2022年11月7日月曜日

吉野せい賞表彰式

 土曜日(11月5日)に草野心平記念文学館で吉野せい賞の表彰式が行われた=写真(リハーサル後の記念撮影)。主催者あいさつのあと、5人の選考委員を代表して選評と総評を述べた。

同賞では、選考委員が応募作品のすべてを読む。月遅れ盆のころに読み始め、8月いっぱいをそれに充てる。その後、記者会見と表彰式に出る。表彰式がすんで、今年(2022年)の仕事が終わった。

 コロナ禍前は、受賞者が表彰式のリハーサルを終えたところで昼食を共にした。作者とじかに顔を合わせて話をする唯一の機会だ。

 ユニークな発想、あるいはおもしろい比喩がある。それはどこから生まれてくるのか。会食しながら、個人的に感じた興味や印象を伝える。すると、また違った答えが返ってくる。得難い情報交換の場だ。

 今回は、準賞を受賞した半澤りつさん(好間町、73歳)の小説「辿(たど)り道」に出てくる、あるエピソードについて半澤さんと語り合いたかった。

 半澤さんは双葉郡葛尾村で訪問介護員(ホームヘルパー)の仕事をしていた。その実体験を小説化した。6人のお年寄りが登場する。

 そのなかの一人、浪曲を語る木村フミの娘時代の話。「ドサ回りの浪曲師」の一人に「今テレビで歌っている『三波春夫』がいた」。

この国民的歌手がデビューするのは昭和30年代、そしてテレビが地方に普及するのはそのあと。フミの娘時代は、それから逆算して戦前ということになる。

「毎日のように聞きに通うフミをその人は見初めたのである。だが相手は売れない旅芸人であったがためにフミの両親は猛反対をした」

フミの話を興味深く聞いていたホームヘルパーは、すぐ三波春夫とフミの長男が同年代であることに気づく。「フミにとって初恋であったかも知れないその人は、いつから三波春夫になってしまったのか」

同じエピソードが鎌倉岳をはさんだ葛尾村の西、田村郡(現田村市)常葉町にもある。昭和32(1957)年に「チャンチキおけさ」と「船方さん」が大ヒットすると、子どもだった私の耳にも、若いときの三波春夫と町の娘の恋の話が入ってきた。

旅芸人が演じる芝居や浪曲は、地方の人間にとって数少ない娯楽の一つであり、憧れの対象でもあった。

この「悲恋」は願望と現実の落差の中で生まれたものだったのかもしれない。民俗学でいう「都市伝説」ならぬ「田舎伝説」だった、そんな思いがよぎる。

「辿り道」を読んで、ふるさとの「悲恋」を“検証”してみたら、やはり三波春夫が若すぎる。三波春夫ではない浪曲師との悲恋が、いつのまにか三波春夫に収斂してしまったらしい。

 半澤さんの話に戻る。原発震災を受けて、葛尾村は全村避難を余儀なくされた。半澤さんも避難民となり、今はいわき市に住んでいる。平成29(2017)年に奨励賞に選ばれたノンフィクション「母と私の6年間」でそのへんの事情を知った。

  その後の精進が実っての準賞だ。葛尾村役場の広報担当員が取材に来ていたから、村の広報紙にも載ることだろう。 

2022年11月6日日曜日

ウクライナの『戦争日記』・下

                                 
 ウクライナの戦争避難民はどのくらいいるのだろう。ネットで検索したら1000万人以上だった(英国BBCの4月時点での解説)。原発震災では、避難民はピーク時で16万人余だった。けた違いの数字だ。

その中の一家族3人(夫は戒厳令と総動員令のために国内にとどまらざるを得なかった)が、戦争勃発からブルガリアの小さな街へたどり着くまでの、ざっと24日間を絵と文章でつづった『戦争日記――鉛筆一本で描いたウクライナのある家族の日々』(河出書房新社、2022年)=写真=を読んだ。

