2009年3月6日金曜日

映画「おくりびと」


「別冊太陽『生誕100年記念金子みすゞ』」によれば、金子みすゞの娘・上村ふさえさんは自分が結婚して子どもを産むまで、母親は「私を置いて死んでいった」「母は私には愛情がなかった」と恨みに近い気持ちを抱いていた。

結婚して子どもができる。子どもと一緒に死のうと思ったときもある。そのとき、「ああそうだ、母は死んでしまったが、私は自殺してはいけない」と、ふさえさんは思いとどまった。母が自分を残したから、「いのち」を子どもに伝えることができた、というふうに考えが変わった。

母親が詩集を残そうが、幼いときの自分の言葉を採録した「南京玉」を残そうが、ふさえさんには母の愛を物語るものではなかった。かえって「南京玉」の最後にある言葉、<このごろ房枝われと遊ばず>に母親としての愛の欠如を感じていたほどだ。

アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を、平テアトルで見た=写真(パンフレット)。連日のようにテレビで取り上げられているから、大雑把な筋立ては分かっている(ようなものだ)。が、やはり百聞は一見にしかず。

見れば自分なりの発見がある。いや、誰もが自分なりになにかを発見する。それが可能な普遍性がこの映画にはある。アメリカでも評価された大きな理由だろう。

私の場合は最後の最後、失踪した父親が亡くなり、遺体を引き取りに行ったときの主人公・小林大悟の心の葛藤が、みすゞの娘・ふさえさんの心の葛藤と重なった。ふさえさんにとっては、母親は失踪したのと同じだった。

ふさえさんは結婚し、子どもができて母親の愛を理解し始める。大悟は父親の指に握られていた河原の石ころ=幼いときに父親と交換した「石文(いしぶみ)」を見て、父親の愛を知る。父親に捨てられたのではなかったのだ、と。

たとえが適切かどうか。納棺師というダンサーが踊る(納棺までの儀式を執り行う)。それを遺族という観客が見る。踊りのテーマは死、ただしいつかは誰もが向かう彼岸への旅立ち。火葬場の職員(笹野高史)を、私はJR職員と勘違いした。たぶんそれには理由がある。「旅のお手伝い」をする、そのユーモアまぶしの1つに違いないのだ。

残された子どもは、親の自殺や失踪といった現象には反応しても、親の心の葛藤にまでは踏み込めない。そこに齟齬が生じる。子どもを愛していない親がどこにあろうか、みんな愛しているのだ――という意味で、家族愛がテーマの映画なのだと理解した。

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