2020年9月7日月曜日

古漬けで塩分補給

                    
 水分と塩分の補給を――。熱中症を予防するためのドクターのアドバイスに従って、8月後半から昼は意識して水分を補給するようにした。糠漬けのキュウリも、半日の浅漬けだけでなく、2~3日入れっぱなしの古漬けを食卓に出すようにした。買って食べる梅干しと違って、糠漬けは自分でできる“塩分補給材”だ。

 長い梅雨が明けると、酷暑が続いた。9月に入っても暑さが残っている。カミサンは浅漬けを――というが、体がまだキュウリの古漬けを求めている。

 古漬けはできるだけ薄く切る。以前はさっと水につけて塩分を抜いたものだが、今年(2020年)はそれをしない。しょっぱいまま、ご飯のおかずにする=写真。晩酌の時間になれば、焼酎をチェイサーする水にも古漬けのキュウリを入れる。梅干しが切れたときの代用だったが、今は最初からそうする。今度は梅干しとキュウリの古漬けを一緒に入れてみようか。

 キュウリは、家庭菜園では人気の野菜の一つだろう。お福分けが今年の夏もたくさん届いた。冬に食べるための古漬けは、糠床とは別に、ホーローのキッチンポットに塩を振って、キュウリを井形に組んで寝かせている。

 さすがに9月に入ると、お福分けからキュウリが消えた。わが家でも、台所の軒下のキュウリは早々と枯れた。梅雨にうどんこ病になったせいもあるのか、その後の生長が思わしくなかった。生(な)った実も数えるほどだった。

 夏井川渓谷の隠居の庭に植えた3本はそれなりに実を付けた。これも、きのう(9月6日)見ると、あらかた葉が枯れていた。

 キッチンポットのキュウリに重しを載せていたら、しみ出た水分の表面に白い膜が張った。一度これを煮沸したが、また膜を張っている。そろそろ飴(あめ)色に変わった古漬けを冷蔵庫にしまう時期がきたようだ。その数、ざっと30本。いや、それ以上はあるかもしれない。一冬、白菜漬けのほかに、口直しで食卓に出すには十分な量だ。

 唐突だが、台風10号の動きを伝えるテレビを見ながら思った。気温が高い以上は海水温も高い。海水温が高いから、今、九州地方を通過している台風が「大型で非常に強い勢力」を保ったままなのだろう。

 異常な暑さが続き、膨大なエネルギーを持った台風が南の海上から北上して来る。「日本大変」どころか「地球大変」の時代に入ったのだろうか。

だとすると、家庭菜園でさえ常に異常気象を念頭において、いつ、何を植えるか、播(ま)くか、を考えないといけなくなった?

 ほんとうならとっくに白菜や大根の種まきを終えていないといけない。三春ネギも一度掘り起こして斜めに植えなおす「やとい」という作業をしなければならない。しかし、今年はやめた。酷暑に体が付いていけなかった。キュウリの古漬けをそのまま口にするのも、知識としてではなく、動物としての本能のようなものか。

2020年9月6日日曜日

八茎巡検⑥ジャコウアゲハほか

                     
 野鳥のアオバト、変形菌のムラサキホコリの仲間、毒蝶(ちょう)のジャコウアゲハ(雌)――。八茎巡検で初めて出合ったいきものたちだ。

 千軒平溜池(ためいけ)を眼下にしながら、標高360メートルほどの林道を歩いていると、国有林の向こうから「ウワオー、ウワオー」という金属的な声が届いた。

 林道を「福岡」ナンバーの乗用車が通り過ぎたばかりだ。その車が事故でも起こしたか? 最初はそう思ったが、車のエンジン音ではない。人間の声でもない。とっさに思い浮かんだのがアオバトだった。

日本野鳥の会いわき支部(川俣浩文支部長)が5年前、支部創立50周年を記念して『いわき鳥類目録2015』を発刊した。いわき市内で撮影された鳥類246種と外来種6種が収録されている。それによると、アオバトはいわきでは留鳥だ。