著者はハリコフ(ハルキウ)で生まれ、ハリコフで暮らしていた、絵本作家でイラストレーター、アーティストのオリガ・グレベンニクさん、38歳。

渡辺麻土香、チョン・ソウン訳/奈倉有里ロシア語監修とあるのは、韓国語版を日本語に訳して出版したからだ。

原文はロシア語で書かれている。ロシア語監修者の「解説」でそのへんの事情が明かされる。

ウクライナではウクライナ語話者とロシア語話者が共存している。著者の母語はロシア語である。

母語で書いているので、地名も「ロシア語(ウクライナ語)」、たとえばハルキウは「ハリコフ(ハルキウ)」と表記される。

「わたしは民族で人を分けない。人を定義するのは、民族ではなく行動だからだ」という信念に基づく。これは全くその通りだろう。

国のリーダーの頭が戦争に支配されていたとしても、その国の言葉まで唾棄するものではないのはもちろんだ。それをこの「絵日記」が教えてくれる。

本そのものはざっと135ページと薄い。ロシアの侵攻が始まった2月24日からマンションの地下室暮らしが始まり、避難を決意して西のリヴォフ(リヴィウ)経由でワルシャワ(ポーランド)へ脱出し、さらに著者のブログのフォロワーの招きでブルガリアへ移動して小さな街にたどり着く。

いつ、どこでどうなるかわからない、その非常時の瞬間、瞬間が鉛筆でスケッチブックに描かれる。

ある日突然、戦争が降ってきた。そう、ある日突然、巨大地震と大津波が押し寄せ、原発事故が起きたように。

『戦争日記』を読みながら、東日本大震災と原発事故直後の恐怖と不安、その後の心的変化がよみがえった。

もともと絵本作家だということもあるのだろう、著者は非常時に自分を律する手段として、鉛筆で絵を描き、文字をつづった。

「わたしは恐怖と不安をどうにかして振り払おうと、スケッチ用のノートと鉛筆を家から持ってきていた。絵を描く行為はいつも『感情』のコントロールを手伝ってくれた」

私の経験を持ち出すまでもないのだが……。あのとき、3月11日午後2時46分から、「感情」をコントロールする意味だけでなく、個人と社会の「その後」を記録する意味でも「震災記」を書き続けている。ウクライナの戦争日記に共感するゆえんだ。

2022年11月5日土曜日

ウクライナの『戦争日記』・上

                                
 ウクライナの『戦争日記』を2冊読んだ。スタンド・ウィズ・ウクライナ・ジャパン編『ウクライナ戦争日記』(左右社、2022年)=写真=と、オリガ・グレベンニク『戦争日記――鉛筆一本で描いたウクライナのある家族の日々』(河出書房新社、2022年)。

 『ウクライナ戦争日記』は、東京に住むウクライナ人が中心になり、ロシアのウクライナ侵攻後、日常が激変した母国の市民の手記(日記)を編んだ。

 戦争と震災・原発事故の違いはあるが、読みながら既視感に襲われた。破壊と死を間近にした不安と恐怖、それからの避難。その具体的な様相を「日記」が雄弁に物語る。

 ハルキウ(ウクライナ北東部の都市)の美容室経営、41歳。「ロシアとウクライナ、ふたつの軍隊がいる地帯は、まるで地球が焼き尽くされたあとのようだった。捻(ねじ)れた木や壊れた施設、金属の破片、砲弾による窪み、地雷と死体で埋め尽くされた道」

 マリウポリ(ウクライナ南東部の都市)、鉄道会社職員、53歳。「私たちは今夜出発することに決めた。/いざ出発してみると、私たちと同じように出発しようとしている車の列が何キロかにわたって渋滞していた」

 キーウ(ウクライナの首都)の脚本家、44歳。「私たちの車のガソリンは半分しか入っていなかったが、ガソリンスタンドは長蛇の列だった。私たちはキーウを抜け、渋滞を抜けて、ついに街を出た」

 キーウの森からポーランドのクラクフに避難した陶芸家、27歳。人道援助センターでボランティア活動をしていたときの一コマ。「70歳くらいのおばあちゃんが『ズボンに縫い付けるボタンがないか』と尋ねてきて、近くにいた女性が糸付きの針とペアになるボタンをあげた」

 11年前のいわき市――。東北地方が巨大地震に見舞われ、沿岸部を大津波が襲った。その影響で、40キロ北にある原発で事故が起きる。

 原発のある双葉郡を中心にした避難民は、ピーク時には16万人を超えた。311の直後、楢葉町から近くの小学校へ避難した一人がたまたまわが家(米屋)へやって来た。「歯ブラシありませんか」。どこかのホテルのものがあったので、それをあげた。

 津波で家を流されたという久之浜の老夫婦も近所のアパートに引っ越して来た。旦那さんが自転車で現れた。奥さんに頼まれたのだろう、「針と糸、どこで売ってっぺ」という。カミサンが余っている針と糸をあげた。

