2017年7月7日金曜日

空の監視レーダー

 山頂の城だけがぽっかりと霧の海に浮かぶ。天空の城・越前大野城。盆地のなかの小さな丘(標高249メートル)なのに、霧がふもとの市街を覆うと、はるか天空にそびえる城のようにみえる――。テレビで見た光景を思い出した。
 日曜日(7月2日)、朝。平・中塩地内の水田地帯を移動していると、北西に広がる水石山(標高735メートル)が、ふもとからわきあがる雲に隠れるところだった。

 水石山は、平市街の北から西に連なる阿武隈の山の代表格だ。平の人間にとってはこの時期、夕日が沈む山でもある。

 朝霧が雲になって見慣れた山を刻々と覆う。残っているスカイラインはほんの一部、国交省のいわき航空路監視レーダーが見えるだけだ。おかげで、いかにも天空に屹立(きつりつ)する城のようだった=写真。その場所に、その時刻にいたからこそ、カメラで切り取ることのできた、雲に浮かぶ“空の灯台”。撮影もまた一期一会だ。

 阿武隈高地ではこれとは別に、主峰・大滝根山(1193メートル)の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。

 62年前の昭和30(1955)年、山頂に米軍のレーダー基地ができた。翌年には航空自衛隊の部隊が移動し、3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に施設が移管された。「わが国に侵入する弾道ミサイルや航空機に対して、24時間態勢で警戒監視と戦闘機の要撃管制を実施している」と基地のホームページにある。北朝鮮のICBM(大陸間弾道ミサイル)も当然、監視警戒の対象になるということだろう。

 防衛省と国交省の違いはあるが、福島の阿武隈の山には空の監視レーダーが二つある、そのことを、ときどきは思い出した方がいい時代に入ったか。

2017年7月6日木曜日

昭和40年代の平駅前

 またまた朝ドラ「ひよっこ」にからんだ話で恐縮なのだが――。
 昭和41(1966)年6月29日~7月3日、ビートルズが来日し、公演した。私は高専3年生、数え18歳。武道館へ聴きに行った後輩の1年生は、朝ドラ・谷田部みね子の叔父の熱狂そのものだった。リンゴ・スターが好きだった。私もビートルズの音楽になじむうちに、ジョウジ・ハリスンに引かれていった。

 ビートルズは「画期的」どころか、「画期」だった。少年が「表現」に目覚めることは、当時の私の周囲では詩を書いたり、小説を書いたりすること、つまり「文学」に目覚めることだった。ところが、「団塊の世代」直下の後輩は違っていた。「音楽」が表現の中心になっていた。

 そのころ、常磐地方の14市町村が合併して「いわき市」が誕生する。いわき総合図書館で平成29年度の前期常設展「写真でみる いわき市誕生 その2――昭和40年代 平(現いわき)駅前の賑わい」が始まった。
 
 資料=写真(左側は「その1」、28年度後期の常設展)=をパラパラやっているうちに、当時、高専の学生が駅前のあちこちの喫茶店に入り浸っていたことを思い出した(実は先日、知人から平の喫茶店に関する資料がないかと聞かれた。1冊だけ記憶にあったので、図書館へ確かめに行ったのだった)。

 一番身近なところでは三田小路の「じゅん」、ビートルズ好きの後輩は駅前から少し遠い南町の東はずれの方にあった「アジト」、先輩たちは「フィレンツェ」。ときどき出かけたのは平和通りの「エスカイヤ」。ほかにも、足を運んだ喫茶店がいくつかある。今残っているのは「じゅん」(内郷に移転)だけだろうか。

 ジャズでもロックでもクラシックでもなく、今思えば甘ったるいフォークソングに引かれていた人間には、ビートルズは後輩から教えられた“劇薬”だった。同時に、喫茶店はコーヒーを飲む店である以上に、人生とかかわる場所だった。喫茶店を抜きにしてその人生を語れない人間を何人か知っている。

2017年7月5日水曜日

地上の安藤信正像

 朝ドラ「ひよっこ」と同じ時代の、平の街の資料があれば――。ゆうべ(7月4日)、故義伯父の家にある自分の本棚をあさっていたら、茶色くくすんだ封筒から松ケ岡公園の安藤信正像の写真が出てきた=写真。
 信正像の制作者は彫刻家本多朝忠(ともただ)さん(1895~1986年)。大正11(1922)年に建てられた信正像(これも本多さんが制作)が太平洋戦争で供出され、戦後、昭和37(1962)年になって2代目が再建された。2代目の建立・除幕式の写真のようだった。

 義父や別の義伯父が本多さんと交流していたこともあり、結婚して子どもが生まれてからは、ときどき家族で高台の洋館を訪ねた。プロレスや俳句を好む「飄逸(ひょういつ)の人」で、年齢を聞いてもずっと「69歳」で通した。

本多さんから“形見分け”としていただいたものがある。信正像の写真もそのひとつだったようだ。絵はがきを含めて7枚あった。
 
 台座に取り付けられる直前の信正像のそばに、ベレー帽・半そで姿の本多さんが立っている。その比較でいえば、銅像は人間の2倍の高さ、体積は4倍ある。大きい!

