2020年11月7日土曜日

テレビを付けっぱなしに

        
 川内村で陶芸修業中の娘さんからフェイスブックを介して、コンサートの案内が届いた。今年(2020年)2月に亡くなった陶芸家の父親をしのぶ催しだという。11月23日にいわきのアリオスで開かれる。喜んで聴きに行くことにした。

娘さんは川内のモリアオガエルを題材に、「もりたろうTシャツ」をデザインした。胸にカエルのまなことローマ字で「川内村ってどこさあんだ」、くるっと回って背中を見せれば、川内村を緑色で表示した福島県の白地図とローマ字で「ここさあんだ」。DOKOSAANDA―KOKOSAANDA。このリズミカルな頭韻と脚韻、方言を逆手に取った図柄。若い人ならではのセンスと発想がおもしろい。

娘さんも母親(やはり陶芸家)もコンサートを聴きに来る。Tシャツと、父親がつくった額も販売するという。

 朝にそんなやりとりをしたところへ、今度は去年の台風19号で借家の1階が水没し、今は沿岸部の災害公営住宅に仮住まいをしている友人の娘さんが近況報告にやって来た。

父親が亡くなったあと、週末の夜だけ営業していたカレーの店を再開したこと、自分の娘が大学受験の時期を迎えたこと、街場に近い住宅団地の空き家を手に入れ、リノベーションをしてから入居する予定でいること、などなど――話は尽きなかった。気がついたら3時間、時計の針は正午を大きく回っていた。こんなに時がたつのを忘れて話をしたのは久しぶりだ。

浜通りの人間は東日本大震災と原発事故に打ちのめされ、去年は台風に襲われた。今年はコロナ禍が追い打ちをかける。わずか10年弱の間に大きな災禍を3回も経験する、なんてことがあっていいはずがない――と神様を恨みたくなるが、それでも人は働き、学び、暮らしていくしかない。

この日(11月4日)は朝からテレビのBS1を付けっぱなしにしていた=写真。アメリカの大統領選挙の開票状況を、向こうのテレビ局(ABC)と結んで、NHKが夕方まで生中継した。

ネットで調べものをしているときも、遅い昼食の時間にも、チラッ、チラッと画面に目をやって「選挙人」の数を確かめる。これではハワイ州のはるか西にある「ジャパン州」の人間ではないか――自虐的な思いにもなるが、今回の大統領選はなぜか気になってしかたがない。

 ときどき画面を見ていて感じたのは、これはこれでテレビ的にも4年に一度の一大イベント、あるいは一大エンタテインメントなのだ、ということだった。どっちに転んでも、それはそれで気持ちを高ぶらせる。大接戦となればなおさらだ――という話はひとまずおいといて、開票から3日がたつのにまだ勝敗が確定しない。

選挙人の数で負けている側は、郵便投票に関して訴訟を連発した。制度を、国民の意志を否定するのと同じではないか。(けさの新聞によると、証拠のない訴訟はさすがに却下されたようだ)

 そんなことが民主主義を標榜(ひょうぼう)する国で通用するはずがない、悪あがき、往生際が悪い――そう思う一方で、はたと気がついた。これはプロレスでいう「場外乱闘」ではないか。そういう思考の持ち主なのだろう。しかし、現実はプロレスの世界のように単純ではない。不誠実、その一言に尽きる。

向こうのテレビは日本時間のきのう、ホワイトハウスでの大統領の会見を途中で打ち切ったそうだ。理由は「虚偽」ないし「誤った主張」をそのまま流すわけにはいかない、ということのようだった。

 やけくその権力者に比べたら、庶民の生き方は洋の東西を越えて慎ましい。おおかたは思いやりがあって、考え深い。同じ日にフェイスブックでやりとりした娘さん、家に来た娘さんとの話を思い浮かべて、気持ちを切り替えた。

2020年11月6日金曜日

名前のわからない生きものたち

                      
 今は、ネットを使えば簡単に調べものができる。もちろん、なかなか「答え」にたどりつけなかったり、わからなかったりすることが多い。そのときは「保留」にしておく。別件で調べているうちに、偶然、ヒントを得たり、答えが見つかったりすることがある。

特に虫や花は変異が多くて、素人には同定が難しい。目的をもって虫や花を調べているわけではない。庭の花に虫が来た、山野を巡っていたら花が咲いていた――それはなんという虫で、なんという花?

