2015年1月7日水曜日

田んぼのハクチョウ

 いわき市の夏井川でハクチョウが最も多く飛来するのは、平・平窪。日中は左岸(平窪)と右岸(赤井)に分かれて、田んぼで落ち穂や二番穂をついばんでいることが多い=写真。
 
 その下流、平・塩~中神谷のハクチョウも、日中はどこかの田んぼへ出かけて食事するのだろう。
 
 朝8時半ごろになると、わが家の上空を鳴きながら飛んでいく。毎日のことなので、いちいち庭へ飛び出して仰ぎ見るようなことはしない。たまたま外に出ていたときに眺めると、2羽だったり、5羽だったり、3羽だったり……。いつも北東の方角へ向かっていく。夕方は4~5時に、やはり鳴きながら同じコースを戻ってくる。
 
 鳥インフルエンザが問題になって以来、夏井川白鳥を守る会は平窪でのえさやりを自粛している。塩~中神谷では対岸のMさんが軽トラで毎朝、えさやりにやって来た。Mさんは平成24(2012)年6月に亡くなった。それを知らずにいた。
 
 おととしの年末、ハクチョウにえさ(くず米)をまくおばさんに出会った。午後3時すぎ。堤防を利用して街から帰る途中、何十羽ものハクチョウが空に現れ、らせん状に下降しながら着水した。ちょうど、堤防そばの家から“白鳥おばさん”がやって来てえさをまいた。おばさんが岸辺に立つと、ハクチョウたちが寄ってくる。あわてて飛んでくるものもある。

 そのとき初めておばさんと話した。「日中はどっかに行ってるみたいね。そろってからえさをやるようにしてんの」。朝はMさんが、午後はおばさんが――。Mさんの死を知らなかったので、没後1年半たってもそんなことを思っていた。
 
「どっかへ行く」その先の一つが北東の方角だった。そちらの方角に若い仲間が住んでいる。先日、ハクチョウの話をしたら平・北神谷や四倉・長友の田んぼにいっぱいいるという。北神谷も長友も、塩~中神谷の夏井川からみると北東の方角だ。疑問が解けた。いつかそちらへ足を延ばして写真を撮ろう。

2015年1月6日火曜日

サケの刺し身

 週末には刺し身を食べたくなる。いつも行く魚屋さんは正月休みで開いていない。土曜日(1月3日)の朝、スーパーへ買い物に行くとビンチョウマグロのさく(切り身)があった。夕方、刺し身が食べたくなって買いに行ったら売り切れていた。代わりにノルウェー産の生サケを買った。自分で薄切りにした=写真。

 晩秋から春先まで、生のカツオは入荷しない。その間は行きつけの魚屋さんに何があるのか聞いてから、買う刺し身を決める。イカ、タコが中心だが、師走には天然ブリを口にした。メジマグロもあれば食べる。

 スーパーで売っているサケの産地を見たらフィヨルドが頭に浮かび、生の味を確かめたくなった。ずいぶん脂がのっている。「トロだね」とカミサンが言った。

 もう5年余り前のことだ。還暦を記念して仲間と同級生が住む北欧へ“修学旅行”をした。ノルウェーのフィヨルドにはとりわけ感動した。

 フィヨルドは氷河が大地を削り、そのあとに海水が入ってできた地形(入り江)をいう。実際に見たのはソグネフィヨルド(世界最長204キロ、最深1308メートル)の最奥部、世界遺産のネーロイフィヨルドだ。
 
 帰ってから北欧関係の本を読みあさり、テレビの旅番組を追い続けた。水産業関係の専門書も図書館から借りて読んだ。そのときのメモの一部。――ノルウェーでは南部のフィヨルドを中心にサケを養殖している。コンピューターによる自動給餌(きゅうじ)によって、残餌の沈殿による環境の悪化、魚体の品質低下を防いでいる。単一国としては日本が最大の輸入国。

