国有林野許可標識」が立っている。東北電力が巡視路敷76平方メートルを借り受けた、というのが内容だ。

まず、その地が「いわき市三和町…班外」であることが、それで分かった。電力が「崩れ」に残っている浮石を除去して巡視路敷に集めるために、森林管理署の許可をもらったのだろうか。にしては、借り受け期間が落石前の平成19年4月1日~同22年3月31日になっている。面積も小さい。

道端から川岸側に大量の石が積まれてあった=写真。浮石を除去して、道に沿って帯状に石をそろえたのだ。細長い面積、たとえば19メートル×4メートル=76平方メートル=を想定すると、借り受けた巡視路敷はそこか、となる。

見上げると、斜面の浮石はかなり減っていた。注意しながら通り過ぎる。久しぶりに森の奥へと分け入った。林内は特に変わった様子もなかったが、澄んだ声で鳴いている鳥がいた。オオルリではない。キビタキでもない。クロツグミだろうか。キノコは、乾きかけたドクベニタケが1個あるだけ。

帰路、再び「崩れ」を観察する。落石の供給源とみられる岩盤が中腹にのぞいていた。なんだか岩が層を成している感じである。その層に沿って風化・剥離が起きるのか。当面は危険度が下がったとしても、時間がたつとまた崩落が起きる。それを忘れると痛い目に遭う。

夕日が尾根に沈んだころ、無量庵で独酌を始めた。「崩れ」の斜面が滑り台のようになっているのを思い浮かべながら、グイっとやっていると、裏山からかすかに「カナカナカナ…」が聞こえてきた。今年初めてのヒグラシの声。夕方にはニイニイゼミが物寂しげに鳴いていた。それも今年初めて聞いた。梅雨の晴れ間、夏井川渓谷にも夏の色が濃くなってきたようである。

2008年7月12日土曜日

勿来は今も「副都心」?


北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で、いわき市の写真集団ZERO作品展(7月9~13日)を見た帰り、植田ショッピングセンター=写真=で買い物をした。「キュウリがないよ」とカミサンが言うから、昔、3年間勤務した植田で用を足すのもいいか、と思ったのだ。

キーテナントのイトーヨーカ堂が撤退したあとに入った藤越で、キュウリ・ナス・ピーマンなどを買う。ついでに2、3階をのぞく。「完全閉店セール」をしている店があった。

再開発ビルが建って様変わりしたいわき駅前と、私が着任したときから数えて27年変わらない植田駅前と、二つを比較しているうちにだんだん悲しくなってきた。<勿来地区は相変わらずいわき市の『副都心』か>。勿来地区出身の知人と、勿来地区のことをしゃべったばかりだったから、よけいそう思ったのかもしれない。

私は、いわき市が「超広域都市」のために、いまだに全体像がつかめない。で、それをカバーする手段として、いわきを三つの流域の連合体とみることを勧めている。北から言うと、夏井川(旧平市が中心)、藤原川(旧磐城市=小名浜)、鮫川(旧勿来市が中心)だ。それが一番、自然にかなった地域観だと信じているのだ。

モータリゼーションと「土建行政」が縄をよるようにして郊外の開発を招き、中心市街地の空洞化をもたらした。その反省も踏まえて、広いいわきではなく住民により身近な場で行政を展開するには、流域ごとに地域をみる、そこで自主的なまちづくりを進める――というのが私の考えだ。

いわき駅前が「いわきの中心市街地」になったのは、「一市一中心市街地」の建前による。中心は二つも三つもないというが、そもそもいわき市は楕円球のような「多焦点都市」である。中心は一つではないのだ。再開発ビルと芸術文化交流館で活気づく平、ウオーターフロントに磨きのかかる小名浜、そして「副都心」のままの勿来。

税金面ではかなり貢献しているが、予算面ではかなり割りを食っている。いっそのこと、勿来は遠野・田人と連合して、つまり「鮫川流域共同体」として独立してはどうか、あるいは平と同じように駅前を再開発してはどうか。あらためてそんなことを考えさせられる買い出しになった。

2008年7月11日金曜日

総合図書館長の憂鬱


まちづくり団体のサポーター「いわきフォーラム’90」のミニミニリレー講演会が先日(7月8日)、いわき市文化センター会議室で開かれた。回を重ねること292回で、小宅幸一いわき総合図書館長が「いわき市立図書館における平成20年度事業について」と題して話した。

食欲をそそられる題ではないが、総合図書館(いわき駅前再開発ビル「ラトブ」4、5階)の現状を知るにはいい機会である。久しぶりに例会場へ足を運んだ。

館長の話では、総合図書館の入館者は平日で約3,000人、土・日・祝日には4,000人超のときもある。貸し出し冊数は平均3,300冊で以前の2倍強になった。特にビデオ・DVD・CDといった視聴覚資料の閲覧・貸し出しが好評で、今まで図書館とは縁遠かった市民が足しげく通う呼び水になっている。これが入館者増の大きな要因の一つという。

