2010年9月30日木曜日

実ジソ


台湾旅行のあとは用事があったり、雨が降ったりで、夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵へは、足が遠のいていた。きのう(9月29日)は、朝から秋雨前線一過の青空が広がった。朝食後、ほぼ2週間ぶりに無量庵へ出かけた。

着いてすぐ、畑に出てナスをチェックする。実が肥大して茎が曲がっていた。そうなるだろうと気にはかかっていたのだ。台湾へ行く前には親指ほどだった実が、バナナ2個分くらいにふくらんでいた。

待ったなしなのが、もう一つ。三春ネギの種まき時期が控えている。例年、10月10日前後には種をまく。その苗床を仕上げなければならない。堆肥はすでに投入してある。石灰をすきこんだ。

畑のあちこちに、こぼれ種から芽を出したシソが育って花穂を伸ばしたのが、実ジソになった。

これは予定外だった。が、急きょ、気持ちを切りかえる。シソの実を花穂からしごき取らなければならない。せっかく実ったのに、放置しておいてはかわいそうだ。少しでも人間の口に入れてやらなければ。そうして塩漬けにするのだが、去年のシソの実もまだ残っている。それはそれ。今年のシソの実を収穫する。

いちいち剪定ばさみで花穂を切っていたのでは時間がかかる。花穂の下に袋を回し、そこへそのまま先端から実をしごき取って入れる。が、これもこぼれる量が多いので効率的ではない。次に、手で花穂をちぎり取り、袋に突っ込んで上からしごき取ったらまあまあ手際よくやれるようになった。

夫婦で消費する分=写真=にとどめ、残りは地面にこぼれるにまかせることにした。種をまかずとも芽を出す「ふっつぇシソ」として。毎年そうしてシソの葉を摘み、穂ジソを摘み、実ジソを摘む。今年は猛暑にへきえきして畑に出る回数が減り、実ジソを摘むだけに終わった。

気圧配置は「西高東低」。西風が吹きつけるなか、大鎌で畑の周囲の草を刈り、三春ネギの土寄せもした。そのときしなければならない雑仕事が常にある。けさはまた雨。とにもかくにも「晴耕」をすませてほっとした。

2010年9月29日水曜日

「じゃんがら」講座


いわき地域学會の「じゃんがら」を学ぼう講座がはじまった=写真。この秋、3回の講座を実施したあと、11月5日にいわき芸術文化交流館「アリオス」小劇場で「じゃんがら」伝承祭りinいわきが開かれる。

座学だけでなく、「じゃんがら念仏踊り」の実演と解説を通して「じゃんがら」の歴史と魅力に迫ろうという、今までにない試みだ。文化庁の平成22年度地域伝統文化総合活性化事業に採択された。

と、客観的に書いているが、主催する側の一人で、事務局をあずかっている。ちょっと前まで「講座」の聴講申し込みはがきが毎日届いた。今は、「伝承祭り」観覧希望のはがきが舞い込む。

いわき市は昭和41(1966)年10月1日、常磐地方の14市町村が合併して誕生した。日本一の広域都市(現在は10位)だ、地域の垣根が残っていてなかなか一体化ができない――そんな議論が何年も続いた。

ところが、伝統芸能である「じゃんがら念仏踊り」に関していえば、いわき市はすっぽり「じゃんがら文化圏」に入る。一体化できないどころか、いわき市民は「じゃんがら」で一つになれる。

「じゃんがら」の鉦の音、それはいわきの音。「じゃんがら」のリズム、それはいわきのリズム。「じゃんがら」の歌、それはいわきの歌。いわきを代表する音・リズム・歌のすべてを「じゃんがら」は含む。いわきの人間は母親の胎内にいるころから、「じゃんがら」の鉦の音とリズムと歌をゆりかごにして育つのだ。

「じゃんがら文化圏」を少し外れたところで生まれ育った私には、いわき地方に伝わる「じゃんがら」はうらやましい存在だった。いわきに根を生やして40年になる今は、「じゃんがら」がいわき人の血と肉を形成していることを実感する。観覧申し込みのはがきの多さにたじろぐくらいだ。

2010年9月28日火曜日

ペタコ


台湾へ行くにあたって、台湾の木・鳥・キノコ、それぞれ一種は目にしたい、と思った。木は「白千層」を記憶にとどめた。キノコは残念ながら、料理に出てきたシイタケだけ。市街では公園の芝生、山地では道端に目を凝らしたが、キノコの姿を目にすることはできなかった。

それはそうだろう。ホテルの周辺とか、観光地とか、ほんの限られた地域で植物を、鳥を、菌類を見ようということ自体、都合がよすぎるのだ。丹念に、つぶさに、ゆっくり。そういう意思と時間をもたなければ、鳥も見えてこない。キノコも姿を見せない。

鳥はそれでも何種か目にした。桃園国際空港から台北市内へ向かう途中の川にアオサギがいた。台北市内にはスズメに似た鳥もいた。ドバトは普通に見られた。が、台湾固有の鳥というわけではない。

これが台湾の鳥か――。台湾映画の傑作「非情城市」の舞台になった九份の、山の斜面に張りついたマッチ箱のような家並みの間の小道を歩いていたときだった。日本の鳥でいえばヒヨドリに近い。眼下の木に鳴きながら数羽がやってきて止まった。と、旋回して頭上の木に来た。とっさにカメラを向けた=写真。頭が白かった。

日本へ戻り、台湾の鳥を調べて、台湾に普通にいるシロガシラらしいと分かった。シロガシラは俗に「ペタコ」と呼ばれる。すると、まど・みちおさんの「蕃柘榴(ばんざくろ)が落ちるのだ」という詩に出てくる鳥はシロガシラだったか。

