小島美子さんの『日本童謡音楽史』を読んでびっくりしたことがある。わらべ歌の「通りゃんせ」、あれは本居長世が編曲したものだという。音楽教育などに携わっている人には先刻承知の事実なのだろうか。
江戸時代後期のわらべ歌は、おおむね明治時代までは同じ形で歌い継がれてきた。その中期以降、新しい種類のわらべ歌がこれに加わり、大正6(1917)、7年ごろからわらべ歌の新旧交代が目立つようになる――。つまり、古いわらべ歌が新しいわらべ歌に駆逐される現象が起きた、と小島さんはいう。
大正9(1920)年、野口雨情の「葱坊主」で童謡の作曲を始めた本居長世は、翌10年には江戸時代から続くわらべ歌「通りゃんせ」を編曲する。
「通りゃんせ」をこまかく検討した小島さんは、ある事実に気づく。今、各地で歌われている「通りゃんせ」は、例外なく本居式「通りゃんせ」で、本居が編曲する以前の素朴な形の「通りゃんせ」ではない。
そこから小島さんは、古い形の「通りゃんせ」は本来の伝承の形では伝わらずに滅びてしまった、それに代わって童謡の形の本居式「通りゃんせ」がわらべ歌の仲間入りをした、と推測する。
言い換えれば、本居編曲の「通りゃんせ」が元歌を追い払ってしまった、あるいは本居がよい編曲をしなければ滅んでしまったかもしれない「通りゃんせ」を、本居が新しい形で再生させたということかもしれない――それが小島さんの解釈だ。
♪通りゃんせ 通りゃんせ/ここはどこの 細道じゃ/天神さまの細道じゃ/ちょっと通して 下しゃんせ/御用のないもの 通しゃせぬ/この子の七つの お祝いに/お札を納めに まいります/行きはよいよい 帰りはこわい/こわいながらも/通りゃんせ 通りゃんせ=写真は平北白土の三島八幡神社。看板に「学問の神 菅原神社」とあった。
「こわい=疲れた/怖い」などといった歌詞にまつわる謎解きはともかく、われわれの親が歌い、われわれが歌い、今も放送などで流される「通りゃんせ」が大正時代に編曲、いや“作曲”されたといってもいいものだったとは。事実は小説より奇なり、というしかない。
江戸時代後期のわらべ歌は、おおむね明治時代までは同じ形で歌い継がれてきた。その中期以降、新しい種類のわらべ歌がこれに加わり、大正6(1917)、7年ごろからわらべ歌の新旧交代が目立つようになる――。つまり、古いわらべ歌が新しいわらべ歌に駆逐される現象が起きた、と小島さんはいう。
大正9(1920)年、野口雨情の「葱坊主」で童謡の作曲を始めた本居長世は、翌10年には江戸時代から続くわらべ歌「通りゃんせ」を編曲する。
「通りゃんせ」をこまかく検討した小島さんは、ある事実に気づく。今、各地で歌われている「通りゃんせ」は、例外なく本居式「通りゃんせ」で、本居が編曲する以前の素朴な形の「通りゃんせ」ではない。
そこから小島さんは、古い形の「通りゃんせ」は本来の伝承の形では伝わらずに滅びてしまった、それに代わって童謡の形の本居式「通りゃんせ」がわらべ歌の仲間入りをした、と推測する。
言い換えれば、本居編曲の「通りゃんせ」が元歌を追い払ってしまった、あるいは本居がよい編曲をしなければ滅んでしまったかもしれない「通りゃんせ」を、本居が新しい形で再生させたということかもしれない――それが小島さんの解釈だ。
♪通りゃんせ 通りゃんせ/ここはどこの 細道じゃ/天神さまの細道じゃ/ちょっと通して 下しゃんせ/御用のないもの 通しゃせぬ/この子の七つの お祝いに/お札を納めに まいります/行きはよいよい 帰りはこわい/こわいながらも/通りゃんせ 通りゃんせ=写真は平北白土の三島八幡神社。看板に「学問の神 菅原神社」とあった。
「こわい=疲れた/怖い」などといった歌詞にまつわる謎解きはともかく、われわれの親が歌い、われわれが歌い、今も放送などで流される「通りゃんせ」が大正時代に編曲、いや“作曲”されたといってもいいものだったとは。事実は小説より奇なり、というしかない。
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