「虫がいた」「花が咲いていた」では、コラムは成り立たない。個別・具体でモノ・コトに当たる。そうやって自然に接してきた結果、だんだん人間だけでなく、鳥獣虫魚も、植物も菌類も、同じいわきの風土に生きる“隣人”と思えるようになってきた。

だから、わからないものがあると(それが多いのだが)、とにかく調べる。撮影データがあれば細部を拡大してスケッチし、色や紋様の特徴をメモしておく。そうすれば、あとあと比較・検討する際の材料になる。そこから疑問がほぐれることがある。最近の例を三つほど――。

・8月23日=夏井川渓谷の上空を、気流に乗ってはばたかずに上流へ向かう大きな鳥がいた=写真下1。カラスよりは翼が大きい。シルエットのかたちからするとカモメ類だろうか、カワウだろうか。見当がつくのはそこまで。にしても、河口からざっと30キロは入った山あいだ。そのまま行けば阿武隈の分水嶺を過ぎる。そのあとどこへ行くのか。

・10月16日=平中神谷地内の夏井川にこの秋初めてコハクチョウが飛来した。望遠レンズを付けたカメラでカシャカシャやっていると、下流から上流へと水面すれすれに飛んでいく水鳥が視界に入った。そちらにすぐレンズを向けて撮影した=写真下2。ウミウかカワウか。データを拡大して、頭の黒さ、顔の白と黄色の具合からカワウと判断したが、普通のカメラではぼやけてわからなかったはずだ。

・10月27日=朝、庭で歯を磨きながらフヨウの花を眺めていたら、体長数ミリの虫が花の前でホバリングしていた=最初の写真。色からすると小さなミツバチ。でも、ニホンミツバチと比較しても、とても小さい。小さなハチがいるのか、ハナアブの仲間か、それとも全く異なる種か、今のところはわからない。「保留」にしている。

生きものの話のついでに、ヒトスジシマカ(ヤブカ)のことも――。最初に蚊に刺された日(おおよそ5月20日)と、最後に刺された日(おおよそ10月20日)を記録している。この何年かは最後の日が10月20日から28日にずれ込み、11月に入って刺されるのも時間の問題、というところまできた。

今年(2020年)は10月30日に刺され、31日にも現れた。パチンとやったのを見ると、体長は4ミリほど。これを写真に撮って拡大すると、ヒトスジシマカだった。11月のチクリもあるかと思ったが、今のところはない。

今年の立冬は11月7日、あしただ。そこまで生きて現れるかどうか。いや、現れないとはいえなくなった。この“隣人”は庭の鉢とかプラスチック容器などにたまった雨水がボウフラのときのすみからしい。(11月9日追記:8日午後4時過ぎ、11月としては初めて蚊に刺される)

2020年11月5日木曜日

小2の町たんけん

        
 例年だと6月に実施していたのが、今年(2020年)は新型コロナウイルス問題で秋に4カ月ほどずれこんだらしい。地元の小学校の2年生が地域に出て、商店や郵便局を訪ねる「町たんけん」が先日(10月28日)行われた。わが家(米屋)へも、マスクをかけた4人ほどのグループが2組、引率のPTAのお母さんとともに時間をおいてやって来た。

カミサンと小学生のやりとりが奥の茶の間へも聞こえてくる。「なにを売っていますか」「米と塩、ほかにみそやあめも」。型通りの質問が終わったあと、1人が声を上げた。「ウルトラマンレオだ!」