〈どこからかペタコもやってきて/ぴろっ、ぴろっ、と啼いては/黄色い玉を/ぽとり、ぽとり、落とすのだ〉。黄色い玉は蕃柘榴(グァバ)のこと。台湾で10歳から33歳までをすごした100歳詩人の作品が少したちあがってきた。今度の台湾行でこの鳥を知ったのが一番の収穫だったかもしれない。

2010年9月27日月曜日

白千層


街路樹にはいろんな種類がある。とはいっても、旅人がその街とともに記憶する街路樹は一つか二つだろう。札幌ならナナカマド、仙台ならケヤキ、大分ならクスノキ、ヨーロッパならマロニエ……。旅人の行動範囲は狭く、一過性だ。その限られたなかで目に入った街路樹しか記憶に刻印されない。実際にはかなりの数の樹種が植えられているはずである。

日常接しているわがいわき市の街路樹を見れば分かる。それこそ種々雑多だ。思いつくままにあげれば、ハナミズキ、ユリノキ、ケヤキ、マテバシイ、ハクモクレン。ほかにも私の知らない樹種がある。シュロ(鹿島街道)なんかもある。

台北(台湾)の街路樹は、むろん初めて見る木だった。ガイドの話では、ガジュマルがある。どれがガジュマルなのかは分からなかった。幹が白くねじれたような木が並んでいた=写真。花も咲いていた。「白千層(はくせんそう)」だという。

台風の直撃を受けて台湾南部への新幹線の旅が中止になり、代わって台北市内の温泉につかったり、買い物をしたりしたあと、ホテル周辺を散歩した。「白千層」の幹にさわった。樹皮は紙のように薄い。それが何枚も重なっている。雨にぬれたためか、樹皮のかたまりは少しふやけた段ボールのようだ。弾力もある。

白く薄い紙が千枚も層をなしている――そんな印象から「白千層」と名づけられたのだろう。これも不思議な木の一つと言っていい。

常緑だそうだ。ということは、美観のほかに日よけの役目もあるに違いない。なにせ亜熱帯の街である。日中は寝て暮らしたいくらいの暑さが続く。日陰がなければ外歩きも難しい。植物も同じで、「白千層」は暑さにも、雨にも強いのだろう。

2010年9月26日日曜日

2人歌誌「翅」


おととい(9月24日)、知人の母堂の通夜に行ってきた。享年87。目を落とした日は21日か、22日か。なんとなく気になった。というのは、私の母が5年前の9月22日に亡くなり、同じ年の同じ日にいわき市三和町の作家草野比佐男さんが亡くなっているからだ。

新聞折り込みの「お悔み情報」を見たら、知人の母堂は母たちと同じ9月22日に亡くなった。母の命日がくると、草野さんを思いだし、母堂に線香をたむける知人を思いだすようになるのだろうか。

それはさておき、最近、草野比佐男さんが波汐国芳さん(去年、福島県文化功労賞を受賞)と2人で出していた歌誌「翅」=写真=6冊(いわき総合図書館蔵)を見ることができた。B4判を二つ折りにしたB5判4ページで、体裁と誌名の「翅」はルナールの『博物誌』に出てくる蝶々の「二つ折りの恋文が、花の番地を探している」にちなむ。

創刊は昭和37(1962)年2月20日で、平の氾濫社で印刷した。氾濫社は真尾倍弘・悦子さん夫妻が経営していた出版社だ。悦子さん自身、昭和34年に未来社から生活記録『たった二人の工場から』を出し、2冊目の『旧城跡三十二番地』を出すばかりだった。

したがえるサラリーマン氏に吐き出す舌(べろ) 夕焼は俺の内側へ向き
起ち上りビルの林を歩ませば背後に街が無くなるのではないか
やり場なきサラリーマンの澱む眼が集っているビルは死海だ
いいか それでは死ぬぞいいか と首を吊るQ氏言えど凍天の一枝もゆるがず

「翅」の作品群は、そのころ氾濫社から出した歌集『就眠儀式』のみずみずしい世界とはいささか趣を異にする。口語自由あり、口語定型あり、文語・口語混じりあり……。

草野さんは当時、35歳。歌人として出発し、やがて小説へと転じるが、「翅」では実験的な歌をさかんに詠んだ。不定期刊ながら「長く続けて、現代短歌の可能性を探ってゆきたい」とした志は果たされただろうか。

「翅」は5号と6号は、印刷が加納活版所に替わった。真尾夫妻が37年11月下旬、平を去って帰京したことによる。氾濫社がいわき地方に発信し続けた文化はこのとき途絶えた。

2010年9月25日土曜日

急に寒さが


3泊4日の台湾旅行から帰ったら、日本の猛暑はどこかへ去った。9月22日の午前中こそ暑かったものの、秋分の日は冷たい雨。きのう(9月24日)も気温が上がらなかった。「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉どおり、急に寒さがやってきた。

先週までは半袖シャツさえ脱ぎたいくらいの残暑だった。今週後半は長袖シャツがないと風邪を引くくらいの肌寒さだ。その落差がきつかったので、秋分の日には車の暖房をかけた。

わが散歩コースの夏井川でも、台湾旅行の前と後とでは少し様子が変わった。堤防のヒガンバナが真っ赤に燃えだした。サケを捕獲するためのやな場もできた=真。秋の風景がもどってきた。

それよりザワッとする事件も起きた。大阪地検特捜部の主任検事が証拠隠滅容疑で逮捕された。言い分がふるっている。証拠資料を「わざとではなく、誤って書き替えた」。

検事が口にしたという言い訳にあきれた主婦たちの会話。「『わざとではなく、誤って●○した』ってはやるんじゃないの」

例えば、こういうふうに? 「わざとではなく、誤って飲み過ぎました」と、ツノが伸びた女房に謝る。飲酒運転で捕まる。「誤って酒を飲みました」と言い訳をする。いろんな場面に応用が可能な言い訳というか、国家権力には無力な庶民のささやかなうっぷん晴らしだ。

