京都の清水寺でのこと。「舞台」に立ったあと、順路の表示にしたがって門前町に戻った。途中、木々の茂る散策路を歩いていると、ブロアーを手にして落ち葉を吹き飛ばしている人がいた=写真。
一段下の「音羽の滝」の手前にも、同じ作業をしているおじさんがいた。思わず声をかける。「毎日やってるの?」「そう、第二の人生」。定年で仕事を終えたあと、境内の散策路をきれいにする作業に生きがいを見いだした、ということだろう。
見た目のきれいさだけではない。濡れ落ち葉を踏んで足を滑らせることがないように。そんな配慮から、落ち葉を路外に飛ばしているにちがいない。こうした場面ではいつも、「ささやかさ」と題された作家角田光代さんの短文を思い出す。
「差し出されたお茶とか、てのひらとか。毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。それから、歩道に咲くちいさな赤い花とか、あなたの笑顔とか。私たちは日々、だれかから、感謝の言葉も見返りも期待されない何かを受け取って過ごしている。」
原文は行分け詩のスタイルをとる。その最後の4行。「あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」
京都の魅力はなんといっても歴史の重みと文化の厚みだろう。名もない人々の、日々の、ささやかな仕事がその重みと厚みを支えている。きれいな散策路を歩く贅沢もそうして毎日、用意される――と言ったら言い過ぎか。
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