私は鳴き声を聞いたことも、姿を見たこともない。が、夏井川渓谷(小川・椚平)に住む友人の話だと、椚平には生息している。予習を兼ねて、ネットの動画で鳴き声だけは聞いていた。それで、「ウワオー、ウワオー」の正体が推測できた。

 千軒平溜池から椚平までは、二ツ箭山をはさんでほぼ真西に7キロほどしかない。アオバトが八茎山中を徘徊(はいかい)していても(定留していても)不思議ではない。

 ちょうどそれと前後して、林道のへりの倒木を見たら、朽ちた表面に変形菌らしいものがある。ちゃんと写真を撮っておけばよかった――と、これはあとで悔やんだのだが、触れるとふわふわしていた。

 撮影データをパソコンに取り込んで拡大すると、針金、いや素麺(そうめん)、いや人の髪の毛のようなものが束になってウエーブしながら倒れている=写真上1。

もしかして変形菌(粘菌)のムラサキホコリの仲間? 色が紫ではなく、黒っぽいのは、立っているのではなく倒れているのは、老菌だから? ムラサキホコリの仲間だとしたら、写真集にあるような姿と初めて遭遇したことになる。

 最後は八茎嶽薬師の帰り、平地の仁井田川と県道小野四倉線沿いにある古刹(こさつ)・薬王寺の板碑などを眺めていたときだった。参道沿いの草むらにアゲハチョウの仲間が止まっていた=写真上2。キアゲハにしては開いた翅(はね)の色が薄い。銀色がかっている。白い紋様も独特だ。

 これも撮影データをパソコンに取り込み、ネットで検索したらわかった。ジャコウアゲハの雌だった。ジャコウアゲハは毒蝶だそうだ。幼虫は毒草のウマノスズクサを食べる。その毒が成虫になっても体内に残っている。ジャコウアゲハを食べたいきものは、二度とジャコウアゲハを襲わなくなるのだとか。

 野鳥から始まり、野草・菌類へと興味・関心が広がり、いわきの自然を“丸かじり”しなくては――と思い定めてもう40年になる。気が向いたときだけ歩き回ってきた人間なので、行きあたりばったりの出合いが一番の学習チャンスだ。今回もセンス・オブ・ワンダーにひたった。

 とはいえ、千軒平溜池、逢瀬の滝と、車から出たとたん、いきものの血(体液)に飢えたアブがわんさと押しかけてきたのには閉口した。その対策=虫よけも必要だったが、さいわい痛い目には遭わないですんだ。                                   (この項おわり)

2020年9月5日土曜日

八茎巡検⑤玉山専用鉄道

        
 拙ブログで何度か取り上げている福島県広域農道は、起点が県道八茎四倉線と接続する四倉町玉山字炭釜地内だ。終点は、玉山~八茎~二ツ箭山腹を縫って県道小野四倉線に接続する小川町高崎地内で、加路川(小川)に架かる橋と、JR磐越東線、並行する県道小野四倉線をまたぐ立体橋の建設工事が進められている。

 去年(2019年)秋以来、二ツ箭山以東の広域農道をときどき利用する。日曜日、夏井川渓谷の隠居から草野の魚屋へ直行するのに、街を通るよりは広域農道を利用した方が早い。で、起点部の炭釜地内はすっかりなじみになった。阿武隈高地の東端部、海までほんの少しの平地と接するところ、でもある。

そこが八茎銅山、あるいはその後の日鉄鉱業にとっても重要な位置を占めていたことは、おいおいとわかる。専用鉄道の始発駅や新八茎鉱山玉山社宅などがあったこと、仁井田川沿いの「表玉山」に対して、支流・袖玉山川沿いのそこは、川の名と同様、「袖玉山」と呼ばれていることも、最近知った。

 鉱山から空中ケーブル(架空索道)で運ばれてきた銅鉱石や石灰石は、袖玉山の玉山駅から専用鉄道で四ツ倉駅へ、駅のそばの磐城セメント(のちの住友セメント=住友大阪セメント)四倉工場へ輸送される。