店の壁際に、孫2人(中1と小5)が持ってきたウルトラマンたちのフィギュア(人形)が並んでいる=写真。カミサンが一種のディスプレイとして飾った。売り物ではない。

最初、このフィギュアは孫の父親が子どものころに集めたものと思っていた。実写かアニメかはともかく、そのころならまだテレビでウルトラマンが放送されていたからだ。カミサンに聞くと、孫のものだという。

ウルトラマンには兄弟がいっぱいいる。ウルトラセブン、ウルトラマンタロー、ウルトラマンレオ……。私は区別がつかない。が、小学生にはレオも、タローも、セブンも一目でわかるのだろう。私が知っているのはウルトラマン、なかでも「帰ってきたウルトラマン」だ。その記憶が鮮明によみがえる。

――「帰ってきたウルトラマン」が放送された昭和46(1971)年春、新聞記者になった。平の旧城跡にあるアパートに住んだ。大家さんの孫(当時5歳くらいの女の子)が庭で、「帰ってきたぞ 帰ってきたぞ ウルトーラマン」と、よく歌っていた。日曜日の夕方、その女の子と平駅(現いわき駅)の跨線橋(平安橋)まで、電車を見によく散歩に出かけた。

ウルトラマンが好きな女の子は成人して結婚した。一度、お母さんと一緒にわが家を訪ねてきたことがある。「お兄ちゃん」のことをちゃんと覚えていた。――(この二つの連は前に書いた拙ブログからの引用)

半世紀前に子どもだった人間ならともかく、なぜ現代の子どもまでウルトラマンを知っているのか。ウィキペディアによると、漫画は今も連載が続いている。ウェブではアニメを見ることができる。つまり、今でも子どものヒーローであり続けているのだ。だから、一目見て「レオだ!」となったのか。孫たちが一時、フィギュアに夢中になったとしても不思議ではない。

ローカルニュースによると、おととい(11月3日)、ゴジラやウルトラマンの特撮で知られる故円谷英二監督のふるさと・須賀川市に、「須賀川特撮アーカイブセンター」がオープンした。ウルトラマン関係では、撮影に使われた人形などが展示されているという。ウルトラマンはもはや、子どもだけでなく、大人にとっても「不滅のヒーロー」のようだ。

2020年11月4日水曜日

前期の紅葉がピークに

        
 土曜日(10月31日)のいわき民報に載った拙ブログ活字版、「夕刊発磐城蘭土紀行」がコミュニケーションの触媒になったらしい――。

 東日本大震災後、地震・津波被災者と原発避難者の支援活動を通じて知り合ったYさん(女性)がいる。夏井川渓谷の直売所と紅葉に触れた「夕刊発――」を読んで、翌日曜日、渓谷へ出かけた。

JR磐越東線江田駅前の県道沿い(背戸峨廊=せどがろ=入り口付近)に、臨時に設けられた田村郡小野町のNさんの直売所で「四倉から来た」というと、Nさんが応じたそうだ。「四倉だか神谷だかから来る人がいる。その人を知ってるなら、よろしくいってください」

Yさんはすぐピンときたらしい。翌月曜日にわが家へやって来て、顛末(てんまつ)を報告した。

実は同じ日曜日の朝、Nさんが店開きをしていたので、そこからやや上流にある隠居へ行く前にとろろ芋を買った。ゴボウも並んでいた。が、肝心の曲がりネギがない。去年(2019年)はとうとう会わずじまいだったので、2年ぶりにあいさつを兼ねて聞いてみた。

「ネギは?」「ウチにはあんですけど」「欲しいな」「では、この次」「5キロぐらい」「わかりました」。Nさんの家で栽培している曲がりネギは、加熱すると甘くてやわらかい。大好物なので毎年買っていたが、この3年ほどは直売所に並ばなくなった。「特注」というかたちで持ってきてもらうことにした。