地域ネットワーク化を推進したのも大きな特徴だ。地区図書館・公民館と総合図書館を結ぶ連絡車が毎日午前、午後の各1回運行している。最寄りの公民館へ出向いて読みたい本を申し込むと、それがあとで公民館へ届く。総合図書館オープンに合わせてスタートしたサービスである。図書館はこのシステムをもっとPRしていいのではないか。

悩みもある。4階の「子ども」コーナーには児童図書の書架のほか、遊具をそろえたプレイルームがある。これがざわつきの要因になっているため、遊具を取り除いて「母と子が向き合う空間」に組み替えた=写真。高校生のマナーの悪さにも苦慮している。

4階は北側が「子ども」コーナー、南側が「生活・文学」コーナーで利用者の出入りが多い。土・日曜日には雑踏状態になる。貸し出し業務について言えば、図書館のカウンターは列車(本)で旅する人々が交錯する駅の窓口に似ている。多少ざわつくのは当たり前だろう。私は、4階はそれでいいと思っている。

5階の「いわき資料」コーナーで調べ物をしているときには、確かにざわつかれては困る。が、幸いそんな目に遭ったことはない。水を打ったような静穏なイメージが保てるなら、それにこしたことはないが、くしゃみくらいは誰でもする。なにがなんでも静かにさせろというモンスター市民がなかにはいるらしいから、図書館長の憂鬱は尽きない。

当面の課題はレファレンス機能の充実だという。市民からの問い合わせに、図書館だけではこたえられない場合がある。その道、その分野に精通している市民がいるわけだから、その存在を把握し、了解をとって連絡網を構築しておけば、素早く市民の要望に対応できる。この人材バンクは市民の知的体力を上げるうえで大きな財産になろう。

6月に総合図書館が特別整理期間に入り、2週間近く休館した。すると「売り上げがダウンした」という「ラトブ」の商業者の話が館長の耳に入った。裏を返せば、文化・教育施設である総合図書館が「ラトブ」の経済にも寄与していることになる。文化がカネを生む時代がきたのだ。

各地から「ラトブ」の視察が相次いでいるのは、経済で疲弊した駅前地区(中心市街地)を再生するには、経済では無理、文化で――という思いが列島に充満しているからではないか。「一周遅れ」から「トップランナー」に躍り出たいわき総合図書館には、地元のみならず全国の期待がかかっている。

図書館内部のシステムを完全にするには2週間弱の特別整理期間では短い。が、「ラトブ」に同居する商業者の声も無視できない。総合図書館長は毎日、応用問題を突きつけられているような思いだろう。苦は楽の種だ。

2008年7月10日木曜日

飛んだのは「左七」?「さくら」?


夕方、家へ帰ったのはいいが、まだ昼の熱気が外にこもっている。日没時間を測りながら、ふだんより40分前後遅れて、6時半ごろ散歩へ出かけた。

夏井川(平中神谷)の堤防に着くか着かないころ、「コーコー」と鳴きながら川の上空を旋回する白い大きな鳥が目に入った。コハクチョウだ。この春、残留組に加わった幼鳥の「さくら」か。最古参の「左助」は仁井田浦で孤独を楽しみ、「さくら」と一緒にいる2羽のうち「左吉」は左の翼を、「左七」は右の翼をけがしている。飛べそうなのは「さくら」しかいない。

堤防の上に立つと、目前の夏井川にコハクチョウが2羽いて、旋回中の1羽が着水するところだった。<幻覚ではないだろうな。今、確かにコハクが1羽、空を旋回していた>。ちょうど散歩している人がいたので、確かめる。

「今、飛んでましたよね」
「シラサギですか」
「いえ、ハクチョウです」

急いでコハクチョウがいる岸辺へ行くと、1羽の姿が見えない。「左吉」と「さくら」はなにごともなかったかのように浅瀬にいる。「左七」はどこだ。飛んだのが「左七」だとしたら近くにいるはずだが、姿がない。

①上流の中洲に「左七」がいれば、飛んだのは「さくら」②中洲に「左七」がいなければ、飛んだのは「左七」か「さくら」のどちらか③「左吉」と「さくら」がそのまま浅瀬にいたとしたら、飛んだのは「左七」――とりあえず、中洲にある「白い物体」を確かめなくてはならない。家へ戻って、車で堤防へ出た。

と、今度は3羽がそろっている=写真。「左七」がどこからか戻って来たのだ。中洲の「白い物体」が消えていれば、上流から「左七」が下って来たことになる。それを確かめに行く。「白い物体」は残っていた。ごみだった。

3羽がいる岸辺へ戻る。対岸のどこかでじゃんがら念仏踊りを練習しているのだろう。太鼓と鉦(かね)の音が聞こえて来た。「チャンカ、チャンカ…」を聞くうちに、だんだん頭が冷静になる。

飛んだのは「左七」? 1羽が飛んでいたとき、「左吉」と「さくら」は寄り添うように岸辺にいた。それは間違いない。「さくら」が着水して、大急ぎで「左吉」の所へ戻るような時間はなかった。いずれまた旋回するはずだから、そのときにちゃんと確かめればよい。新たな楽しみができた。

