ゆうべ(11月4日)のブラタモリは北海道・洞爺湖だった。洞爺湖のほかに、周辺の火山活動の痕跡を見た。昭和新山まで足を延ばすはず――そう踏んでいたら、ふもとから眺める=写真=だけでなく、所有者の案内で山にも登った。昭和新山の成長記録を残した初代の所有者は、先祖が延岡藩士だった。ということは、さらに前の先祖はいわきに住んでいたかもしれない。
23年前の平成6(1994)年秋、昭和新山を訪ねた。小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の団体旅行だった。当時、勤務するいわき民報に書いた昭和新山についての文章を再構成してみる。
――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。レストハウスで昼食後、自由時間になって赤茶色の溶岩の山を見続けた。
昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけての2年間。当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」で、レストハウス裏手の「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で買った「めくり絵」をパラパラやると、山の成長過程がわかる。
三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)も記念館で買った。ブラタモリで山登りの案内をした人が著者だ。なかにこうある。「多くの鳴動につれ、無数の亀裂と断層を伴い、極めて緩やかとはいえ刻々進む大地の隆起、四カ月も続いた噴火、一カ年がかりで押し上がって来た溶岩塔の出現等々が続き」、のちに昭和新山と命名された。
やがて正夫は、新山を守るために元麦畑を買い取った。三朗さんは大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと、正夫と出会い、火山への思いを知って三松家を継いだ。昭和新山も引き継いだ。
正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。
延岡、内藤家御用人とくれば、内藤の殿様が延岡へ転封される前の磐城平に先祖がいたはず。『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)に当たると、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいた。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない――。
国土地理院の地図では、昭和新山は標高398メートルと、生まれたときより低くなっている。ウィキペディアにあるが、温度低下や浸蝕などで少しずつ縮んでいるそうだ。磐城平藩時代の三松姓の調べは、新山と対面したときから全く進んでいない。宿題のひとつだ。
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