 さて、肝心の紅葉は――。テレビが伝える紅葉情報はカエデ。夏井川渓谷では広葉樹の紅葉がピークを迎えた=写真。まず非カエデで全山が燃えあがり、それが“下火”になったあと、谷のカエデが赤く染まる。そのカエデがようやく色づき始めた。

 東日本大震災前は、紅葉の時期になると、渓谷を縫う県道小野四倉線に長い路駐の列ができたが、この10年、そうした混雑を見たことがない。行楽客は年々ちょっとずつ戻っているとはいえ、まだ最盛期の半分にも至ってはいないだろう。

でも、コロナ禍の今年(2020年)は少し様子が違うようだ。江田駅前の夏井川べりにあるキャンプ場は日曜日になると車がびっしり止まっている。3日前の日曜日には、隠居の隣の「錦展望台」から子どもの声が聞こえてきた。震災後、谷間で聞かれなくなったのが、この子どもの声だ。

遠出はできないが近場の渓谷ならというファミリーや、市外・県外から人出を避けて渓谷へ、という人が多いのかもしれない。これもディープないわきに触れる「マイクロツーリズム」には違いない。

2020年11月3日火曜日

甘柿シャーベット

        
 もらった白菜を八つ割りにして甕(かめ)に漬けた。風味付けは、前に干しておいた柑橘(かんきつ)類の一種。皮が厚いから夏ミカンだったか。それと、去年(2019年)と今年の激辛とうがらし。殺菌と彩りに、刻んで加えた。

今年の柑橘類が欲しい。一番はやはりユズ。ユズは皮をむいて、生のままみじんにして白菜にちらす。今の時期はそれに代わるものを使うしかない。

白菜を漬けた翌日(10月31日)、カミサンと仲のいい近所のおばさんが、庭のミカンを枝ごと持ってきてくれた=写真上1。これだ、ユズが手に入るまでは代用になる。さっそくミカンを食べて、皮を干した。カミサンが食べた分も含めてとりあえず二つ。みかんを食べるごとに皮を干していけば、この冬何回か漬ける白菜の風味付けの材料になる。

そうだ、前に故義伯父の家の庭から収穫した甘柿も、皮が風味付けと隠し味になる。まだカゴにいっぱい残っている。熟した柿を選んで皮をむき、中身は二つに割って冷凍した。干し柿を冷凍して正月に食べる家がある。その風習を思い出したのだった。

熟柿の皮には身が付いている。そのままだと虫が来るので水で洗い流したあと、ヒーターの近くにおいて皮を乾かした。それから陰干しをする。

晩酌が始まるのに合わせて柿を取り出すと、「甘柿シャーベット」ができていた=写真上2。柿全体が凍っている。柿の切断面にフォークを差し込んでも離れない。少し時間をおいて解凍するのを待ってから食べた。冷たくて甘い。いい口直しになった。

氷ポットに熟柿を詰めて冷凍したら、サイコロ大の氷菓にならないか。これをつくっておいて、客人が来たときに出すと、きっと喜ばれるだろう。残りの柿が熟したらやってみようか。甘柿がいっぱいあるのでにわかに思いついたアイデアだが、その前に食べてしまいそうな気もする。

白菜は八つ割りにしたから、8回甕から取り出すことになる。が、日に三度食べるとなると、1週間はもつかどうか。すぐ次の白菜漬けの準備をしておかないといけない。糠漬けから白菜漬けへ――そのつなぎには、キュウリの古漬けがある。これも出番がきた。

白菜は、通常は2玉を割って4段、5段に重ねる。トウガラシは、今年もいっぱい採れた。あとは風味付けのミカンと甘柿の皮を干して増やせばいい。そのうちどこからかユズが届く。

