夏井川が平塩を過ぎて、ここから平中神谷分という所にかつて渡し船があった。春には対岸、平山崎字梅福山にある旧浄土宗名越派総本山の専称寺を訪ねる観梅客の足として、新聞・テレビが必ず取り上げた。いわば、春先の平の風物詩である。その渡し船が姿を消したのは昭和56年3月末。ちょうど30年前のことだ。
そのころ、渡し船を利用して家族で専称寺へ梅を見に行った記憶がある。両岸にワイヤが張られていた。船はワイヤと鎖で結ばれていた。中神谷側の堤外(高水敷)に渡し守の家があって、頼むとワイヤをつかんで船を対岸へ進めてくれる。帰りは大声を出して呼ぶと家から出て来て、船を寄せてくれる。料金は1人当たり大人50円、子ども30円だった。
渡し船は観梅客のためにあったわけではない。同じ対岸の平山崎字矢ノ目に、専称寺より古い名越派の故本山・如来寺がある。中神谷にはこの専称寺と如来寺の檀家になっている家がある。田畑を持っている人もいる。渡し船はそのための農道であり、参道だった。ついでに専称寺が梅林として知られるようになってから、観梅客を運ぶようになった。
渡し船は中神谷区が管轄していた。車社会になって利用者が激減したこと、区から頼まれて戦後の昭和23年から渡し守を続けてきたSさんが年を取って体がしんどくなったこと、などが渡し船廃止の理由だった。
「川の参道」がなくなった今は、中神谷から専称寺へは上流・平鎌田の国道6号平大橋か、下流・平下神谷の6号バイパス夏井川橋を利用するしかない。先日、自転車で平大橋経由で専称寺を訪ねた。境域の梅は、ふもとは散り始め、中腹は満開に向かいつつある、といったところだった。歴代住職の眠る墓域から眼下に夏井川が見えた=写真。そこに参道=渡し船があった。
如来寺および専称寺の開山からだとすれば、渡し船の歴史は数百年に及ぶ。そこは割り引いて考えるにしても、「ここに参道=渡し船があった、渡し守の家があった」と思うと、ただの川の流れではなくなってくる。川の物語がやせ細っている今こそ、こうした足元の歴史を市民の想像力のなかに蘇らせたいものだ。
そのころ、渡し船を利用して家族で専称寺へ梅を見に行った記憶がある。両岸にワイヤが張られていた。船はワイヤと鎖で結ばれていた。中神谷側の堤外(高水敷)に渡し守の家があって、頼むとワイヤをつかんで船を対岸へ進めてくれる。帰りは大声を出して呼ぶと家から出て来て、船を寄せてくれる。料金は1人当たり大人50円、子ども30円だった。
渡し船は観梅客のためにあったわけではない。同じ対岸の平山崎字矢ノ目に、専称寺より古い名越派の故本山・如来寺がある。中神谷にはこの専称寺と如来寺の檀家になっている家がある。田畑を持っている人もいる。渡し船はそのための農道であり、参道だった。ついでに専称寺が梅林として知られるようになってから、観梅客を運ぶようになった。
渡し船は中神谷区が管轄していた。車社会になって利用者が激減したこと、区から頼まれて戦後の昭和23年から渡し守を続けてきたSさんが年を取って体がしんどくなったこと、などが渡し船廃止の理由だった。
「川の参道」がなくなった今は、中神谷から専称寺へは上流・平鎌田の国道6号平大橋か、下流・平下神谷の6号バイパス夏井川橋を利用するしかない。先日、自転車で平大橋経由で専称寺を訪ねた。境域の梅は、ふもとは散り始め、中腹は満開に向かいつつある、といったところだった。歴代住職の眠る墓域から眼下に夏井川が見えた=写真。そこに参道=渡し船があった。
如来寺および専称寺の開山からだとすれば、渡し船の歴史は数百年に及ぶ。そこは割り引いて考えるにしても、「ここに参道=渡し船があった、渡し守の家があった」と思うと、ただの川の流れではなくなってくる。川の物語がやせ細っている今こそ、こうした足元の歴史を市民の想像力のなかに蘇らせたいものだ。
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