 ここはネットで拾った住友大阪セメント株式会社の資料に従って説明する。セメント工場側の視点で書かれている。

 明治40(1907)年、四ツ倉―玉山鉱泉間に軽便鉄道が敷かれる(当時は馬車鉄道だった)。翌41年には磐城セメント四倉工場が建設され、同43年、鉱山と玉山鉱泉を結ぶ索道(空中ケーブル)が完成する。大正2(1913)年、軽便鉄道の動力源が蒸気機関車に切り替えられる。

同14年に休山すると、磐城採石が事業を継承し、昭和16(1941)年、鉱山の経営権はいったん磐城セメントに移る。

 そして、戦後――。日鉄鉱業が進出し、昭和33(1958)年に同セメントと合同で軌道を拡幅し、「玉山鉄道」として再開業した。高度経済成長期、鉱山は最盛期を迎える。しかし、その後は事業を縮小し、昭和57(1982)年、鉄道が廃止される。住友セメント四倉工場も同61年閉鎖される。

 以上の歴史を踏まえながら、八茎巡検の最後に玉山専用鉄道跡を見た。広域農道の起点部にあった玉山駅から順に、セメント工場跡地と四ツ倉駅裏を目指す。

 専用鉄道に関する断片的な知識は、本やネットから得ていた。山麓線(県道いわき浪江線)の仁井田川近くにカフェがある。その前の道路に踏切があった。線路跡地は四倉側に向かって自転車専用道路になっている=写真上1。さらにその先、四倉・戸田地内には、玉山専用鉄道を代表する写真の一つとしておなじみの木造建造物「戸田青年會館」がある。そこを訪ねた=写真上2。線路は道路に変わっていた。

 最後に見たのは工場跡の一角に残っている機関車(鉱石搬出用に鉱山内で使用されていたものだそうだ)。その近くに魚屋がある。店を訪ねたことがある。カミサンの知人の家だ。ここで初めて、工場跡(復興公営住宅などになっている)と金網のなかの機関車が、生きている人々の暮らしとつながった。いやそれ以上に、わずかちょっと前まであった近代遺産でも、もう記録されたものにしか残っていないことに複雑な思いを抱いた。

2020年9月4日金曜日

八茎巡検④八茎嶽薬師

                     
  平地の玉山から奥山の八茎へと県道八茎四倉線を駆け上がり、さらに山陰(やまかげ)の仁井田川に沿って林道を上ったり下りたりしながら、千軒平溜池(ためいけ)、日鉄鉱業関係の施設跡、逢瀬(おうせ)の滝などを見た。

 略図では、逢瀬の滝のそばの道を利用してさらに南へ進めば、八茎字片倉地内の八茎寺(はっけいじ)とその境内にある八茎(やぐき)嶽薬師にたどり着くはずだ。近くには不動滝もある。

しかし、地図はいかに精巧にできていても平面(2次元)にすぎない。現実は立体(3次元)だ。道のデコボコ具合、崖や谷川の様子などは、地図からはうかがい知れない。

案内人のM君は逢瀬の滝から先は大変な悪路だという。足元の悪さはそれまでに十分体験している。彼の判断に従って逢瀬の滝から引き返し、ふもとの袖玉山にできた福島県広域農道を利用して、同薬師を訪ねた。この道路のおかげで同薬師までは簡単に行けるようになった。

閑話休題――。施設跡や名勝を確認するために、事前・事後ともネットの地理院地図やグーグルアース・同マップ・ストリートビューをたびたび参考にした。広域農道については、グーグルはまだ仁井田川に架かる大橋が建設中の段階にとどまっている。

それともう一つ。八茎寺の読みだが、私が記憶しているのは「はっけいじ」。しかし、ある資料では「はっきゅうじ」、ある本では「やぐきじ」となっている。いちおうここでは、自分の記憶に従って「はっけいじ」としておく。

さらにもう一つ。広域農道は玉山字炭釜地内の県道八茎四倉線が起点だ。そばにコンクリート資材置き場がある。その一帯に「新八茎鉱山玉山社宅」があった。すそ野の表玉山~柳生地区に点在する家々の裏山を西北へ進み、標高200メートルほどの上岡トンネルを過ぎると、二ツ箭山に入る。そのまま西進して国道399号を横切った先、小川・福岡の山中で農道はブツリと切れる。