こうして、10月から11月にカレンダーが替わったと思ったら、たちまち冬仕事が始まった。

白菜を漬けて3日目のおととい(11月1日)、甕をのぞいたら水が上がっていた。押しぶた代わりの皿を小さなものに替え、重しも軽いものにした。週の後半には最初の白菜漬けが食べられるだろう。

2020年11月2日月曜日

とよまの灯台文化祭

           
 塩屋埼灯台は断崖の先端にある。崖の南は豊間、北は薄磯。もうこの灯台に上ることも、灯台から海を、山を眺めることもないだろう――そう思っていた。わが家の2階はともかく、用があって近所の中層住宅の3、4階に行くと息が切れる。灯台の中だけではない、灯台までの急坂もきつい。垂直に歩くのは避けて、ふもとの海岸から見上げるだけでいい。

 11月1日は灯台記念日。灯台参観が無料になる。この日に合わせて塩屋埼灯台では、「とよまの灯台倶楽部」が明3日まで「とよまの灯台文化祭」を開いている。

 内容は①1~3日=塩屋埼特別資料展、灯台絵画コンクール作品展示、海保PRコーナーなど②3日=オンライン灯台フェス(灯台のふもと・雲雀之苑特設ステージからライブなどをユーチューブで生配信)――で、資料展に少し関係したので、きのうの初日午後、様子を見に行った。

「資料展は灯台下が会場」と聞いていたので、てっきり崖のふもとのどこかで開催していると思い込んでいた。ところが、ふもとにはそれらしい建物はない。土産品と食堂のほかには公衆トイレがあるだけ。遅まきながら、灯台のふもとではなく、崖の上の灯台の最下部、入り口わきの小部屋が会場、と知った。

 ふもとから灯台のある崖の上まではジグザグにコンクリートの階段が続く。若いときはこの急坂も、灯台内部のらせん階段もへっちゃらだったが、もうそんなエネルギーはない。

 前回、灯台に上ったのはいつだったか。撮影データを確かめたら、12年前の平成20(2008)年だった。ハッピーマンデー制度によって7月第三月曜日が「海の日」に定まった。その日に塩屋埼灯台を訪ねている。灯台のてっぺんから薄磯と豊間を撮影した。大津波が集落を襲うのは、それからざっと2年8カ月後。

 参観無料にイベントが重なって、ふもとの駐車場は満パイ、灯台への急坂も、灯台の周辺も行楽客でいっぱいだった。2~3カ月に1回は薄磯で再開した喫茶店「サーフィン」に寄る。海岸道路を利用して灯台のふもとを通る。いつもの日曜日は、行楽客がチラホラといった程度だが、きのうはおそらく1年で最もにぎやかな日になったのではないか。

私も、資料展を見なければと自分にねじを巻いて、カミサンと手すりを推進力に休み休み急坂を上った。万国旗で飾られた白亜の灯台がきれいだった=写真上1。はるか視界の先には水平線が弧を描いている。海は広い。空はもっと広い。背後の陸を振り返ると、薄磯から豊間に抜ける道路の新設工事が進められている=写真上2。

主催者側の海保のWさん、資料展を担当したM君に会ったあと、「とよまの灯台倶楽部」部長のO君を紹介され、名刺を交換した。同じ学校、同じ学科の40年下の後輩で、豊間の友人の息子の同級生だった。

去年(2019年)12月15日、豊間の灯台は点灯から120年の節目を迎えた。それを機に、地元内外の市民や海保などが加わって「とよまの灯台倶楽部」が発足した。「灯台文化祭」が初めての活動だという。

その倶楽部の代表が若い人だったことに驚いた。いや、頼もしく感じた。名刺の住所には豊間の「二見台」とあった。初めて聞く地名だ。津波で海岸集落は壊滅し、そのあとに防災緑地が築かれた。一方で、集落の背後にあった丘が削られ、「高台移転」事業が進められた。その高台にできた住宅地の字名だった。