 私ら夫婦も間もなく、長男一家、義妹母娘とともに、車のガソリンを心配しながら、中通りの南部へ一時避難をした。

スタンド・ウィズ・ウクライナ・ジャパン共同創設者のサーシャ・カヴェリーナさん(東京)は「はじめに」の中でいう。

 「何よりもまず、この無意味な戦争を止めなければなりません。しかし、戦闘は終息する気配がありません。今こそ、世界中の人々が、快適なソファの上で戦況を眺めるのではなく、戦争を直接体験した人々の目と言葉を通して、戦争を見ることが重要です」

 もう1冊の『戦争日記』も同じ思いで書かれた。「私がこの日記を書くのは『戦争反対!』と叫ぶためである。それについては、あした。

2022年11月4日金曜日

値上げ通知

                      
 毎週月・金曜日の2回、牛乳瓶が各2本届く。朝起きると、私が勝手口にある牛乳箱まで取りに行く。先日、11月から値上げになるというチラシが入っていた=写真。

 適宜、読点を加え、誤記を直して文章を紹介する。――国内の酪農情勢は円安やウクライナ戦争などの影響で飼料が急騰し、2022年11月から牛乳価格が大幅に改定されることになった。

 加えて、商品製造にかかる牛乳以外の諸原料価格、包装資材の価格、エネルギーコスト、物流費などの高騰が続き、取扱商品すべての価格改定の申し入れが各メーカーから届いた――。

 「つきましては」と値上げのお願いになるわけだが、「やっぱりきたか」そんな感慨がよぎった。

 10、11月と値上げラッシュが続いている。メディアの報道(帝国データバンク調べ)によると、10月は約6700品目、11月は約830品目、来年(2023年)はさらに2000品目が値上げを予定しているという。牛乳は数ある値上げ品目のなかの一つにすぎなかった。

 これほどの値上げラッシュはいつ以来だろう。思い浮かぶのは昭和48(1973)年10月に始まった第4次中東戦争を契機とするオイルショックだ。

 列島改造ブームによる地価高騰でインフレが進む中、石油危機が発生して便乗値上げなどが相次いだ。

 図書館に電子化された地域新聞がある。記憶ではあいまいなので、いわき民報を開いてみた。

師走1カ月間の見出しから当時の社会状況を探ると、こんな感じだ。大手企業の節電10%を実施、市の来年度予算は物価高に対応して経常経費を5%アップ、公共事業は抑制、常磐共同火力発電所は12%減産、飼料高騰に低利融資、LPガス規制からタクシー運転手がスタンド経営者を殴る……。

 いわき民報社も総需要抑制策の直撃を受けた。減ページの社告が12月11日に載る。入社して2年半余、新米記者だった私も、このときには驚いた。

 「石油危機にともなう電力抑制によって、新聞用紙の不足はますます深刻になり、メーカーから25%割当削減の通知を受けましたので、いわき民報社は昨10日付紙面から2ページ減少し、8ページ建てに変更することになりました。用紙事情が好転するまでの緊急措置ですので、ご了承ください(以下略)」

 翌年も「狂乱物価」の波は続き、日本経済は戦後初めてマイナス成長を記録した。いわゆる「高度経済成長」がこれで終焉した。

 それはともかく、今度の円安による物価高で庶民の暮らしはどうなるのか。現役世代は、賃金は上がらないのに支出は増えていく、そんな厳しい経済状況におかれている。年金生活者も事情は同じだ。

きのう(11月3日)、近くのスーパーへ買い物に行った。いつもマイバッグがいっぱいになる。今までは5000円未満ですんだのが、このごろはそれを超えるとカミサンがいう。「悪い円安」で、日本は働くには安い国になり、暮らすには高い国になったのか。

2022年11月3日木曜日

辛み大根を収穫

           
 夏井川渓谷の隠居の庭で栽培しているのは、今は三春ネギだけだ。ただし、“ふっつぇ(自生)野菜”は、それなりに大切に育てる。

シソやジャガイモ、辛み大根(たぶん会津地方で栽培されているアザキ大根)がそうだ。一度栽培したら、勝手に生えてくる。

シソは秋に穂ジソを摘む。ジャガイモは子イモしか取れないが、「みそかんぷら」にする。辛み大根は震災後、除染をして菜園を再開したときに知り合いから種が届き、三春ネギとともに栽培を始めた。