これを終点・県道小野四倉線の高崎までつなぐ工事が行われている。全体の距離は10キロ弱。

さて――。日曜日はほとんど夏井川渓谷の隠居で過ごす。四倉側の広域農道が完成してからは、たまに同農道を利用する。しかし、これまでわき道にそれたことは一度しかない。八茎嶽薬師への道は知らなかった。

同薬師は一度、いわき地域学會の巡検で訪ねた記憶がある。閼伽井嶽薬師・波立(はったち)薬師とともに、八茎嶽薬師は「いわきの三大薬師」といわれている。いずれも徳一が建立したとされる。境内の右に八茎寺があり、左の石段を上った先に金剛門があって、奥に薬師堂が鎮座する=写真上1。

金剛門の左右には金剛力士像が立っている。この顔の表情、体つきを見て、いっぺんに好きになった。子どもが落書きしたような顔立ちだ=写真上2。

ここで一息ついたあと、山陰にある不動滝へ――。山道を歩き始めて、再び林道へ出たところで、私はギブアップした。さらに歩くのだという。エアコンの効いた車でM君ら3人の帰りを待ったが、ほどなく彼らも途中から引き返して来た。山道を上って下りないと滝にはたどり着けない。それまでの行程で体力を使い果たしたようだった。

里からはすぐの距離だが、とにかく谷が深い。容易に人を寄せつけない。八茎はそれだけミステリアスな要素をたたえたエリアのように思えた。

2020年9月3日木曜日

八茎巡検③銅山神社と分校跡

                             
   学校の後輩が小学校2年まで通っていたという大野一小八茎分校はどこにあったのか――。今度の巡検では、千軒平溜池(ためいけ)のほかに、分校跡をぜひこの目で見たいと思った。

「へ」の字形の同溜池を目に焼きつけたあと、二ツ箭山から発して仁井田川に合流する支流の名勝・逢瀬(おうせ)の滝を訪ねた。二つを結ぶ林道でたぶん一番の谷底(標高310メートル前後)に、鉱山関係の施設が散在している。跡地はあらかた杉林に替わっていた。結局、分校跡は分からなかった。

谷底の小高い丘の上に銅山神社が鎮座していた。今は本殿も鳥居も手すりも撤去されて、参道の石段しか残っていない=写真上1。あとで、案内人のM君から神社の丘や建物群が写っている“空撮写真”を見せられた。それで分校の位置がわかった。神社を「扇のかなめ」にして、事務所や社宅などが軒を接している。分校はその北端、上流の橋のたもと近くにあった。

八茎はまず銅山として栄えた。鉱石のほかに、ズリとして石灰石が大量に出てきた。これを生かすため、四ツ倉駅そばに磐城セメントの工場ができた。銅山は明治から大正にかけてピークを迎え、いったん閉山する。そのあと、日鉄鉱業が進出して銅やタングステン、石灰石などを産出する。

日鉄以前の繁栄ぶりは「千軒平」に象徴される。さらには、経営陣の一人が横浜出身だったからかどうか、銅山神社へ至る林道沿いに社宅があって、「桜木町」と名付けられた。そこから下流にある分校まではほんのちょっとだ。桜木町も今は杉林に替わり、道沿いにある地蔵尊だけが当時の面影をとどめる。

そうしたエリアとかさなるように、日鉄の鉱山施設や社宅も形成されたのだろう。

 今回もいわき民報を参考にする。昭和38(1963)年4月1日、同分校の閉校式が行われた。翌2日付の記事。「私立八茎小学校当時の校舎は面影なく、現在は四十六平方メートルの一教室だけの建物があるだけ」。在校児童はわずか11人だった。

分校で学んだという来賓の四倉町議会副議長が「在校中桜木町の大火、駒泣かせ峠の山火事など思い出が多く、発展的閉校とは言え、感慨無量」とあいさつした。分校の閉鎖によって、児童たちは新学期から「日鉄と常磐交通のバスで本校の大野第一小学校の五百余人の仲間入りをする」ことになった。

