2017年11月24日金曜日

神谷巡検

 いわき地域学會の第58回巡検がきのう(11月23日)、いわき市平中神谷(かべや)地内で行われた。テーマは「笠間藩神谷陣屋と戊辰(ぼしん)の役(えき)」。神谷公民館で座学を行ったあと、戊辰の役(戦争)関連の場所や碑などを見て回った。 
 戊辰戦争では、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に属して新政府軍と戦った。負け組だ。磐城平藩と夏井川をはさんで東隣に位置する神谷は、笠間藩の飛び地(分領)。陣屋(役所)が今の平六小のところにあった。笠間藩は新政府軍=勝ち組についた。
 
 川の向こうとこちらと、それまでうまくやっていたのに突然、敵対する関係になった。多勢に無勢。陣屋の笠間藩士は同盟軍の“暴談”に従うしかない。ひと山越えた四倉の薬王寺へ撤退し、援軍を待った――。そこから、磐城平城が焼け落ちて戦いが終わるまで、神谷および近辺で攻防戦が展開された。
 
 きのうは朝から雨、午後にはやむという予報通りの天気になった。9時半から2時間、公民館で地域学會の夏井芳徳副代表幹事が大須賀筠軒『磐城郡村誌』や笠間藩主の牧野貞寧(さだやす)家記「復古外記 平潟口戦記 第一」を教材に、神谷での戦いを紹介した。
 
 昼食をはさんで巡検に移り、まずは田んぼをはさんで公民館の向かいにある「為戊辰役各藩戦病歿者追福」碑を見た=写真。次は、陣屋のあった小学校を敷地外から眺め、出羽神社の山上駐車場から西方の丘を背にする一山寺(いっさんじ)を眺望した。
 
 神谷耕土を突っ切り、国道6号を横断して夏井川を眺めたあとは、近くの大円寺墓所内にある武藤甚左衛門の顕彰碑の前に立つ。武藤は戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった。耐えに耐えていくさに勝った――そんな「郷土開発の功労者」をたたえる碑だろう。
 
 磐城平藩関係者にはおもしろくない顕彰碑だが、私は神谷に住んでいる、夏井副代表幹事も神谷の住人だ、磐城平藩の側に立ったり、笠間藩神谷陣屋の側に立ったりと、なんとも複雑な気分になる。結果、戦争はいつも庶民には迷惑――そんな思いがふくらむ。
 
 歩いて神谷を巡ること、ざっと2時間。戊辰戦争以外にも出羽神社の梵天(ぼんでん)の前に立ったり、迷路のような集落内を歩いて「愛宕地蔵尊」の建物を見たりした。夏井川にはサケのやな場がある。ハクチョウも越冬する。半分川を覆う字名「川中島」には笠間藩神谷陣屋の処刑場があった。その下流も「調練場」。広い砂地が藩士の兵式調練場になっていて、そのまま字名として残ったという。
 
 ふだんなにげなく暮らしている世界が、歴史の光を当てると“物語”になって立ちのぼる。少なくとも「神谷の戊辰戦争」に関しては、知識の断片が動画のようにつながった。

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