今朝は雨。冷気がいっそう身にしみる。

2010年9月24日金曜日

スクーター大国


台湾へ出かけたのは同級生を主に9人。あちらでの4日間、ミニバスをチャーターしてガイド付きで移動した。9月20日は月曜日。朝、出勤時間帯に台北駅近くのホテルから台北南方の山地・烏来へむけて出発した。

赤信号で自動車は数珠つなぎになる。そのあいだを次から次にスクーターが埋めていく。ミニバスはあっという間にスクーターに取り囲まれた。信号が青になる。自動車とスクーターが一斉に走り出す。ハラハラするような距離感だ。

台湾に着いて最初に驚いたのは、暑く重く湿った空気だ。これが亜熱帯なのだと“痛感”した。二番目が、異様なほどのスクーターの多さだ。

台湾は右側通行だ。交差点で信号が赤になった。ミニバスが止まる。と、左側の対向車線で信号待ちをしている“スクーター族”が目に飛び込んできた=写真。道路を埋めるほどの台数に度肝を抜かれた。

台湾は昔から「スクーター大国」だったらしい。司馬遼太郎の『街道をゆく――台湾紀行』にこんなくだりがある。〈地下鉄がないこともあって、車道は、車であふれている。通勤や商用の移動は、多くの場合、単車がつかわれる。それらが曲芸のように車と車の間を縫い、交通信号はゆるやかにしか守られていない〉

司馬遼太郎が見た20年近く前の台北と、地下鉄が走っている今の台北とで、出勤時の風景は大差がないのではないか。スクーターがウンカのごとく現れ、クモの子のごとく散っていく。よくも接触事故を起こさないものだと感心させられた。

が、やはり事故はある。台湾南部が台風に襲われた前日、9月19日夕方、台北駅の近くを“探検“していたら、スクーター事故の現場に遭遇した。やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。

それはともかく、台北以外の観光地、烏来はむろん、東海岸の野柳、その近くの九份でもスクーターだらけだった。警察の前に並んでいた白バイも、正確には「白スク」だった。

2010年9月23日木曜日

高温多湿


作家埴谷雄高は台湾の新竹で生まれた。詩人まど・みちおは台北工業学校土木科を出て台湾総督府道路港湾課に勤めた。詩人工藤直子は朴子で生まれた。

北の台北から南の高雄へと西海岸の平野部を新幹線が走っている。台北南西の新竹も、高雄の手前、北回帰線に近い朴子も、その平野部にある。台湾新幹線に乗れば、車窓に映る風景とともに、埴谷雄高が、工藤直子が吸ったのと同じ空気を吸えるだろう。そう期待して台湾に入ったが、台風11号の直撃で新幹線が運休し、高雄行きは中止になった。

そのことは、きのう(9月22日)書いた。きょうは、吸えなかった土地の空気も含めての話。

台湾は広葉樹の葉っぱのような形をしている。北部は亜熱帯、南部は熱帯。葉柄に連なる葉の基部、そこに高雄がある。熱帯だ。熱帯の空気というのはどんなものなのだろう一―。一番期待していたが、それはかなわなかった。

が、飛行機を降り、桃園国際空港のターミナルビルを出ようとした瞬間、強烈な亜熱帯の“洗礼”を受けた。自動ドアが開くと、いきなり温風に包まれたのだ。高温多湿、しかも台風11号の先触れで風が強い。時々、雨も降る。

高層ビルが立ち並ぶ台北市街=写真=への道すがら、チャーターしたミニバスから家並みを眺めていたら、男性はたいがいランニングシャツか半袖シャツに半ズボン、といういで立ち。家にエアコンなどがなかった「昭和の日本の夏」と同じ光景だ。

日本の夏も高温多湿になるとはいえ、どうも多湿のレベルが違う。湿り気を帯びた空気が重い。重い上に暑い。曇っていてそうなのだから、晴れた日はもっときついだろう。

3泊4日の旅の最終日。初めて青空が広がった。朝食後、ホテルの近くを散歩した。ビルの1階部分は人の通行ができるよう、アーケード状になっている。出勤途上の人が慌ただしく行き交っていた。

公園に出て、直射日光を浴びて分かった。ビルの1階がアーケード状になっているのは、ガイドの話では梅雨の雨対策だが、日よけの意味もあるのだ。雨対策と日よけ、そこから台湾の生活文化を見ると面白いか。

2010年9月22日水曜日

台風直撃


シルバーウイークを利用し、同級生たちと台湾3泊4日の旅をして来た。観光の目玉は2日目に組まれていた高雄行。宿泊地の台北から南の高雄へ新幹線で出かけ、現地で遊んだあと、再び新幹線で台北へ戻る――というものだった。

あいにく台風11号が西へ向かい、台湾を横断しかねない状況下で日本を立った。飛行機は無事に着いたものの、次第に風雨が強まった。2日目(9月19日)は暴風雨に見舞われた。新幹線は動かない。当然、高雄行は中止になり、代わって朝から台北市内の温泉につかったり、土産品店に寄って買い物をしたりして過ごした。

テレビは朝から台風特番に切り替わった=写真。気象予報課長やアナウンサーの言葉は分からない。が、「凡那比 全台防豪雨」「南台狂風暴雨 火葬場鉄皮屋頂翻」といった画面の文字から、全島で警戒態勢に入り、時間の経過とともに被害が膨らんでいることが分かった。

