2009年3月11日水曜日

平空襲は「臨機目標」?


3月9日はどういうわけか落ち着かない気分で過ごした。何かしなくてはならないことがあるような、ないような……。で、ときどき考えるのだが、とうとう分からずじまい。翌10日のきのう早朝、目が覚めると同時に思い出した。「きょうは最初の平空襲の日だ」

『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳/東方出版)と復刻版の『日本の空襲―1 北海道・東北』(日本の空襲編集委員会編/三省堂)=写真=を図書館から借りて来て読んだ。空襲の経緯や被害状況を確かめるために、これまでにも何度かパラパラやってきた“教科書“だ。

64年前の昭和20(1945)年3月9日夜、米軍のマリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機325機は、日が替わった真夜中の10日午前零時過ぎから東京の市街地に焼夷弾の雨を降らせた。いわゆる「東京大空襲」である。その同じ時間帯にB29が1機、鹿島灘方面から平市街地上空に侵入し、100発の焼夷弾を投下した。

東京大空襲はこの年の3月中旬、日本の4大都市(東京・名古屋・大阪・神戸)に加えられた5回の夜間低高度焼夷弾攻撃の最初のものだった。死者・行方不明者は約10万人といわれる。同じ日、平では西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が火の海に飲まれ、16人が死亡、8人が負傷した。

平ではこのあと敗戦間近の7月26日朝、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡、60人が負傷する。さらに7月28日深夜、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールが焼き尽くされる。

平はなぜ空襲を受けたのか。というより、なぜ平が狙われたのか、がよく分からない。3月10日の攻撃目標は東京市街地、7月28日の目標は青森市街地である。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。これか。

3月10日は、325機のうち「臨機目標」に切り替えたのが5機。そのうちの1機が平上空に現れ、焼夷弾を捨ててUターンをしたのではないだろうか。7月28日に出撃したのは65機。うち3機が「臨機目標」に切り替えている。これが青森からの、あるいは途中からの帰路、平に焼夷弾を捨てたのだとしか思えない。

裏を返せば、パイロットが操縦ミスを犯した、焼夷弾が余った、だからレーダーに映った下の街(平)に、排泄物でも垂れ流すように焼夷弾を落とした。理由は機体が重いと基地まで帰れないから――そんなエゴイスティックなものではなかったか。だとしたら、なおさらたまらない。というわけできのうは一日、重苦しい気分で過ごした。

開戦、空襲、玉砕、敗戦……。「その日」だけの一過性の思いであれ、「その日」に思いを致してあれこれ考える。その1つが「なぜ、平に焼夷弾が」だが、これは自分にねじを巻くためにも欠かせない作業だ。

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