2010年9月26日日曜日
2人歌誌「翅」
おととい(9月24日)、知人の母堂の通夜に行ってきた。享年87。目を落とした日は21日か、22日か。なんとなく気になった。というのは、私の母が5年前の9月22日に亡くなり、同じ年の同じ日にいわき市三和町の作家草野比佐男さんが亡くなっているからだ。
新聞折り込みの「お悔み情報」を見たら、知人の母堂は母たちと同じ9月22日に亡くなった。母の命日がくると、草野さんを思いだし、母堂に線香をたむける知人を思いだすようになるのだろうか。
それはさておき、最近、草野比佐男さんが波汐国芳さん(去年、福島県文化功労賞を受賞)と2人で出していた歌誌「翅」=写真=6冊(いわき総合図書館蔵)を見ることができた。B4判を二つ折りにしたB5判4ページで、体裁と誌名の「翅」はルナールの『博物誌』に出てくる蝶々の「二つ折りの恋文が、花の番地を探している」にちなむ。
創刊は昭和37(1962)年2月20日で、平の氾濫社で印刷した。氾濫社は真尾倍弘・悦子さん夫妻が経営していた出版社だ。悦子さん自身、昭和34年に未来社から生活記録『たった二人の工場から』を出し、2冊目の『旧城跡三十二番地』を出すばかりだった。
したがえるサラリーマン氏に吐き出す舌(べろ) 夕焼は俺の内側へ向き
起ち上りビルの林を歩ませば背後に街が無くなるのではないか
やり場なきサラリーマンの澱む眼が集っているビルは死海だ
いいか それでは死ぬぞいいか と首を吊るQ氏言えど凍天の一枝もゆるがず
「翅」の作品群は、そのころ氾濫社から出した歌集『就眠儀式』のみずみずしい世界とはいささか趣を異にする。口語自由あり、口語定型あり、文語・口語混じりあり……。
草野さんは当時、35歳。歌人として出発し、やがて小説へと転じるが、「翅」では実験的な歌をさかんに詠んだ。不定期刊ながら「長く続けて、現代短歌の可能性を探ってゆきたい」とした志は果たされただろうか。
「翅」は5号と6号は、印刷が加納活版所に替わった。真尾夫妻が37年11月下旬、平を去って帰京したことによる。氾濫社がいわき地方に発信し続けた文化はこのとき途絶えた。
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