 スーパーへ行くと、魚類コーナーではサケの産地を確かめるようになった。チリかノルウェーか、どちらかだ。刺し身用を買ったのは今度が初めてだった。病みつきになりそうで怖い。

2015年1月5日月曜日

“仕事始め”

 家の前の歩道にごみ集積所がある。きょう(1月5日)は今年最初の「燃やすごみの日」。午前7時前、カラスが家のそばで鳴いた。10羽以上が群がり、生ごみを散らかしていた。あわてて黄色いごみネットを張った。今年の“仕事始め”はカラスに勝ちたかったのだが、ちょっと油断した。

 生ごみを片づけていると、毎朝散歩をしている近所の人(双葉郡から避難中)がごみ袋を持ってやって来た。散歩中に散乱ごみを見かけたので片づけに来たのだった。もう1カ所、ごみの散乱している場所がある。そこを片づけてくると言って出かけた。ありがたいことだ。
 
 それから十数分後、消防車のサイレンが――。次から次に真っ赤な車がやって来る。平市街の知人から電話が入った。2階に上がって見ると、400メートルほど西の住宅地から黒煙が立ちのぼっていた。
 
 さて、本題。いわき地域学會は年に10回(5月~翌年2月)、市民講座を開く。2カ月分をまとめてはがき、時に手紙で会員に知らせる。きのう、1月(17日)と2月(21日)の講座案内をはがきに印刷し、投函した。これも私の“仕事始め”だ。

 はがきの原稿は年の瀬に用意しておいた。年末年始の休みに入ったとはいえ、それぞれの家にはやることがある。大掃除、年始回りと応対、家族慰安、……。事務局の若い仲間が年末年始休最後の4日朝、「9時からやりましょう」と電話をかけてきたので、急いで部屋を暖めた。

 わが家から少し離れたカミサンの伯父の家が事務局だ。ふだんはNGOのスタッフが住んでいる。2カ月にいっぺんは、短時間ながら「シェアハウス」になる。

 家は高床式で、庭に面した床が半地下式の物置になっている。そこに3・11から1年半後、四倉の旧家からダンシャリで出てきた資料(ごみ袋で十袋余り)を保管している。市役所を定年で退職したあと、四倉の商工会に勤めた知人から連絡がきて、とりあえず地域学會で仮保管をすることになった。少しでも地域の資料を“救出”したい、そんな思いもあった。

 はがきの印刷を終えたあと、カミサンが物置から資料を取り出し、若い仲間に整理を頼んだ=写真。平電力会社が戦中、国策によって東北配電(現東北電力)に統合されるまでの資料が主で、以前、関心のありそうな人に声をかけたが、反応はなかった。

 資料のなかに、若い仲間の興味をひくものがあった。夏井川の支流・小玉川に建設した発電所の写真帳、そして当時の新聞つづり。新聞つづりの表紙には「大滝發電所問題切抜綴」と書かれてある。

 このつづりをしばらく手元に置くことにした。いわき総合図書館が電子化していない旬刊紙「磐城評論」の現物が含まれていること、水力発電所が政治・裁判問題になっていたこと、戦後、いわき民報を創刊した野沢武蔵氏が関係していること、などが理由だ。少し時間をかければ、市民講座で話すくらいの材料はそろうだろう。
 
 まずは本筋とは別の周辺の資料から、公開・解読していく。と同時に、調査・研究の呼びかけをネットですることにした。

2015年1月4日日曜日

氷の力

 きのう、1月3日。半月ぶりに夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごした。新年を迎えたので、長男一家と次男夫婦もやって来た。

 この時期、隠居で最初に確かめるのは水道管だ。11月末には台所の温水器の水抜きをし、洗面所の元栓を締めた。温水器は、行けば使う。帰るときに水を抜く。12月中旬にもそうした。