    この記事を参考に、しが・ちかしさん(四倉)が平成18(2006)年7月22日付の同紙「昔のいわき 今のいわき」に書いている。同分校は「私立小学校として明治41年発足。木田村長時代の大正15年、大野第一小学校八茎分校となり、一時児童は200人を超した」=写真上2。

後輩は確か、私より3つ年下のはずだ。八茎鉱山の社宅で育ち、小2まで八茎分校に通った。その後はふもとの袖玉山に移り、大野一小に通学したというから、分校閉鎖の前、昭和30年代半ばのことだろう。趣味の渓流釣りは、分校そばを流れる仁井田川での水遊びが原点か。

2020年9月2日水曜日

八茎巡検②逢瀬の滝

                    
  今度の八茎巡検では、M君から事前にもらった資料と略図に、あとから仁井田川の水系を重ねて、メモを整理した。見知らぬ土地を歩いたときには、いつも川を軸にして考える。平地の仁井田川の流れは頭に入っている。木でいうと、梢(こずえ)=源流部はどんな枝=支流で構成されているのか、それを知るチャンスにもなった。

広葉樹の生い茂る天然林に杉の人工林が混交する森の中では、全く方位がつかめない。略図を見ながら、自分が今、八茎山中のどこにいて、何を見ているのかを確かめる。

略図は、8年前の「四倉地区行政嘱託員(区長)協議会探索参考資料」のコピーだ。千軒平溜池や名勝「逢瀬(おうせ)の滝」、八茎鉱山関係施設跡などの位置が、林道とともに記されている。

あとでこれらのスポットの標高を、ネットの地理院地図で確かめた。実際に体験した林道のアップダウンがどのようなものだったかが、標高を知ることで客観化できた。北の千軒平溜池で360メートルほど。それから林道を南に下って銅山神社跡や分校跡周辺が310メートル前後。そのあたりを底に林道を上って、「逢瀬の滝」を見た=写真上1。ここで標高は410メートル前後だ。

梅雨が明けると、雨のない日が続いた。その影響だろう、滝の水は思ったより少なかった。

逢瀬の滝には男滝(おだき)と女滝(めだき)がある。事前に読んだ本多徳次『いわき北部史 四倉の歴史と伝説』(昭和61=1986年刊)、いわき民報の平成9(1997)年7月31日付「カメラアイ」=写真上2=には、一つの滝の上半分が女滝、下半分が男滝――といった表現になっている。どうも合点がいかない。

案内人のM君にあとで確かめたら、今回見たのは女滝だった。男滝はすぐ上にある。つまり、滝が二段になって続いている。それで納得した。男滝は男滝で独立してあり、女滝もその下でやはり独立して存在する。一つの滝の上部が女滝で下部が男滝、というのは間違いだった。

「カメラアイ」では、「逢瀬の滝は仁井田川の源流部にある」と表現している。これも気になる。仁井田川の源流部は、きのう(9月1日)も書いたが、千軒平溜池の上流、三森山と猫鳴山だろう。

逢瀬の滝の流れは、千軒平溜池の下流1キロ余のところで仁井田川に合流する。二ツ箭山が水源だ。強いていうなら、「仁井田川支流の源流部にある滝」、あるいは仮に名付けて「“二ツ箭川”の源流部の滝」と表現した方が正確ではないか。

以上は実際に女滝を見たからこそわいてきた疑問だが、なかでもネットの動画でリポーターが「あいせの滝」「あいせの滝」と言っているのには閉口した。「逢瀬」は1文字ずつ分解すれば「あい」「せ」だが、二文字をつないでこそ意味がある。「おうせ(逢瀬)」。「あいせ」ではゆかしい意味がどこかへ吹っ飛んでしまう。「おうせ(逢瀬)の滝」だからこそ、恋にまつわる伝説も生きてくる。

2020年9月1日火曜日

八茎巡検①千軒平溜池

                    
 いわき市四倉町の田園地帯を流れる仁井田川の源流部に「八茎銅山」があった。最盛期の明治30年代~大正中期には、3600人とも4000人ともいわれる人が住んでいたという。