辛みの強いアザキ大根を初めて手にしたのは、平成19(2009)年の師走、道の駅よつくら港が一次オープンをしたときだった。テント村に奥会津・三島町のブースがあって、七色唐辛子やアザキ大根を売っていた。

 どちらも買って味を確かめた。七色唐辛子は、実際には四味。こちらは自分でつくる「磐城七味」の参考にした。アザキ大根はおろして辛みを楽しんだ。この辛さが記憶に残っている。

 わが隠居の辛み大根は手を抜けば抜くほどいい、世話を焼くとかえって貧弱なものになる――と知ったのは、何年か栽培を続けてから。

種は、春に紫色の花が咲いたあと、あり余るほど採れる。発泡スチロールのようなさやの中で眠っている。寿命が長い。

 それとは別に、初夏から梅雨、取り残して地面にこぼれた落ちたさや(種)が、月遅れ盆のころにははじけて発芽する。

辛み大根にはみずから再生する力がある。「ふっつぇ大根」と知った翌年(2016年)からは、こぼれ種だけで発芽させることにした。

徐々に手抜きの度合いを強めていったが、ちゃんと野性の力でこたえてくれる。とにかく生命力が強い。

それまでは、ていねいに畝を耕して点まきにした。すると、細くて長い大根しかできなかった。辛み大根は、食べてはまずい。辛さを生かして大根おろしに利用するしかない。細長では大根おろしにもならない。土を耕したのが裏目に出た。

 以来、辛み大根は不耕起で草が生えるように育つのを待つだけにしている。手を加えるのは、石灰散布、間引き、周囲の草刈り、追肥くらいだ。

今年(2022年)も間引きと草引き、ネギの追肥に合わせてぱらっと肥料をやるだけにとどめた。

想定外だったのは、青虫(モンシロチョウ)に黒虫(カブラハバチ)、葉裏に隠れているハスモンヨトウの幼虫の多さだった。

 葉がボロボロになっているのを見て、日曜日に隠居へ行くたびに、キャリアカーに座って虫捕りを続けた。次の日曜日にもまた葉を眺めてプチッとやる。キリがない。

 そうやっているうちに、根元に触れるとだいぶ膨らんでいる。ためしに一本引っこ抜いたら、いいあんばいにずんぐりしている。結局、4本を収穫した=写真。

 その夜、さっそくおろしてかつお節を加え、しょうゆを垂らして舌に載せた。少したってから強烈な辛さが口内に広がる。これだ! 頭がボッと点火したように熱くなる。これがアザキ大根なのだ、アザキ大根のすごいところなのだ、と実感した。

2022年11月2日水曜日

粉山椒をつくる

        
 震災後では初めて、擂鉢(すりばち)を取り出した。10月9日、カミサンの実家の庭で山椒(さんしょう)の実を摘んだ。乾燥させて黒い種を取り除き、10月最後の日に赤い果皮を擂りつぶした。

 前にも書いたが、きっかけは友人からの電話だった。裏山に山椒の実がいっぱいある、粉山椒にするにはどうするんだっけ――。カミサンの実家の庭で山椒の実を見た瞬間、おれも粉山椒をつくろう、そう思った。

 震災前も長い間、擂鉢から離れていた。これをよく使ったのは30代のころだ。秋から冬、唐辛子で一味を、山椒の果皮で粉山椒をつくった。

20代の後半から山菜や木の実、キノコを採るようになった。調理はカミサンに頼むにしても、下準備はしないといけない。

 山椒はそのなかでも手間がかからなかった。春の木の芽は摘むだけ。夏の青山椒はゆでて塩を振るだけ。秋の実山椒は擂りつぶすだけ。それで独特の香りと辛みのある薬味になる。これほど重宝な自然の食材はない。

 そもそも粉山椒をつくろうと思い立ったのは七色唐辛子、いわゆる七味の一つにするためだった。

 京都の七味には粉山椒が入っている。おみやげにもらったとき、なるほどと思った。土地によって七味の中身は異なる。いろんな組み合わせがある。自由でいいのだ、と。

 で、30代後半には「磐城七味」づくりに熱中した。胡麻(ごま)の代わりに荏胡麻(えごま)、青海苔はできればいわきの浜でできたものを、そして地場産の蜜柑(みかん)ないし柚子(ゆず)の皮、粉山椒を加えれば、立派なご当地七味ができる。