「凡那比」は台風11号のアジア名「ファナピ」(ネット上には「サンゴ礁を形成する小さな島々」の意とある)の当て字。「火葬場鉄皮屋頂翻」は映像を見たかぎり、火葬場の鉄製の屋根が「狂風」ではがされたり、曲がったりしたという意味だろう。

台風11号は19日朝、台湾東部の花蓮に上陸し、南部を横断して、20日朝には中国福建省に達した。高雄東部の山地、屏東瑪家では積算雨量1,125ミリを記録した。いわきの年間雨量はおよそ1,400ミリ、その10カ月分が一気に降った計算になる。

21日付の新聞「聯合報」には「南台重創 工業損失逾30億 農業損失逾20億 高縣4.7萬戸淹水逾1米」といった見出しが躍っていた。農工業被害は50億元(約140億円)を超え、高雄縣の4.7万戸で1メートルを超える浸水に見舞われたということだろう。

熱帯(南部)から亜熱帯(北部)に属する台湾は台風の島だった。

2010年9月17日金曜日

「おだかの人物」


今年初めにこの欄で「暮鳥とお隣さん」を書いた。大正時代の一コマだ。平の弁護士・新田目善次郎一家の隣に、日本聖公会牧師にして詩人の山村暮鳥が引っ越してきた。結婚して長女が生まれた。その長女を祖父母に見せるため、暮鳥の妻が長女を連れて水戸へ出かけたあとのこと。新田目家でボヤ騒ぎが起きた。その顛末を暮鳥が書いている。

そのとき小さかった新田目家の娘たちが、やがて日本の左翼運動の中枢を担う男性たちと結婚し、数奇な運命をたどる。兄である長男の影響もあったろう。そんなことを、浜通り俳句協会の機関誌「浜通り」に再掲した。すると、新田目家の長男の息子だという人から電話がかかってきた。

私と同じいわき市内に住んでいる。旧市町村レベルでいえば隣町だ。近い。わが家を訪ねて来た。二度目には、『おだかの人物』という冊子=写真=を持って来てくれた。

新田目家の主・善次郎の妻は小高町から嫁いで来た。その甥に、やがて憲法学者になる鈴木安蔵がいた。その縁で新田目家の長女は小高出身の平田良衛と結婚する。二女、三女も、彼らと同じ学生運動仲間と結婚する。

『おだかの人物』では、10人の代表的な人物を紹介している。平田良衛、鈴木安蔵、安蔵の父と交流のあった俳人大曲駒村、同じく俳人の豊田君仙子、ほかに作家の埴谷雄高、島尾敏雄など。

新田目家の人々を知れば知るほど、小高という土地柄、そこに生まれ育った人物に興味がわいてくる。小高とつながる人物である埴谷雄高、島尾敏雄にも。

埴谷雄高は台湾の新竹で生まれた。あしたから3泊4日の予定でそちらの空気を吸って来る。同級生と行く「修学旅行」だ。というわけで、21日までこの欄をお休みといたします。あしからず。

2010年9月16日木曜日

主はだれか


夏井川渓谷の無量庵にいると、いつも複雑な鳥の鳴き声を耳にする。ウグイスのさえずりなどもまねる。中国原産の籠抜け鳥、ガビチョウだ。すみついて久しい。繁殖もしているのではないか。

先日、無量庵へ出かけ、菜園でナスを摘んだり、伏せ込んだ三春ネギに土をかけたりしていたら、すぐそばでさえずりを始めた。ガビチョウはヤブを好む鳥。めったに姿を見せない。いや、臆病だから人間の姿を見るとすぐ姿を消す、そう思い込んでいた。

ところが、どうだ。うるさいくらいにさえずっていただけではない。たまたまプルーンの木になった実(数個)をチェックしようとしたら、その木にガビチョウが3羽やってきた。1羽は目の周りの白紋が薄い。幼鳥だろう。人間との距離は3メートルほど。3羽ともこちらを気にする様子はない。

あわててカメラを取りに車まで戻った。プルーンの木からは姿を消していたが、さえずったり、休んだりする木が決まっているらしい。カメラを首にぶらさげて庭にいると、別のプルーンの木にやって来た。至近距離で初めてガビチョウを撮影できた=写真

無量庵の主はいちおう人間だ。が、ここまで堂々と振る舞われると、なんだか立場が逆転したような錯覚に襲われる。無量庵の主はおまえ、ガビチョウか――。無量庵に留まる時間が減ったのと合わせて、庭の草が生え、ヤブのような様相を呈していることが、ガビチョウに安心感を与えているのだろう。

2010年9月15日水曜日

猛暑の影響


夜、知人宅で飲んだあと、タクシーで帰宅した。運転手と記録的な猛暑の話になった。「こう暑くては外出を控える人が多い。お客さんがいなくてお手上げですよ」。スーパーで買い物をしたお年寄りがタクシーに乗って帰る――日常の光景だが、そのお年寄りが家にこもっている。客がいないのでタクシーはスーパーの乗り場に停車したまま、だという。

猛暑の影響がいろんなところに現れている。暑過ぎて海水浴の入り込み客数が伸びなかった。熱中症で救急車の出動回数が増えた。花粉症をかかえている人にはきつい予測が出た。来春、杉・ヒノキの花粉が増大する、というのだ。夏井川渓谷のアカヤシオは花芽形成期の猛暑がたたって、来春は花の数が激減するのではないか。

秋のキノコも期待できない。先日、キノコ同好会の役員さんから電話がかかってきた。採集会をいつ開くか、という相談だった。「キノコは期待できないから散策を楽しみましょう」という結論になった。

先日夕方、猛暑・残暑続きで気分転換に新舞子海岸へ足を運んだ。波打ち際で、はだしで波頭=写真=の写真を撮っていたら、どっと波が押し寄せ、半ズボンがびしょぬれになった。そのときだけ急に波の勢いが強くなったのだった。とんだ夕涼みになった。