 いわき民報の「昔のいわき 今のいわき」第40話(平成16年11月13日付)で、四倉のしが・ちかしさんがこの奥山の別世界について書いている。「世界的な景気の変動や二度にわたる大火が昭和初期頃以来、この地からこの人々の暮らしを音もなく消し去っ」た。

戦後、この別世界は同川下流域の水田を潤す溜池(ためいけ)に変わる。繁栄のあかしは「千軒平」という呼称に残る。

 千軒平とは別に、日鉄鉱業八茎鉱山関係の施設跡も、溜池南方の山中に散らばっている。こちらは千軒平よりは新しい。

 四倉の歴史と地理に精通しているM君に誘われて、おととい(8月30日)の日曜日、八茎地区を巡検した。旧知の2人(1人は郡山市から)も加わった。前日までの酷暑とは打って変わり、曇りというなによりの天気。歩いてもうっすら汗ばむ程度ですんだ。

車は4輪駆動の軽。M君が昵懇(じっこん)にしている神社から借りた。予定のコースを巡るには、普通車では難しい。平地の仁井田川に沿う県道小野四倉線から同八茎四倉線に入り、山中へと駆け上がって林道に接続すると、4駆が威力を発揮した。

 林道は未舗装だ。標高300~400メートルの間を、アップダウンを繰り返しながら進む。土砂が雨に洗われて石だらけの川底のような急坂がある。雨で縦に、斜めにえぐられ、段差のできた個所もあちこちにある。道路としては最悪の部類に入るのではないか。

 平地の県道小野四倉線からだと12キロ前後のコースなのに、とにかく険しい。谷が深い。対向車があったら、どちらかが待避スペース(それを想定してつくったスペースはない)まで戻らないといけない。

この“足元”の悪さが、たとえ産業遺産として、あるいは自然景観としてすぐれていたにしても、観光地化を阻む。ケータイもつながらないという。なにかあったら緊急対応が難しい。

 まずは、木の間越しに千軒平溜池を見た=写真上1。溜池の水は底が見えるほどに少なかった。が、細く長く「へ」の字になっている。仁井田川を軸にして大集落が形成されていたことがわかる。溜池の上流に同川の源流がある。東が三森山(656メートル)、西が猫鳴山(820メートル)。溜池から1キロちょっと下流では、西の二ツ箭山(710メートル)からの流れが加わる。

冒頭のしがさんの文章に戻る。千軒平には「小学校、郵便局、映画館はもちろん、市場や火葬場まであり芝居小屋も建」った。新聞にはその繁栄ぶりを物語る集落の写真が載る=写真上2。

 千軒平溜池が完成したのは昭和34(1959)年10月。同年10月17日付のいわき民報によると、昭和23(1948)年、流域の農家が組合を結成し、県営大規模灌漑(かんがい)排水事業として着工、12年の歳月をかけて、高さ25メートル、長さ115メートルの堰堤(えんてい)ができた。要は旱魃(かんばつ)期にも、安定して仁井田川の水が流れるようにしたわけだ。

施工したのは堀江工業で、同社の社長は記事のなかで、堰堤について「土は水が漏らない特殊の粘土性のものでなければならぬので遠く高倉山系の山から土を鉄索で運んだ。最も苦心したのは余水吐のトンネルで工事中何度も崩壊し悩まされた」と述べている。

記事にはこんな“おひれ”もある。「千軒平溜池は海抜六百メートルの三森山の麓にあり、隣接して日鉄八茎鉱業山を含めて絶好の観光地となった。千軒平溜池土地改良区ではここに淡水魚を養魚しボートを浮かべて観光客を慰める計画をすすめている」

八茎を知らない人間はこのくだりを鵜呑(うの)みにするかもしれない。が、現地までの道のりと足元の悪さを確かめた今は、当時でさえ夢物語だったにちがいないと想像できる。初めて千軒平溜池を見て、農民の、行政の、施工業者の執念が、この山奥の難工事を成し遂げた――ただその一点に感服した。