東日本大震災から間もなく10年。豊間では地域の今とこれからを考える次の世代が育ってきた。とよまの灯台文化祭は、その意味では新しい手法による地域復興事業といってもいいのかもしれない。

2020年11月1日日曜日

吉野せいの草稿「水石山」

                     
   企画展「草野心平と棟方志功~わだばゴッホになる」(12月20日まで)とは別に、いわき市立草野心平記念文学館常設展示室の一角で、吉野せいのスポット展示が開かれている(こちらは同27日まで)。

 先日、企画展を見たあと、学芸員から説明を受けた。せいの著書や、せいがいわき民報に不定期で連載した「菊竹山記」の新聞切り抜きなどが展示されている。『洟をたらした神』に収められた短編「水石山」の冒頭の自筆草稿もある。それを見た瞬間、「水石山」の注釈づくりにずいぶん悩まされたことを思い出した。

私が持っている中公文庫の『洟をたらした神』は傍線だらけ。「水石山」も傍線や書き込みが入っている=写真。そうやって注釈個所を増やしていく。

作品の末尾に、かっこ書きで「昭和三十年秋のこと」とある。11月の晴れた朝、好間・菊竹山の自宅から、夫への怒りと憎しみを抱えて“プチ家出”をしたせいは、ほんとうは水石山へ行きたいのだが、足は反対側へと向かう。

「反逆の爽快におどらされるように早足で、村を横ぎり、鬼越峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赭(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

鬼越峠の切り割りは、好間と内郷を隔てる丘陵(大舘)にできた。そこを越えて、せいは内郷へ出る。そのとき見た風景の描写が10行余り続く。

内郷の住宅団地といえば高坂団地だ。しかし、同団地は昭和30(1955)年にはまだ影も形もない。では、どこの団地なのか――。

内郷関係の文献に当たる。せいの足取りを現地に追う。よくわからない。鬼越峠と新川を結ぶライン沿いで梨畑があった地区は? 高坂にもあったが、その東に続く御台境(鬼越峠を含む一帯)にもあった。そこに御台団地ができた。そこか? でも、なんとなくしっくりこない。

市内郷支所に、昭和36年秋、内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。ズリ山のところに「現・高坂二丁目」、東隣の丘陵地に「現・高坂一丁目」と、ラベルが張ってある。団地の造成工事が始まるのは、つまりその年以降だ。

去年(2019年)できたウェブの「うちごうまちあるきマップ」にも、炭鉱の「住吉坑ズリ山跡」として、「住吉坑ズリ山は秀麗な三角形を備え常磐炭田では名実とも随一とされ、内郷高坂の梨畑が連なる山並みを越えてそびえたっていた。(略)閉山後削られて今は高坂団地の一部をなす」とある。

これらの状況証拠をもとに、住宅団地に切り替えられつつあった高台の梨畑地区は高坂団地のことだろう、と結論付けたのだが、それまでは末尾の「昭和三十年秋のこと」に惑わされ続けた。

ほかの作品でも同じように、末尾の年代と作品に描かれた出来事が合わないケースがいくつかあった。それらを検討しているうちに、だんだん考え方が変わってきた。『洟をたらした神』の作品は事実を下敷きにしながらも小説として組み立てられたものだ。末尾の年代は作品の仕掛けであって、実際にその年に起きたことが描かれているわけではないのだ、と。

『洟をたらした神』は昭和50(1975)年春、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。生活記録(ノンフィクション)的な側面もあるが、小説(フィクション)として読むのが、せいの思いにはかなっている。せいはやはり少女時代と同じように、老いても作家たらんとした、虚実皮膜のあわいで言葉を紡いだのだ。注釈づくりも同じで、せいの仕掛けにはまることなく虚実の皮膜を見定めながら続けないといけない――そう頭を切り替えたのだった。

 せいの命日は11月4日。今度の水曜日だ。直後の土曜日(11月7日)には草野心平記念文学館で第43回吉野せい賞表彰式が開かれる。