2010年9月14日火曜日

オニヤンマ飛来


日曜日(9月12日)。雨が小やみになった午後3時前、わが家の庭にどこからともなくオニヤンマが現れた=写真。住宅街のど真ん中だ。オニヤンマのすむ清流からも、里山からも遠い。縄張りのある山すそから田んぼを渡り、あるいは夏井川を越えてやって来たか。

赤トンボなどと違って、わざわざ街までのしてくるようなトンボではない。初めての飛来だ。狭い庭の上空を何度も行ったり来たりしている。カメラを構えても動きが早いから写真には撮れない。たまたまUターンしようとして動きが止まった瞬間に一枚だけ撮れた。

縄張りなどあるはずもない庭だ。なぜ往復運動をしているのだろう。家の玄関の方からなにか虫がふわふわ飛び出した直後、理由が分かった。オニヤンマは急に旋回し、空中でパクッとその虫をくわえると、屋根の方に姿を消した。えさとなる虫を探していたのだ。

トンボは肉食昆虫――とは承知していても、実際に捕食行動を目撃することはない。初めてこの目で見た。素早い食いつきだった。

小学校の1年生のころ、初めてオニヤンマを捕まえた。と思った瞬間、あの頑丈なあごで指をかまれた。悲鳴を上げたくなるような痛さだった。指を振っても離れない。首をちょん切ってようやく痛みから解放された。

虫などはオニヤンマに捕まったらひとたまりもない。強烈なあごの力を思い出して虫に同情した。

2010年9月13日月曜日

寺巡り


朝起きたら、雨。晴れなら「晴耕」、雨なら「雨読」ならぬ「雨覧」――と決めていたので、きのう(9月12日)は牛小川(夏井川渓谷)行きを中止し、「いわきアート集団美術展」が開かれている3つの寺を巡った。そんなことでもなければ寺を訪ねるようなことはない。いい機会でもあった。

地図を頭に入れて、時計回りに会場を巡った。まず、好間北好間・龍雲寺。曹洞宗だ。カーペット敷きのしゃれた客殿が会場である。折りたたみ座卓テーブルに小品がずらりと並んでいた=写真。次は、平赤井・華蔵院。真言宗である。ここの客殿も素晴らしい。最後は平下平窪・安養寺。浄土宗だ。

どの寺にも独特の空気が漂っていた。龍雲寺では本堂で写経と座禅の会が開かれていた。華蔵院では本堂での法事が終わったばかりだった。安養寺の住職はカミサンの同級生。作品を見終わったあと、小一時間、住職夫妻と雑談をした。ぬか漬けの話になった。酸っぱくなった古漬けが好き、いや浅漬けが――と、共に夫婦で好みが違うのが面白かった。

ギャラリーや美術館の空間と違って、寺は建物の外に広がる庭、境域も含めて聖なる空間だ。旧知の住職は副住職にバトンタッチをしたが、早朝の庭掃除を欠かさない。修行の一つだという。それが寺の作法でもあるのだろう。

寺で展覧会をするということは、こうして外の庭をも含めて、聖なる空間で作品を見てもらうということだ。寺という空間が持っている静謐さ、聖性、それに対応できる作品たり得るか――。厳しいといえば厳しい環境だ。焼き物とは無縁と思っていた旧知の女性の作品(陶の小品)が、そういう意味では光っていた。

2010年9月12日日曜日

置き土産


先週半ば(9月9日)、夏井川渓谷の無量庵へ出かけたら、玄関に焼酎が置いてあった。そばにあったメモから、同級生が日曜日(9月5日)に訪ねて来たことが分かった。以前、息子さんを連れてやって来たことがある。なにもごちそうをしたわけではないが、そのお礼らしい。

「壱岐」(「スーパーゴールド22」とある)という箱入りの麦焼酎が2本=写真。飲んだことはない。家に持ち帰り、早速、いただく。「田苑」に似た黄金色、味もまろやかだ。高級品ではないか。

同級生は大手企業で営業の最前線に立っていた。夜のおつきあいが多かったようだ。日本酒であれ焼酎であれ、さまざまな銘柄がある。なかには銘柄にこだわる相手もいたろう。Aさんは○×、Bさんは△□、Cさんは×△……。で、アルコールの銘柄に詳しくなるような修羅場をくぐってきたのではないか。

だから、高級品――そう、想像したのだった。知人とこの「壱岐」で対酌したら、いい焼酎だよと言われた。やはり、なぁ。

酒と焼酎を無量庵に持って来る友がもう一人いる。幕末の歌人橘曙覧の歌に「たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来たりて銭くれし時」というのがある。「銭」を「焼酎(さけ)」に言い換えると、わが心境になる。うまい焼酎ときてはなおさらだ。こんな置き土産をかっさらっていくキツネが渓谷にいなくてよかった。

2010年9月11日土曜日

側溝蓋取り換え


私の住む平・中神谷南区から市役所に要望していた、歩道側溝の蓋の交換が始まった=写真

区の役員が5月に区内の個所見分を実施した際、側溝蓋のすきま(切り欠け部)が大きく、幼児の足が入りかねない――として、住民から蓋取り換えの要望が出された。これを受けて市に要望書を提出したところ、市の担当者が現地を見、2回に分けて蓋を取り換えることが決まった。

歩道と側溝を合わせれば、幅はざっと2メートルか。ここにすっぽり入るミニバックホーが、小石を混ぜて固めた古いタイプの蓋をはがし、新しいコンクリート蓋をはめていく。手作業などではとても追いつかない作業を楽々とこなす。