 濡れ縁に屋根の雨だれを受けるバケツとこね鉢がある。いずれも水がいっぱいで、表面から5センチほどが凍っていた。孫が父親に氷の円盤を取ってもらって遊んだ=写真。

 こね鉢にはひびが入っていた。孫がさわると、ポロリとはがれた。水は凍ると膨張する。焼き物に詳しいカミサンの話では、氷の力に焼きの甘い陶器は耐えられない。前にも同じように浅鉢が割れた。

「西高東低」の気圧配置になると、いわきでは晴れて風が強くなる。落ち葉が舞いあがり、水平に飛んで行く。地面はカチンカチンに凍結している。辛み大根の収穫をあきらめ、堆肥枠に穴を掘って生ごみを埋めた。それでも溪谷の奥、標高の高い川前町や三和町よりはましだ。籠場の滝のしぶき氷はまだ薄く、小さい。

 ささやかな昼食会を終え、それぞれの家族が帰ったあと、戸締まりをして隠居を離れた。車で10分ほど行ったところで、突然、カミサンがつぶやいた。「温水器の水を抜いてなかった」「一発でやられる!」。すぐ後続車と対向車をやり過ごしてUターンした。

「ま、いいか」なんてそのまま家に帰ると、まちがいなく温水器から水が噴きだす。洗面所と合わせて隠居ではもう5、6回、水道管の凍結破損事故が起きている。私の“水抜き忘れ”が原因だ。カミサンが途中で思い出さなかったら、7回目の凍結破損事故が起きていた。

2015年1月3日土曜日

まだまだ知らない

 きのう(1月2日)はカミサンの実家で年始客の応対をした。といっても、義父の親類が何人か来るだけだ。今年は喪中だったり、年末に葬式ができたりして、やって来たのは義父の甥の子に当たる人だけだった。

 3・11のときには現役の救急隊員だった。休日で趣味の沖釣りを終え、陸に上がったところで大地震に遭遇した。すぐ近くの分遣所へ駆けつけ、同僚と沿岸住民の避難広報に走り回った。
 
 1年後の春分の日、カミサンの実家へ線香をあげに来た。そのとき初めて、大津波の前と後のハマの様子を聞いた。港で避難を呼びかけていたら、大津波にさらわれていただろう、という。

 いわきでは特に、塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯地区で被害が大きかった=写真(豊間・2011年7月24日撮影)。その北、「白砂青松」の新舞子は、防潮林が津波のエネルギーを減衰したからかもしれないが、大きい被害は免れた。

「海釣りをするからわかるが」と元救急隊員氏は言った。「磯が被害を大きくした」。豊間と薄磯にはそれがあるが、新舞子にはない。「津波は海底を伝ってやって来る。陸の近くに磯があれば一気に波が盛り上がる」。(そういえば、「舌状浅瀬」という言葉があったな)

 3・11から4カ月後、NHK「ニュースウオッチ9」で、豊間地区の津波の特徴を調べた静岡大客員教授大和田清隆さん(いわき出身)の見解をもとに、いわき駐在の記者がレポートした。内容は、豊間の特殊な海底地形が被害を大きくした、東北大災害制御研究センターの解析によって「舌状に張り出した浅瀬で津波が集まり、大きくなった」ことが裏付けられた、というものだった。

 それぞれの専門家には既知のことが一般の人間には伝わらない。住んでいる地域の歴史はもちろん、自然の特質についてもまだまだ知らない。「集合知」を市民に還元する役割を担うのは地元メディア。防災面から地域を知る連載企画を組めないものか――などと話を聞きながら思ったが、現役ではなかった。

2015年1月2日金曜日

「させていただきます」

 V6が伍代夏子さんの「ひとり酒」でバックダンサーをつとめた=写真。歌が始まる前の白組司会・嵐とのかけあいのなかで、三宅健クンが「伍代さんの後ろで踊らせていただき……」というつもりが、「踊らされて……」とやってしまった。思わず爆笑した。すぐ後ろのイノッチ(井ノ原快彦)が頭をペタンとやったのが、またほほえましかった。

