拙ブログで何度か取り上げている福島県広域農道は、起点が県道八茎四倉線と接続する四倉町玉山字炭釜地内だ。終点は、玉山~八茎~二ツ箭山腹を縫って県道小野四倉線に接続する小川町高崎地内で、加路川(小川)に架かる橋と、JR磐越東線、並行する県道小野四倉線をまたぐ立体橋の建設工事が進められている。
去年(2019年)秋以来、二ツ箭山以東の広域農道をときどき利用する。日曜日、夏井川渓谷の隠居から草野の魚屋へ直行するのに、街を通るよりは広域農道を利用した方が早い。で、起点部の炭釜地内はすっかりなじみになった。阿武隈高地の東端部、海までほんの少しの平地と接するところ、でもある。
そこが八茎銅山、あるいはその後の日鉄鉱業にとっても重要な位置を占めていたことは、おいおいとわかる。専用鉄道の始発駅や新八茎鉱山玉山社宅などがあったこと、仁井田川沿いの「表玉山」に対して、支流・袖玉山川沿いのそこは、川の名と同様、「袖玉山」と呼ばれていることも、最近知った。
鉱山から空中ケーブル(架空索道)で運ばれてきた銅鉱石や石灰石は、袖玉山の玉山駅から専用鉄道で四ツ倉駅へ、駅のそばの磐城セメント(のちの住友セメント=住友大阪セメント)四倉工場へ輸送される。
ここはネットで拾った住友大阪セメント株式会社の資料に従って説明する。セメント工場側の視点で書かれている。
明治40(1907)年、四ツ倉―玉山鉱泉間に軽便鉄道が敷かれる(当時は馬車鉄道だった)。翌41年には磐城セメント四倉工場が建設され、同43年、鉱山と玉山鉱泉を結ぶ索道(空中ケーブル)が完成する。大正2(1913)年、軽便鉄道の動力源が蒸気機関車に切り替えられる。
同14年に休山すると、磐城採石が事業を継承し、昭和16(1941)年、鉱山の経営権はいったん磐城セメントに移る。
そして、戦後――。日鉄鉱業が進出し、昭和33(1958)年に同セメントと合同で軌道を拡幅し、「玉山鉄道」として再開業した。高度経済成長期、鉱山は最盛期を迎える。しかし、その後は事業を縮小し、昭和57(1982)年、鉄道が廃止される。住友セメント四倉工場も同61年閉鎖される。
以上の歴史を踏まえながら、八茎巡検の最後に玉山専用鉄道跡を見た。広域農道の起点部にあった玉山駅から順に、セメント工場跡地と四ツ倉駅裏を目指す。
最後に見たのは工場跡の一角に残っている機関車(鉱石搬出用に鉱山内で使用されていたものだそうだ)。その近くに魚屋がある。店を訪ねたことがある。カミサンの知人の家だ。ここで初めて、工場跡(復興公営住宅などになっている)と金網のなかの機関車が、生きている人々の暮らしとつながった。いやそれ以上に、わずかちょっと前まであった近代遺産でも、もう記録されたものにしか残っていないことに複雑な思いを抱いた。
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