旧式の蓋はとにかく重い。一斉清掃のときには、蓋を開けて側溝の泥を払うのだが、ここではそれができない。人間の力ではびくともしないのだ。

この歩道は小学生の通学路になっている。下校時、後ろを向いて仲間とおしゃべりをしながら通り過ぎる子がいる。すきまに足を引っかけて転んだりしないか、と大人は心配する。側溝蓋のすき間が小さくなった分、安心度が増した。

一日がかりで取り換えた蓋はどのくらいだろう。区間にしてざっと200メートル。その間の何カ所か、40枚ちょっとだ。ともかく長年の懸案だった蓋交換が半分は実現した。

2010年9月10日金曜日

猛暑一服


9月8日はほぼ一日、曇雨天に見舞われた。ぱったり雨がやんだかと思うと、急に土砂降りになる。またやんでは雨脚が強まる。その繰り返し。小名浜での雨量はそれでも28.5ミリだった。

台風崩れの熱帯低気圧は東北南部ではなく、関東を通過して太平洋へ去った。連日の猛暑が一服したのはいいのだが、家を吹き抜ける北寄りの風に冷やされて風邪を引きそうになった。この夏、いやもう秋か、初めて重ね着をした。

低気圧が通過したあとのきのう(9月9日)早朝、二日ぶりにいつものコースを散歩したら、夏井川は増水し、「川中島」が水没していた=真。冷たい東風も吹いていた。珍しく暴風を伴わない台風だった。代わりに大雨への注意が喚起された。いわきではお湿り程度だったが、人間も、川も久しぶりに一息ついたことだろう。

一日で暑さが戻ったとはいえ、なにか前とは違う。おとといまでは夜も縁側の戸を開け放していたが、きのうは宵のうちに閉めた。扇風機もかけずにすませた。寝るのもタオルケット一枚では風邪を引きかねない。夏布団を上にかけて寝た。

今朝は再びまぶしいくらいの青空になった。雲がほとんど見当たらない。戸を開けたら、ひんやりとした空気が入り込んできた。

2010年9月9日木曜日

観光基礎講座、再び


きのう(9月8日)、今年度2回目の「観光基礎講座」が始まった。いわき地域学會の先輩、高橋紀信さんは「いわきの自然」を、山名隆弘さんは「いわきの歴史」を、私は「いわきの概要」を担当した。一週間後の15日には後半の講座が開かれる。終了後にはいつものように簡単なテストが行われる。

台風9号の影響で、ほぼ1カ月ぶりに雨が降った。干天の慈雨とはこのことだ。で、講座では今夏の異常気象を踏まえた、地球温暖化の話も出た。

前にも紹介したが、チョウのアオスジアゲハ=写真=はいわきあたりが北限とされていた。福島県の中通り出身である高橋さんも、私も、いわきに来て初めてアオスジアゲハに遭遇した。それが温暖化の影響で相馬あたりでも見られるようになった。猛暑の今年はその先まで行ったのではないか、と高橋さんはいう。

いわきの山あい、三和町。8月、義叔父の新盆でいとこの夫君から聞いた、三和の自然に関するあれこれを思い出した。彼は研究者でもなんでもない。が、自分が住む地域の自然には殊のほか詳しい。キノコや山菜や木の実を採り、鳥や獣や昆虫や魚を追った経験が、狭いけれども土地に根ざした知となってこちらに入ってくる。

今まで見られなかったナラタケが発生するようになった。今まで見られたサクラシメジが姿を消した。理由はもちろん分からない。が、地球温暖化と関係していないか、というのが彼の言い分だった。これなどは傾聴に値する指摘だろう。

そうしたピンポイントでの変化を丹念にすくいあげることでしか、地球温暖化の病状は見えてこないのではないか――高橋さんの話を聞きながら、そんなことを思った。

2010年9月8日水曜日

川中島


台風9号が日本海を東に進んでいる。直進すれば東北南部を横断しかねない。夜のうちにぱらつき出した雨は、きょう(9月8日)の未明には土砂降りに変わり、6時過ぎにはいったん弱まった。「午後から雨」の予想が早まったか。そして、これからますます雨脚が強まるのか。

台風でも何でもいい、災害をもたらさない程度に雨が欲しい――と思いつつも、台風の直撃はちょっと困る。

それはさておき、散歩コースの夏井川がところどころ川底をさらしている=写真。田植え時期の5~6月、あるいは7月初めに一部、田んぼに水を取られて川底をのぞかせることはある。そのときでも川底を見せているところは限られていた。今年はなんといっても“川中島”の数が多い。

単純な天候ではある。8月、いわき(小名浜)で雨が降ったのは12日の7ミリだけ。9月も、きのう昼までは雨なし風なし、梅雨明け以来の晴天続きだった。川も青息吐息だろう。

散歩コースはおおむね平中神谷地区。そのなかに川中島という字名がある。文字通り、夏井川の中にある。今まで川底をさらしたことのなかった一角がそこに近い。

地名からして、これまでにも夏井川に川中島が現れるような日照りはあった。それでも、高気圧が日本列島の上空にどっかり居座り、体を焼くような青空が続くのは記憶にない。

なにはともあれ、きょうの雨だ。大雨には注意が必要だが、大地の万物が少しは潤いを取り戻すことだろう。川も一息つくことだろう。

2010年9月7日火曜日

市民体育祭


日曜日(9月5日)に神谷地区市民体育祭が開かれた=写真。今年で37回目だ。子どもが小学生のころ、頼まれて地区対抗リレーに出たことがある。およそ30年ぶりの参加か。といっても、選手としてではない。

神谷地区は8つの行政区で成り立っている。神谷村が平市と合併し、平市が他市町村と合併していわき市になっても、地区の範囲は変わらない。神谷小を引き継いだ平六小の学区と重なる。その中心、中神谷地区の戸数・人口が増えたために、10年余前、行政区が3つに分かれて8つになった。分かれた1つに住んでいる。

