2020年9月3日木曜日

八茎巡検③銅山神社と分校跡

                             
   学校の後輩が小学校2年まで通っていたという大野一小八茎分校はどこにあったのか――。今度の巡検では、千軒平溜池(ためいけ)のほかに、分校跡をぜひこの目で見たいと思った。

「へ」の字形の同溜池を目に焼きつけたあと、二ツ箭山から発して仁井田川に合流する支流の名勝・逢瀬(おうせ)の滝を訪ねた。二つを結ぶ林道でたぶん一番の谷底(標高310メートル前後)に、鉱山関係の施設が散在している。跡地はあらかた杉林に替わっていた。結局、分校跡は分からなかった。

谷底の小高い丘の上に銅山神社が鎮座していた。今は本殿も鳥居も手すりも撤去されて、参道の石段しか残っていない=写真上1。あとで、案内人のM君から神社の丘や建物群が写っている“空撮写真”を見せられた。それで分校の位置がわかった。神社を「扇のかなめ」にして、事務所や社宅などが軒を接している。分校はその北端、上流の橋のたもと近くにあった。

八茎はまず銅山として栄えた。鉱石のほかに、ズリとして石灰石が大量に出てきた。これを生かすため、四ツ倉駅そばに磐城セメントの工場ができた。銅山は明治から大正にかけてピークを迎え、いったん閉山する。そのあと、日鉄鉱業が進出して銅やタングステン、石灰石などを産出する。

日鉄以前の繁栄ぶりは「千軒平」に象徴される。さらには、経営陣の一人が横浜出身だったからかどうか、銅山神社へ至る林道沿いに社宅があって、「桜木町」と名付けられた。そこから下流にある分校まではほんのちょっとだ。桜木町も今は杉林に替わり、道沿いにある地蔵尊だけが当時の面影をとどめる。

そうしたエリアとかさなるように、日鉄の鉱山施設や社宅も形成されたのだろう。

 今回もいわき民報を参考にする。昭和38(1963)年4月1日、同分校の閉校式が行われた。翌2日付の記事。「私立八茎小学校当時の校舎は面影なく、現在は四十六平方メートルの一教室だけの建物があるだけ」。在校児童はわずか11人だった。

分校で学んだという来賓の四倉町議会副議長が「在校中桜木町の大火、駒泣かせ峠の山火事など思い出が多く、発展的閉校とは言え、感慨無量」とあいさつした。分校の閉鎖によって、児童たちは新学期から「日鉄と常磐交通のバスで本校の大野第一小学校の五百余人の仲間入りをする」ことになった。

    この記事を参考に、しが・ちかしさん(四倉)が平成18(2006)年7月22日付の同紙「昔のいわき 今のいわき」に書いている。同分校は「私立小学校として明治41年発足。木田村長時代の大正15年、大野第一小学校八茎分校となり、一時児童は200人を超した」=写真上2。

後輩は確か、私より3つ年下のはずだ。八茎鉱山の社宅で育ち、小2まで八茎分校に通った。その後はふもとの袖玉山に移り、大野一小に通学したというから、分校閉鎖の前、昭和30年代半ばのことだろう。趣味の渓流釣りは、分校そばを流れる仁井田川での水遊びが原点か。

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