 不思議なもので、擂鉢に山椒の赤い果皮を入れ、同じ山椒の擂粉木を回しているうちに、若いころの記憶がよみがえってきた。

乾燥させている段階で黒い種をよける、というのははっきり記憶に刻まれていたが、果皮を擂りつぶしている過程で果皮の内側についている白い“姫皮”がはがれて粉に混じる。

ああ、これは目の細かい金網ボウルで粉と皮を分けたんだっけ――そんなことを思い出して、茶こしを使って振り分ける=写真上1。

そうして残った粉はどのくらいあるかと見れば、微々たるものだ。それはしかし、最初から分かっていたことだ。

たまたま七味の小瓶が空いたので、それに入れることにしていたが、どこかにまぎれこんでしまった。しかたがない、味塩の空き瓶がある。それに粉山椒を入れた=写真上2。

七味の小瓶にこだわったのは、振りかける穴が一つしかないこと。これに対して、味塩の方は小さな穴が七つもある。これでは一度に振る量が多くなる。それを敬遠したのだが、静かに小瓶を振るしかない。

ま、それはともかく、けんちん(豚汁)が出たときには、普通の七味にこの粉山椒を振って、香りと辛みを楽しむことにしよう。

 そしてこれは蛇足だが、姫皮は捨てずに、糠床に入れた。それだけでも風味が増す。黒い種も発芽するかどうかはともかく、庭木の下にまいた。

2022年11月1日火曜日

「大正時代のいわき」展

                                
 金曜日(10月28日)にいわき総合図書館へ行くと、今年度(2022年度)の後期企画展「大正時代のいわき」が始まったばかりだった=写真上1(解説資料)。これはぜひ見ないと。

 「いわきの文学」をテーマに、主に大正時代のいわきの詩風土について調べている。社会・経済を含めた広い文脈のなかで、いわきの100年前の姿が、文化が見えてくるかもしれない、そんな期待があった。

 なぜ大正時代のいわきなのか。100年単位で物事を考えれば、大正時代がちょうど100年前に当たる。これに尽きる。

 私自身、いわきの詩風土を調べる過程で100年前のいわきを強く意識するようになった。『洟をたらした神』で知られる作家吉野せいも、その風土の中で文章を書き始めた。

 いわきの100年前について書いたブログがある。それを要約する。――2012年、明治から大正に改元されて100年になった。「大正100年」である。いわきがらみでいえば、山村暮鳥が磐城平に赴任して100年でもある。

2014年は第1次世界大戦勃発から100年。2017年はロシア革命から100年、2018年は米騒動から100年。関東大震災は2023年に100年を迎える。

 関東大震災について、いわき地域の活字メディアがどう伝えたかを、図書館のホームページを開き、電子化された当時の地域紙でチェックしたことがある。

 大正12(1923)年の新聞は、残念ながら「常磐毎日新聞」の11、12月分しかない。発災から2カ月ばかりあとの11月8日付(実際は7日の夕刊)――。平駅(現いわき駅)の10月の運輸状況について、貨物は発送増・到着減、震災地往来の乗降客は減少、と伝える。

 11月13日付には、出版界も大打撃を受け、災害前に500余種あった雑誌は約3分の1に淘汰(とうた)された、単行本は講談社の『大正大震災大火災』が50万部も売れたとある。もちろん全国で、だろうが、すごい売れ行きだ。石城郡への震災避難者は1759人という記事も=12月11日付(以下略)――。

 「大正時代のいわき」展では、いわきの大正時代・まちなみ・くらし・ひとびと・娯楽・教育の項目ごとに、絵ハガキや写真を通じて当時の様子を紹介している。最後の項目は文学。暮鳥を軸にした詩風土に触れたのは、当然というべきか。

日曜日(10月30日)に夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、草野心平記念文学館を訪ねた。「萩原朔太郎大全2022―詩の岬―」展が開かれている=写真上2(チラシ)。ここでも朔太郎の盟友・暮鳥の磐城平時代が紹介されている。

ポイントは「大正時代のいわき地域が、口語自由詩が確立されていく現場であり、詩壇の最先端であった」ということ。タイトルに「詩の岬」とあるゆえんだ。

文学館と図書館の企画テーマが偶然、重なった。文学館の企画展のコーナーに図書館の解説資料を、図書館の企画展コーナーに文学館のチラシを置くだけで「相乗効果」が期待できる。両方を行き来すれば、100年前のいわきについての理解がより深まるはずだ。