その区の役員としてPTAや子どもなど、選手をサポートする側についた。役員にはいろんな役割がある。テント張り、弁当の手配、飲み物の調達、片付け、反省会の準備……。新米役員はテント張り、綱引き出場、反省会の中締めあいさつを仰せつかった。

相変わらずの猛暑だ。体育祭の開会式では、あいさつに立った全員が熱中症への注意を促した。言われるまでもない、どの区もウーロン茶やスポーツドリンクのほかに、梅干し、塩飴などを用意して熱中症の予防に腐心した。

きのうのカーブミラーの話でも触れたが、体育祭までには水面下の、長い準備期間がある。それを、それぞれの区の役員が中心になってこなす。協賛金のお願い、出場選手の確保・名簿づくり、その他。事務的な仕事と無縁できた人間には面食らうことばかりだ。

が、スタッフとして参加して感じたことが2つある。

1つは、市民体育祭は膨大な人間のボランティア精神によって成り立っている、ということ。朝7時。8地区の役員などがテント張りにやって来た。その数のすごさに目を見張った。そういう人たちの力の結集がまだ可能な地区なのだ、ということを実感した。

もう1つは、選手・スタッフが一致して汗を流したことによる一体感、それを味わえたこと。今年の総合成績はブービー賞だったが、反省会のビールはことのほかうまかった。日ごろ、顔を合わせている人はほとんどいない。が、体育祭を一緒に経験して少し“きずな”が深まったような気がした。

2010年9月6日月曜日

カーブミラー


見通しの悪い個所にはたいがいカーブミラーが付いている。たとえば、夏井川渓谷。道幅が狭いところにはセンターラインがない。そんなところに限ってカーブが連続する。ときどき対向車が突っ込むようにして現れ、急ハンドルを切ってすれ違って行く。カーブミラーがあればそんな事態にはならない。カーブミラーが事故を抑止しているといってもよい。

市街地ではどうか。幹線道路より生活道路にカーブミラーが多いことが分かる。住宅地は交差点だらけ。カーブも少なくない。生け垣やブロック塀に遮られて見通しの悪いところがある。そういう個所にはカーブミラーが必要になる。

カーブミラーは住民の要望を受けて行政が設置する。つまり、住民と行政の対話によって生活に密着した問題が解決される。自分の住む行政区の役員になって初めてそのことを実感した。

毎日散歩している道路の一角にカーブミラーが立った=写真。区の安全・安心のために毎年、年度の始まりに区の役員が住民の要望を吸い上げ、個所見分をする。カーブミラー設置の要望がそのとき出た。市役所に要望書を提出してほどなくカーブミラーが設置された。

詳しく言うと、要望後に市から担当者が来て現地を見る、区が設置予定個所の地主に同意を得る、業者に説明する、といった手続きを経て工事が行われた。個所見分から3カ月弱。お役所仕事としては早い方だろう。

というわけで、カーブミラーを見る視点が変わった。ミラーに映っているのは車の有無だけではない。その土地の住民の安全・安心への思いもこもっている。

2010年9月5日日曜日

「いわき能」


おととし(2008年)の4月、いわき芸術文化交流館「アリオス」で能の公演が行われた。「アリオス」の完成披露と銘打ち、いわき市民のための能を知る会が主催し、アリオスが共催した。アリオスは日本有数のイベントホールだ。能の公演ができる特設舞台まで持っている。「知る会」の人間との義理もあって、チケットを買って観賞した。

以来、「いわき能」として毎年、開催されている。3回目の今年は8月29日に開かれた。知人が持ってきたチケットは、大相撲でいえば「砂かぶり」。舞台に向かって2列目中央、やや左だ。顔を上げて見るようになるのではないか――それはまあ、かまわない。覚悟して席に着く。

あとで、特設舞台の配置を確認したのだが、舞台には向かって左手前に「目付柱」がある。右側には「ワキ柱」がある。奥にはシテ柱。その左手には演者が登場する「橋掛り」があって、外には若い松が3本(右から一の松、二の松、三の松)添えられている。

大相撲の「砂かぶり」の近さだ。演者の表情がよく分かる。それはいいのだが、舞台のすぐ奥の「後座」に並んでいる鼓と笛など4人のうち、右端の一人が「目付柱」に邪魔されて見えない。シテがそのへんで演じているときもしぐさが分からない。体を右にかしげ、左にかしげして、やっと動きを見ることができた。

言い換えれば、「見付柱」がシテの動きを隠している。柱が邪魔、最悪の席に座ってしまった。

公演が終わったあと、自分の席から舞台を写真に撮った。視野の中央を「見付柱」が遮っている=写真。その辺りは最初から空席にしたらどうか、あるいは「見付柱」を透明なアクリル製にできないものか、などと詮ないことを考えた。

2010年9月4日土曜日

散歩再開


梅雨が明けると、たちまち猛暑になった。それが今も続いている。暑すぎる。汗だくになってまで散歩をしたくない。で、ずっと散歩を休んできた。8月が終わる。それでも暑い。しかし、そろそろ散歩を再開しないと足の筋肉が緩んで、いよいよ散歩をしたくなくなる。それはまずい。9月に入る前日、散歩を再開した。

前は朝晩散歩したが、まずは朝だけ。6時半に散歩を始めるとして、5時半には起きる。前夜、晩酌のあとに打ちこんだブログの原稿をチェックしてアップする――というのが、朝一番の仕事。それを済ませて散歩に出る。

いつものコースを行く。いつものようにジョギングをしている人がいる。いつものように犬と散歩をしている人がいる。この人たちは一日も休まずジョギングをし、犬を散歩に連れ出しているのだろう。