 2年前の秋、四倉で昭和11年に撮影された16ミリフィルムのデジタル版の試写会が開かれた。初代信正像が映っていた。その後、試写会を主催した知人から信正の初代銅像の写真と、新聞記事(昭和36年4月8日付いわき民報)のコピーが届いた。

「平城主安藤信正公の銅像再現は平市八幡小路、彫刻家本多朝忠氏の手で進められ、このほど高さ9・1メートルという大原形(粘土像)ができあがった。引き続き石膏取りに入り6月ごろに終え銅像を鋳造する予定だが、再現費300万円の寄付金の集まりが悪く、銅像完成の成否は拠金如何にかかっているといわれている」

 なんとかかんとか再現がなったのは、平市議会で補正予算が可決されたからだ(いわき市の公式フェイスブックによる)。昭和37年7月22日に除幕式が行われたことは、けさ、市立図書館のホームページで知った(いわき民報の記事による)。銅像が建立されるまでの紆余曲折、つまりは「人間ドラマ」が見えるようだった。

2017年7月4日火曜日

アトリウムの雨粒

 草野心平記念文学館へ行くと、決まって正面のアトリウムロビーから分厚いガラス壁面越しに二ツ箭山を眺める。
 土曜日(7月1日)、昼。少し雨が降りはじめたときだった。ガラス壁面に雨粒の“点描画”ができていた=写真(実際は透明に近い、フラッシュでこうなった)。垂直に長く短く、斜めに短く。なにかの絵で見た、地上に降り注ぐ大流星雨のような……。雨粒は芥子粒大、それより小さいものもある。大小の粒々がばらばらな間隔で直線をつくっている。つるつるの壁面をキャンバスにした雨と重力のアート――。

 昨年(2016年)秋、同じ壁面を利用して、人間がちぎれた曲線の作品を描いた。平・三町目の「もりたか屋」を主会場に、美術展「いわきまちなかアート玄玄天」が開かれた。芸術文化交流館アリオスや心平記念文学館にも作品が展示された。

 文学館のガラス壁面には、心平の詩「猛烈な天」3連11行が記されている。その下の、人間の背丈に合わせたところに、ちぎれた白い曲線が無数に描かれた。作者は浅井真理子さん、タイトルは「somewhere not here」(「ここではないどこか」)だった。

「建物のガラス窓の外に見える光や影、人々の動き、刻々と変化する事象の一瞬を追い、内と外の間の被膜をひっかくように描く架空の地図」だそうで、「光の動きや窓やドアの動きと共に変身するこの作品を、目をこらさなければ見過ごしてしまうことを、あなたの視線で見つけてください」とあった。

 なるほど。美術家と自然との共作だ。雨粒の点描画も同じように目を凝らさないと見過ごしていた。こちらは、見る人間と自然との共作。
 
 芸術は自然を模倣する。あるいはその逆に、自然は芸術を模倣する、と言われる。どちらにせよ、自然はアートの源泉だ。雲がそう(石川啄木は「雲は天才である」といった)、秋の紅葉がそう、クモの巣やハチの巣が、虹がそう。朝焼けも夕焼けもそうだろう。大事なのはセンス・オブ・ワンダー(自然の不思議に目を見張る感性)。けさ(7月4日)は前線の影響で雨のほかに風も吹いている。アトリウムの雨粒はどんな抽象画を描いていることだろう。

2017年7月3日月曜日

エディブルフラワー

 土曜日(7月1日)の午前、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれた。終わって、館内のカフェ&レストラン・スピカに移動して昼食をとった。出てきたのは「気まぐれランチ」というものらしかった。1枚の皿に雑穀ごはんやサラダ、グラタン、その他が載っている。中央に花が一輪添えられていた。
 詩人の長久保鐘多さん(勿来=元高校教諭)と同席した。長久保さんは昭和56(1981)年、福島県文学賞・詩の部正賞を受賞する。そのとき取材して以来のつきあいだ。今は事業懇談会で年に2回、ほかに文学者の講演会で顔を合わせる程度だが、現役のころは平の詩人や画家たちと一緒に飲むことが多かった。ランチが来るまで雑談した。共通の知人の「Aさんは?亡くなった」「Bさんは?亡くなった」、半分はそんな話になった。

 ランチに添えられた花は、私の場合は黄色、長久保さんのは朱色だった。秋のカツオの刺し身に生のキクの花が添えられることがある。口に入れる。それと同じで、私はためらいなく黄色い花を食べた。長久保さんは花を皿の端によけた。ただの飾りと思ったのだろう。

 そこからとんちんかんなやり取りが始まる。「花を食べるの?」「食べられるんじゃないの?」。料理を持ってきた女性に聞くと、これがまたあいまいな返事だった。で、女性が調理場へ聞きに行く。「食べられます」。長久保さんは驚き、かつ大いに興味を抱いたらしく、かみしめるように朱色の花を胃袋に収めた。
 