 NHK紅白歌合戦で最も印象に残ったシーンだ。変な敬語、「させていただきます症候群」の実例として記憶されるだろう。
 
 大みそかに広島の甥と娘(短大1年生)が遊びに来た。いわきの疑似孫(中3女子)と母親も来た。娘たちは19歳と15歳。初対面ながらアニメの話で盛り上がり、さっそくフェイスブックの友達になった。
 
 2人の話が半分以上わからなかった。「カン〇〇」(半分忘れた)「〇〇〇〇」(忘れた)といった<4音短縮語>や、「超――」「めっちゃ――」「やばい」が飛び交う。19歳は兵庫県の短大で声優コースに籍を置いている。15歳は小説や宮沢賢治の童話を読んでいる。言葉にはそれなりに敏感な方だろう。
 
「なまってないね」。19歳が15歳を評したのを機に、割って入った。仲間内で通じる言葉も、ジイ・バア、オジ・オバその他、さまざまな世代がまじりあった“社会”では通じないことがある。言葉の遣い方を切り替えられるようにするといいねと、これは老爺心。

「言葉は人だからね」。小さいときから疑似孫に礼儀・作法のようなことを言い聞かせているカミサンが付け加えた。例に挙げたのが「させていただきます」。「~させていただきます」は「~いたします」で十分、過剰な敬語だということを自覚して、という老婆心だった。それから数時間後の実例だ。

 敬語講師山岸弘子さんによれば、聞き手に違和感を与える「させていただきます症候群」には5つのタイプがある。<「さ」はいらない>型もその1つ。

「踊る」の場合――五段活用の動詞は「せていただきます」に接続するから、敬語を遣うなら「踊らせていただきます」だが、「させていただきます症候群」にかかっていると、「踊ら『さ』せていただきます」と過剰になる。「さ」は要らない。三宅クンはそのへんがごっちゃになって言い間違った。「踊らされている」ことも確かだが。

2015年1月1日木曜日

戦後70年

 きょうは2015(平成27)年の元日。「戦後70年」の始まりだ。「原発震災紀元5年」でもある。床の間の飾りが正月用に一新された=写真。すがすがしい。

 左の小箪笥(こだんす)の上に古い厨子(ずし)がある。高さはおよそ50センチ。中に木製の仏像が入っている。昔、カミサンがどこからか手に入れた。観音開きにした厨子の前には香炉やお鈴(りん)、さかずき、写真など。模擬仏壇だ。

 暮れの12月30日に大掃除をした。現役のころは出勤日だったので、掃除と正月様の飾り付けはカミサンにまかせっきりだった。今もそれは変わらない。朝のうちに回覧物を配布して戻ると、模擬仏壇の掃除を頼まれた。残るところ2日しかないという年の瀬になって、珍しくやる気になった。夕方には白菜を漬けた。「年寄り半日仕事」でいうと、3日分くらいの仕事をした勘定だ。

 仏像は約40センチ。精巧なミニチュアといった感じだろうか。厨子も仏像も軽くはたきをかけ、モップと布でふいた。香炉の灰も、線香の燃えかすを取り除いてきれいにした。

 仏像の奥に父親の戒名を記した紙や、幕末の俳僧一具庵一具の写真(本の口絵にあった肖像画を接写)があった。すっかり忘れていた。
 
 厨子のわきに硫黄島の海岸の黒い砂が入った小瓶がある。父親がその島で戦死したいわき地域学會の先輩が慰霊の旅に加わり、遺骨代わりに持ち帰った。同じように母の兄もその島で亡くなった。遺骨代わりに分けてもらい、田村市の実家と伯父の家の仏壇に供えた。二十数年も前のことだったか。

「戦後70年」は「玉砕70年」「空襲70年」「原爆70年」でもある。あるいはそれぞれの兵士の死から71年、72年、73年……でもある。年の初めに硫黄島の黒い砂を見つめ、孫の未来の時間を重ねて思うのは、「戦後」がこのままずっと続くように、ということだ。