2008年7月9日水曜日

昭和2年生まれのまなざし


せわしない明け暮れに、ふと庭のアジサイが目に止まる=写真。ただボーっとして花を眺める。それだけで少し心が穏やかになる。そんなときに、なにか深いところからわいてくるものがある。たとえば、「『昭和2年生まれ』のまなざし」という言葉――。

城山三郎さんの最後の随筆集と銘打たれた『嬉しうて、そして…』(文藝春秋刊)を読んでいたら、「昭和二年生まれの戦友へ」という題で同年生まれの作家吉村昭さんの死を悼む文章に出合った。

吉村さんは『城山三郎伝記文学4』に「昭和二年生まれの眼差し」という題で解説文を書いた。その一部。「私は、昭和二十年夏に敗戦という形で終った戦争に対する考え方は、その時の年齢によって相違するということを、エッセイに書いたことがある。極端に言えば、一歳ちがうだけで戦争観はことなっている」

で、城山さんの小説「大義の末」を読んだ吉村さんは「自分の戦争についての考え方が氏のそれと確実に合致し、それは同年生まれであるからだと思った」と確信する。その文章の一部を紹介しながら、城山さんは「戦友」である吉村さんとの思い出をつづり、故人の冥福を祈った。

同じ歴史小説の大家、4歳年上の司馬遼太郎さんが取り上げた人物は坂本竜馬や西郷隆盛、大久保利通など。「カッコいい英雄が登場して活躍することが多い」のに対して、城山さんら「昭和2年」組は「カッコいいヒーローはどうしても書けない」のだという。ゆえに司馬さんの作品と吉村さんの作品は対照的である、というのが城山さんの見立てだ。

「藤沢周平さん、北杜夫さん、結城昌治さんも昭和二年生まれである」と書く城山さんの「戦友」にもう一人、私はいわきの作家の故草野比佐男さんを加えたい。7月6日のこの欄に「『人名事典』にも間違いがある」という題で草野さんのことを書いた。

その中では触れなかったが、亡くなるほぼ1年前に発行された、いわきの総合雑誌「うえいぶ」の巻頭随想「玉川村金成」で、昭和20年の敗戦間際、農蚕学校の学徒援農隊として送り込まれた先での理不尽なふるまいを告発しながら、草野さんは「二度と再びあのような経験はしたくない、どんな人間にもおのがじしの生き方が保障される国であってほしい」と、“遺言”を若い世代に託した。

理不尽なふるまいに及んだのは教師や上級生や区長たち。「同年の吉村昭も、戦中に最も怖かったのは町内の隣組長や国防婦人会の女たちなどだったと述懐している」という一行を草野さんは添えた。草野さんの司馬遼太郎観も、城山さんと共通している。草野さんは司馬遼太郎の小説は、「『小説』ではなくて『大説』だ」といった意味のことをどこかに書いていた。

昭和2年生まれは、敗戦のときには18歳だった。22歳ではなく18歳だった、というところがポイントだろう。18歳という一番多感で白紙の胸に突き刺さったやじりは抜けない。城山さんは国会で個人情報保護法(2003年成立)の審議が始まると、敢然と反対の声を挙げた。驚き、そして感銘を受けたのを覚えている。反戦・護憲・平和が城山さんら「昭和2年生まれ」の共通した「まなざし」だったのだと思う。

2008年7月8日火曜日

日曜日の新聞


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵は、週末に雨戸を開けるだけだから新聞はない。私が無量庵へ通い始めた十数年前に一度、Mさんが新聞の勧誘に来た。Mさんとは初対面だった。あとでMさんに皮肉っぽく言われたが、そのとき、けんもほろろに断ったらしい。

仕事で関係することが分かってからは、よく顔を合わせるようになった。

月に3、4回、私が無量庵に泊まると、翌朝には何部か玄関先に新聞が置いてある=写真。渓谷の小集落へ配達に来たついでに、サービスで置いていくようになったのだ。私がセミ・リタイアしたあともそれは変わらない。いつか常駐するようになれば、当然、Mさんに連絡して新聞を取る。

さて、Mさんが渓谷へ現れるのは早朝5時前後。こちらはまだふとんの中だ。いつもサービスを受けるだけでは心苦しい。土曜日の夜、お茶菓子類を入れた紙バッグを、メモとともに玄関先に置いた。

メモにはこう書いた。「いつもありがとうございます 少しですがみなさんで食べてください 元気でやっています」

翌朝5時過ぎに玄関を開けると、新聞があった。私のメモが、返事を書き加えて新聞にはさまれていた。「ありがとうございます いただきます。7月6日、5:45分 はれ」。なんだろう、5時前には来ていたはずだから1時間ほど違っている。遅れていると勘違いして慌てて配達していたのか。

ま、それはともかく、Mさんとはメモを介して9カ月ぶりに“対話”した。辞めるあいさつをしていなかったという思いが、それで少しやわらいだ。今度は早起きして、庭にある畑の作物を見ながら話を聴こうかとも思う。いろんなことに精通している人なので。