 テーブルに、食用花=エディブルフラワーの紹介文があった。それを長久保さんに示す。長久保さんはさっそく「エディブルフラワー」という言葉をメモした。詩的インスピレーションを受けたらしい。
 
 考えてみれば、フキノトウがそれに当たる。キュウリの花=写真=も食べられる。秋のミョウガの子も花ごと食べられる。菜の花はずばり、エディブルフラワーの代表ではないか。
 
 文学館では4月15日から6月18日まで、企画展「草野心平の詩 料理編」が開かれた。関連イベントとして、5月に「心平さんの胃袋探訪 創作料理の試食と解説」を開催、参加者はエディブルフラワーを載せたサンドイッチを試食したそうだ。心平は、花も南蛮味噌や醤油、蜂蜜、二倍酢につけて食べた。
 
 長久保さんは新聞のニュースやコラム、本、身近な人々の言葉や行為など、日常接したり見聞きしたりするものからインスピレーションを受け、哲学的な考察を加えて詩にする。「エディブルフラワー」もやがて詩になるのではないか。

2017年7月2日日曜日

とうとうサルが現れた

 とうとうサルが現れた。きのう(7月1日)、夕方。知り合いが家に来て、カミサンに言った。「サルが歩いてた」。聞けば、すぐ近くだ。カメラを手にしてそちらへ向かうと、2階建て住宅の屋根のてっぺんにいた。
 とうとう――というのにはわけがある。今年(2017年)の5月以降、いわき市南部を主に、サルの出没情報が相次いでいたからだ。

 南部に住む後輩の話や市のホームページによれば、5月16日は中岡町・植田町根小屋・東田町・佐糠町で、同17日は佐糠町・東田町、同18日は泉町滝尻・玉露でサルが目撃された。6月の後半になると、好間町下好間・平字北目町・幕ノ内、あるいは平・鎌田や南白土・下荒川・郷ケ丘などに現れ、26日は三和町合戸、29日は好間町大利・北好間・上好間で目撃されている。
 
 単独行動の若いはぐれザルが(たまたま複数いて別々に現れた可能性も否定できないが)、いわきの南部から中部へ、さらに北部へと移動していることが推測できる。6月10日早朝には散歩していた知人が、白水阿弥陀堂(内郷)へ向かう途中でサルに遭遇し、ふくらはぎをかまれた。幸いけがはなかった。
 
 撮影データをパソコンで拡大して見た限りでは、若いのにやせている感じ。見晴らしのいい高所で、ただ座っている。ときには“体育座り”になり、手を前で組む=写真。人間が下に集まっても動じない。動いたと思ったら西側の軒先へ移動し、右手で雨樋をつかみながら横になる。雨樋に手をかけているのは転落防止か。なんだか疲れている様子だった。
 
 サルはそれから間もなく隣家へ移り、さらに別の家の家庭菜園と休耕田に移動したあと、奥の住宅地へと姿を消した。
 
 内郷の知人が遭遇したのは「毛並みのいい、ハンサムなサル」だった。歩道を歩いている姿がフェイスブックにアップされていたが、確かに立派な体格をしている。それに比べたら……。人間にたとえると、“荒野”に分け入ったのはいいが、食べるものがない、カネもない、万策尽きる寸前の“はぐれ青年”のような印象を受けた。

2017年7月1日土曜日

1年の半分が終わった

 きょうから7月。あっという間に1年の半分が終わった。3月は年度末、4月は年度初めで忙しいのは毎年のことだが、今年(2017年)は5月の大型連休を過ぎ、6月に入ってもなかなかのんびりできない。日によっては午前・午後・夜と用事が続く。きょう(7月1日)も午前と夜、用事が待っている。
 しかし、忙中にも閑はある。特に、日曜日の土いじり。人に会って話を聞くだけの仕事(取材)をしていたときには、地に足がつかない「存在の耐えられない軽さ」を感じたものだが、家庭菜園を始めてからは二本の足で大地に立っているという実感がある。なかでも、昔野菜の三春ネギには学ぶことが多い。

 ネギは自分の子孫を残すために、春先、花茎を伸ばす。やがて、その先端にネギ坊主ができる。ネギ坊主は小さな花の集合体だ。花が咲けば実が生(な)り、種が形成される。ネギ坊主から黒い種がのぞくようになったら、ネギ坊主を摘み取り、乾かして殻やごみを取り除き、種だけを小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。
 
 ネギ坊主をちょん切られたネギはそれで終わり、ではない。掘り起こして外皮をむくと、新しいネギが1本、根から分げつしている=写真(左の2本は花茎、先端にネギ坊主をいただいていた。右は分げつした新しいネギたち)。花茎は硬いので食べられない。土に返す。分げつ苗は溝に植えなおすと、普通に育って食べられる。市販のF1品種だと、そうはいかないのではないか。

 植物の不思議な生の営み――「忙中閑あり」どころか、「忙中“歓“あり」だ。とはいえ、これからネギには根切り虫が現れる。ナスには芯くい虫が寄って来る。虫との闘いが始まる。