2010年6月24日木曜日

足元の歴史


いわき駅前に建設された再開発ビル「ラトブ」は、江戸時代には磐城平城の一部だった。建物の北側三分の二は侍屋敷、南側の三分の一は外堀。明治維新後は、その堀が町屋の「ごみ捨て場」になった。明治30(1897)年に常磐線が開通するが、堀はそれに合わせて埋め立てられた。「ごみ」もそのまま土中で眠り続けた。

「ラトブ」建設時の平成18(2006)年春、埋蔵文化財の「立会調査」が行われた。それから分かったことがある。ポイントは堀。絵図通りの位置に外堀が現れ、そこから大量の遺物が発見された。「ごみ」である。その「ごみ」が多様な情報を伝える。

ここで考古学的な調査結果を語るほどの知識は、私にはない。先週の土曜日(6月19日)、いわき地域学會の市民講座でそれを補完する話があった。地域学會の馬目順一相談役(考古学)が「磐城平城外堀跡の精錡水――ヘボンと岸田の友好」と題して詳細を披露した=写真

「ごみ」の一つに荷札(木簡)があった。「精錡水本舗岩戈」(「戈」は字そのものが半分欠けたもの、つまり「城」の右側部分らしい。「岩城」と推測できる)がそれだ。画家岸田劉生の父、岸田吟香が米国人眼科医ヘボンから製法を伝授され、幕末に日本で初めて液体目薬を売り出した。その製品名である。

馬目さんは、「ラトブ」建設現場から「精錡水」の荷札が出土したころ、奇しくも岸田とヘボンの関係を調べていた。

二人は海外渡航が解禁された慶応2(1866)年、中国・上海へ渡り、日本へ初めて活字印刷を伝えた美華書館で『和英語林集成』をつくる。そのあたりを調べていたところに「精錡水」の荷札出土を知った。彼らの「和英辞典」は、まず日本語をヘボン式ローマ字で掲げ、片仮名、漢字で日本語をつづり、それに対応する英語を付する。流れとしては現代の辞典と変わらない。

近代日本の建設時、「和英」のほかに「英和辞典」がつくられる。アルファベットは左から右へ、日本語は右から左へ、あるいは縦書きをそのまま横倒しにしたものと、読みづらいものが多かった。

『和英語林集成』は最初からその混乱を超えて、すんなり左から右へと言葉を読めるようになっていた――と解釈するのは現代人だからで、そのころ、日本人は横書きを読めなかった。

一つの荷札から眼病、開国、和英辞典、活字出版その他、日本の近代形成過程があぶりだされるように立ち上がってくる。足元の歴史を掘ると世界が見える――。生涯学習の面白さを堪能した。

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