2020年11月1日日曜日

吉野せいの草稿「水石山」

                     
   企画展「草野心平と棟方志功~わだばゴッホになる」(12月20日まで)とは別に、いわき市立草野心平記念文学館常設展示室の一角で、吉野せいのスポット展示が開かれている(こちらは同27日まで)。

 先日、企画展を見たあと、学芸員から説明を受けた。せいの著書や、せいがいわき民報に不定期で連載した「菊竹山記」の新聞切り抜きなどが展示されている。『洟をたらした神』に収められた短編「水石山」の冒頭の自筆草稿もある。それを見た瞬間、「水石山」の注釈づくりにずいぶん悩まされたことを思い出した。

私が持っている中公文庫の『洟をたらした神』は傍線だらけ。「水石山」も傍線や書き込みが入っている=写真。そうやって注釈個所を増やしていく。

作品の末尾に、かっこ書きで「昭和三十年秋のこと」とある。11月の晴れた朝、好間・菊竹山の自宅から、夫への怒りと憎しみを抱えて“プチ家出”をしたせいは、ほんとうは水石山へ行きたいのだが、足は反対側へと向かう。

「反逆の爽快におどらされるように早足で、村を横ぎり、鬼越峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赭(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

鬼越峠の切り割りは、好間と内郷を隔てる丘陵(大舘)にできた。そこを越えて、せいは内郷へ出る。そのとき見た風景の描写が10行余り続く。

内郷の住宅団地といえば高坂団地だ。しかし、同団地は昭和30(1955)年にはまだ影も形もない。では、どこの団地なのか――。

内郷関係の文献に当たる。せいの足取りを現地に追う。よくわからない。鬼越峠と新川を結ぶライン沿いで梨畑があった地区は? 高坂にもあったが、その東に続く御台境(鬼越峠を含む一帯)にもあった。そこに御台団地ができた。そこか? でも、なんとなくしっくりこない。

市内郷支所に、昭和36年秋、内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。ズリ山のところに「現・高坂二丁目」、東隣の丘陵地に「現・高坂一丁目」と、ラベルが張ってある。団地の造成工事が始まるのは、つまりその年以降だ。

去年(2019年)できたウェブの「うちごうまちあるきマップ」にも、炭鉱の「住吉坑ズリ山跡」として、「住吉坑ズリ山は秀麗な三角形を備え常磐炭田では名実とも随一とされ、内郷高坂の梨畑が連なる山並みを越えてそびえたっていた。(略)閉山後削られて今は高坂団地の一部をなす」とある。

これらの状況証拠をもとに、住宅団地に切り替えられつつあった高台の梨畑地区は高坂団地のことだろう、と結論付けたのだが、それまでは末尾の「昭和三十年秋のこと」に惑わされ続けた。

ほかの作品でも同じように、末尾の年代と作品に描かれた出来事が合わないケースがいくつかあった。それらを検討しているうちに、だんだん考え方が変わってきた。『洟をたらした神』の作品は事実を下敷きにしながらも小説として組み立てられたものだ。末尾の年代は作品の仕掛けであって、実際にその年に起きたことが描かれているわけではないのだ、と。

『洟をたらした神』は昭和50(1975)年春、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。生活記録(ノンフィクション)的な側面もあるが、小説(フィクション)として読むのが、せいの思いにはかなっている。せいはやはり少女時代と同じように、老いても作家たらんとした、虚実皮膜のあわいで言葉を紡いだのだ。注釈づくりも同じで、せいの仕掛けにはまることなく虚実の皮膜を見定めながら続けないといけない――そう頭を切り替えたのだった。

 せいの命日は11月4日。今度の水曜日だ。直後の土曜日(11月7日)には草野心平記念文学館で第43回吉野せい賞表彰式が開かれる。

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