夏井川渓谷の隠居の前の電柱に防犯灯が取り付けられてある。この明かりを確保するために、地元の住民が隠居の木の枝葉を剪定し、電柱のすぐそばの立ち枯れモミを1本伐採してくれた。
カミサンの父親に代わって私ら夫婦が隠居の管理人になったのはざっと30年前。そのころはどの木も細く小さかった。
この間2回、電力会社が電線保護のために剪定をしてくれた。そのあと、また枝葉が茂ってきた。
2本あるモミの木は2回目の剪定後、立ち枯れた。地元の住民が伐採してくれたのはそのうちの1本である。
根切りされたモミの木の断面=写真=を見ながら、川内村での草野心平の逸話を思い出した。5年前の拙ブログを要約・再掲する。
――いわき地域学會が阿武隈の山里、川内村の村史編纂事業を請け負った。そのときの調査の一コマだ。
私は、山里にまで浸透した幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。
上川内の禅寺、長福寺の矢内俊晃和尚の招きに応じて、心平が川内村を訪ね、村民との交流が始まった。
心平は名誉村民に推戴され、やがて天山文庫が生まれる。心平と交流のあった和尚はガリ版刷りの個人誌「蕭々無縫」を出して、心平との交遊をつづった。そのエピソードのひとつ。
あるとき、心平はまな板用に栗の木の切れ端を村の棟梁に削ってもらう。和尚と一緒の帰り道、木の年輪を見て「君、こっちは北なんだね。こっちは南側だったんだね」という。
「君、同じ南側でも育ち具合が違うんだね。育たなかった年は気候が悪かったんだね。この時は、この木も随分と苦労したろうね。木ばかりでなく、みんな苦労したんだね。凶作だったりして」――
根切りされたモミの木の話に戻る。年輪は、はっきりわかるのは30本。それにプラス5~6年といったところか。私らが通い始めたころはまだ幼木だったことが、これからもわかる。
根元の東西南北でいうと、東(写真の右側)からは30本ほどだが、反対側の西からは30年プラス5~6年のように見える。
最後の5年間は強剪定がたたって生長が止まり、年輪の間の間隔が詰まったために東側から見るとプラス5~6年の判断がつかなかったのかもしれない。
たったそれだけの年数ながら、幹は根元では50センチほどになっていた。根切りをして倒れた瞬間、地響きがした。それだけ木質が重く、稠密にできていたことになる。
40センチほどの長さに切断して、庭の隅に片付けたが、もしかしたら丸太の椅子になるかもしれない。カミサンはさっそくそんなことを考えているようだった。
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