夏井川の堤防(いわき市平下神谷~中神谷)に出た。オオヨシキリはとっくに南へ去った。ウグイスもさえずりを終えた。代わりにコオロギの輪唱がさざ波のように広がっていた。ヨシ原は随分赤みがかっている。葉っぱが部分的に枯れているのだ。川に接しているから地下水はあるはずだが、日照り続きで水位が下がっているのだろう。

ある種の人間も猛暑で心が乾いてしまったらしい。サイクリングロードに黒く焼け焦げた自転車があった=写真。マンガ雑誌が散乱している。花火をやった跡もある。これは何だ。なにか冷えびえするような光景だ。しばし声がなかった。

2010年9月3日金曜日

庭の音楽


今週の月曜日(8月30日)あたりから、アオマツムシが夜の庭でうるさく鳴き交わすようになった。草むらからわいてくるのではなく、木の上から降ってくるのだ。鳴き声が大きい。「リーリーリー」が「ギーギーギー」に聞こえる。

朝から戸を開け放し、扇風機をかけっぱなしにして過ごしたあと、宵の晩酌タイムを迎える。茶の間でちびりちびりやり始めると、ほどなく庭で「ギーギーギー」が始まる。エンマコオロギのような繊細さはない。うるさいくらいだ。

そのエンマコオロギだが、わが家では月遅れ盆の前に初鳴きを聞いた。澄んだ音色が耳に心地よかった。「コロロロロー」。アオマツムシに比べたら控え目でやさしい歌い方だ。

夏井川渓谷の無量庵に泊まった晩、庭からエンマコオロギたちの輪唱が聞こえた。アルコールで陶然としながら、しばしコオロギたちの演奏に聞き入った。アオマツムシの演奏はなかった。

夏井川渓谷は、もともとが虫の王国。人間はその王国にあとから土地を求め、家を建てて暮らしを立てているにすぎない。無量庵などはその最たるものだ。外来種のアオマツムシはまだそこまで生息域を拡大してはいないだろ。

平地では、街路樹という街路樹にすみついて「ギーギーギー」とうたっている。おととい(9月1日)は茶の間に飛び込んできた=写真。昨夜も現れた。猛暑続きに体内の何かが失調したか。室内に現れたのは初めてだった。

2010年9月2日木曜日

残り物


夏井川渓谷の無量庵で毎年、夏合宿をするグループがある。長男の学生時代のサークル仲間だ。合宿といっても、いわきの海が気に入ったために連絡を取り合って海水浴に来る、そのための宿泊所だ。社会人になっても続いている。15年以上になるだろうか。今年も8月中旬にやって来た。

来庵の記録のために芳名簿を置いてある。若者たちは毎年、そこになにかひとこと書き込む。五七五七七にこだわる1人は「夏休み 仕事終わりで 福島へ 疲れを忘れ 今日もまた飲む」(2008年)。今年は「ゆっくりと する為今年も 福島へ 名残おしくて 今日もまた飲む」。「今日もまた飲む」がキーワードの“狂歌”だろう。

合宿が終わったあと、「バーボンがあるから飲んでいいよ」と言われた。無量庵に泊まった晩、冷蔵庫を開けてボトルを取り出した。残量は5分の1ほどしかなかった。〈何が「飲んでいいよ」だ〉。ま、一晩の独酌の量か。

平地のスーパーでメバチマグロの切り落としと、ネギトロ用の粗引きマグロを買った。粗引きには畑から採って来た三春ネギをみじんにしてあえた。それらを盆にそろえて晩酌を始めた=写真。ヤカンにはこれまた冷蔵庫にあった残り物の氷を入れて水を冷やした。バーボンを生で飲み、冷えた水をチェイサー(追い水)にして胃袋で水割りにする。

山小屋同然の無量庵では、残り物も貴重な飲食材だ。

2010年9月1日水曜日

白い畑


8月が終わって9月になった。梅雨が明けたのは7月18日。7月30日に一度、どっと雨が降ったあとは、いわき地方は雨なしの日が続いている。旧小名浜測候所の観測データによれば、8月の降水量は12日の7ミリだけ。ほとんど雨なしで過ぎた。雨がないだけでなく、記憶にない猛暑続きの夏になった。

今までにない感覚を体験した。車を運転するとき、エアコンはかけない。窓を全開する。むき出しの腕が太陽に焼かれて痛くなる。日焼けするのが当たり前だった少年時代に比べたら、すっかり耐性が落ちた。

女性が使うアームカバー、あれは伊達ではなかった。日焼けを防ぐには効果的。そう思ったのは、立て続けに葬式があり、ワイシャツを着て車を運転したら、太陽の熱が気にならなかったからだ。今年も男性が日傘をさしているのを見た。「男のくせに」と思ったのはもう過去の話だ。

夏井川渓谷の無量庵に小さな畑がある。川のそばだ。空中湿度が高く、夜露も降りる。が、その夜露がほとんど降りなくなった。無量庵の濡れ縁にバケツがある。雨樋からこぼれ落ちる雨や露をいったん受け止めるために置いた。7月までは一週間でそれが満杯になったが、8月にはほとんどからっぽ状態だ。

そばの畑の土も乾いて白っぽくなった。ポット苗のバジルを2株もらい、無量庵の畑に定植した。1株が枯れた。キュウリも早々と枯れた状態になった。

頑張っているのがナス。義妹からポット苗が届いたときには、遅蒔きだったのか育ちが悪かった。それを、やはり定植した。ようやく花=写真=を咲かせ、実がつき始めた。秋ナスだ。先日(8月28日)の夕方、初めて1個を収穫し、白く乾いた根元にたっぷり水をやった。明日あたり、収穫を兼ねて様子を見に行かなくては。