2020年9月1日火曜日

八茎巡検①千軒平溜池

                    
 いわき市四倉町の田園地帯を流れる仁井田川の源流部に「八茎銅山」があった。最盛期の明治30年代~大正中期には、3600人とも4000人ともいわれる人が住んでいたという。

 いわき民報の「昔のいわき 今のいわき」第40話(平成16年11月13日付)で、四倉のしが・ちかしさんがこの奥山の別世界について書いている。「世界的な景気の変動や二度にわたる大火が昭和初期頃以来、この地からこの人々の暮らしを音もなく消し去っ」た。

戦後、この別世界は同川下流域の水田を潤す溜池(ためいけ)に変わる。繁栄のあかしは「千軒平」という呼称に残る。

 千軒平とは別に、日鉄鉱業八茎鉱山関係の施設跡も、溜池南方の山中に散らばっている。こちらは千軒平よりは新しい。

 四倉の歴史と地理に精通しているM君に誘われて、おととい(8月30日)の日曜日、八茎地区を巡検した。旧知の2人(1人は郡山市から)も加わった。前日までの酷暑とは打って変わり、曇りというなによりの天気。歩いてもうっすら汗ばむ程度ですんだ。

車は4輪駆動の軽。M君が昵懇(じっこん)にしている神社から借りた。予定のコースを巡るには、普通車では難しい。平地の仁井田川に沿う県道小野四倉線から同八茎四倉線に入り、山中へと駆け上がって林道に接続すると、4駆が威力を発揮した。

 林道は未舗装だ。標高300~400メートルの間を、アップダウンを繰り返しながら進む。土砂が雨に洗われて石だらけの川底のような急坂がある。雨で縦に、斜めにえぐられ、段差のできた個所もあちこちにある。道路としては最悪の部類に入るのではないか。

 平地の県道小野四倉線からだと12キロ前後のコースなのに、とにかく険しい。谷が深い。対向車があったら、どちらかが待避スペース(それを想定してつくったスペースはない)まで戻らないといけない。

この“足元”の悪さが、たとえ産業遺産として、あるいは自然景観としてすぐれていたにしても、観光地化を阻む。ケータイもつながらないという。なにかあったら緊急対応が難しい。

 まずは、木の間越しに千軒平溜池を見た=写真上1。溜池の水は底が見えるほどに少なかった。が、細く長く「へ」の字になっている。仁井田川を軸にして大集落が形成されていたことがわかる。溜池の上流に同川の源流がある。東が三森山(656メートル)、西が猫鳴山(820メートル)。溜池から1キロちょっと下流では、西の二ツ箭山(710メートル)からの流れが加わる。

冒頭のしがさんの文章に戻る。千軒平には「小学校、郵便局、映画館はもちろん、市場や火葬場まであり芝居小屋も建」った。新聞にはその繁栄ぶりを物語る集落の写真が載る=写真上2。

 千軒平溜池が完成したのは昭和34(1959)年10月。同年10月17日付のいわき民報によると、昭和23(1948)年、流域の農家が組合を結成し、県営大規模灌漑(かんがい)排水事業として着工、12年の歳月をかけて、高さ25メートル、長さ115メートルの堰堤(えんてい)ができた。要は旱魃(かんばつ)期にも、安定して仁井田川の水が流れるようにしたわけだ。

施工したのは堀江工業で、同社の社長は記事のなかで、堰堤について「土は水が漏らない特殊の粘土性のものでなければならぬので遠く高倉山系の山から土を鉄索で運んだ。最も苦心したのは余水吐のトンネルで工事中何度も崩壊し悩まされた」と述べている。

記事にはこんな“おひれ”もある。「千軒平溜池は海抜六百メートルの三森山の麓にあり、隣接して日鉄八茎鉱業山を含めて絶好の観光地となった。千軒平溜池土地改良区ではここに淡水魚を養魚しボートを浮かべて観光客を慰める計画をすすめている」

八茎を知らない人間はこのくだりを鵜呑(うの)みにするかもしれない。が、現地までの道のりと足元の悪さを確かめた今は、当時でさえ夢物語だったにちがいないと想像できる。初めて千軒平溜池を見て、農民の、行政の、施工業者の執念が、この山奥の難工事を成し遂げた――ただその一点に感服した。

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