2025年12月9日火曜日

渓谷のあの店が…

        
 磐越東線の江田駅(旧江田信号場)といえば、眼下の県道沿いに立つ朝日屋である。江田駅と朝日屋は、私の中では常にセットで記憶されている。

 それをはっきり自覚するようになったのは、平成7(1995)年以降だ。この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日には地下鉄サリン事件が起きた。

さらに(これは個人的な出来事だが)この年、5月末から義父が建てた渓谷の隠居へ通い始めた。

毎週土曜日夕方、ひとり車で朝日屋の前、つまりは江田駅の下を通って牛小川の隠居へ行く。

カミサンはたまに翌日曜日、一番列車で平(現いわき)駅から江田駅までやって来る。私は車で迎えに行き、朝日屋のそばの駐車場でカミサンが階段を下りてくるのを待つ、ということを長年続けた。今は日曜日、夫婦2人だけの隠居通いである。

江田駅は、ハイカーが背戸峨廊(セドガロ=夏井川支流の江田川)に入渓するための降車駅でもある。帰りはもちろん同駅から列車に乗る。

朝日屋は食料品店兼食堂だった。ハイカーや行楽客が食事をし、食料品を買い求める店でもあった。

 いつだったか記憶が定かではないが、食堂が営業をやめ、それを知らずに入った私は、代わりにカップヌードルを買って店を出た。

 それからしばらくたって、といっても2~3年前までは開いていたようだが、食料品店もやめて建物が残るだけになった。

渓谷へ通い始めたころ、私らはまだ40代だった。朝日屋のご夫婦は、私たちの親よりは少し若い年代のようにみえた。

 その朝日屋に防塵ネットが張られ、重機が入って建物を解体し始めたのに気づいたのは11月30日。

 その1週間後、隠居からの帰りに見ると、かなり解体が進んでいた=写真。14日の日曜日には、更地になっているかもしれない。

解体風景を見て、江田駅にまつわる思い出がよみがえった。まだ信号場時代のことだ。高専の夏休みが始まるのに合わせ、同級生数人と一緒に汽車で中通りの実家に帰省した。

途中、江田信号場で1人の女子高生が下車した。車内で声をかけたのかどうか、同級生の1人がえらく彼女に興味を示した。

あとで付き合いを始めたか、いやそこまではいかなかったか。そのへんは記憶もあいまいだが、車内ではその女子高生の話で大いに盛り上がった。

江田信号場経由で背戸峨廊へ入渓したときには、偶然、小名浜の従妹(いとこ)を含む他校生と一緒になった。

もしかしたら朝日屋へ寄ったかもしれない。が、なにしろ60年前のことで、記憶は既にもうろうとしている。

その朝日屋が姿を消す。江田駅とセットの朝日屋にまつわる記憶も、あらかたは「更地」になってしまうのかもしれない。

まだ建物の残像が生きているうちに、自分自身のために、朝日屋の思い出をブログに残しておこう。そんな気持ちがわいたのだった。

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