ウクライナの『戦争日記』を2冊読んだ。スタンド・ウィズ・ウクライナ・ジャパン編『ウクライナ戦争日記』(左右社、2022年)=写真=と、オリガ・グレベンニク『戦争日記――鉛筆一本で描いたウクライナのある家族の日々』(河出書房新社、2022年)。
『ウクライナ戦争日記』は、東京に住むウクライナ人が中心になり、ロシアのウクライナ侵攻後、日常が激変した母国の市民の手記(日記)を編んだ。
戦争と震災・原発事故の違いはあるが、読みながら既視感に襲われた。破壊と死を間近にした不安と恐怖、それからの避難。その具体的な様相を「日記」が雄弁に物語る。
ハルキウ(ウクライナ北東部の都市)の美容室経営、41歳。「ロシアとウクライナ、ふたつの軍隊がいる地帯は、まるで地球が焼き尽くされたあとのようだった。捻(ねじ)れた木や壊れた施設、金属の破片、砲弾による窪み、地雷と死体で埋め尽くされた道」
マリウポリ(ウクライナ南東部の都市)、鉄道会社職員、53歳。「私たちは今夜出発することに決めた。/いざ出発してみると、私たちと同じように出発しようとしている車の列が何キロかにわたって渋滞していた」
キーウ(ウクライナの首都)の脚本家、44歳。「私たちの車のガソリンは半分しか入っていなかったが、ガソリンスタンドは長蛇の列だった。私たちはキーウを抜け、渋滞を抜けて、ついに街を出た」
キーウの森からポーランドのクラクフに避難した陶芸家、27歳。人道援助センターでボランティア活動をしていたときの一コマ。「70歳くらいのおばあちゃんが『ズボンに縫い付けるボタンがないか』と尋ねてきて、近くにいた女性が糸付きの針とペアになるボタンをあげた」
11年前のいわき市――。東北地方が巨大地震に見舞われ、沿岸部を大津波が襲った。その影響で、40キロ北にある原発で事故が起きる。
原発のある双葉郡を中心にした避難民は、ピーク時には16万人を超えた。3・11の直後、楢葉町から近くの小学校へ避難した一人がたまたまわが家(米屋)へやって来た。「歯ブラシありませんか」。どこかのホテルのものがあったので、それをあげた。
津波で家を流されたという久之浜の老夫婦も近所のアパートに引っ越して来た。旦那さんが自転車で現れた。奥さんに頼まれたのだろう、「針と糸、どこで売ってっぺ」という。カミサンが余っている針と糸をあげた。
私ら夫婦も間もなく、長男一家、義妹母娘とともに、車のガソリンを心配しながら、中通りの南部へ一時避難をした。
スタンド・ウィズ・ウクライナ・ジャパン共同創設者のサーシャ・カヴェリーナさん(東京)は「はじめに」の中でいう。
「何よりもまず、この無意味な戦争を止めなければなりません。しかし、戦闘は終息する気配がありません。今こそ、世界中の人々が、快適なソファの上で戦況を眺めるのではなく、戦争を直接体験した人々の目と言葉を通して、戦争を見ることが重要です」
もう1冊の『戦争日記』も同じ思いで書かれた。「私がこの日記を書くのは『戦争反対!』と叫ぶためである。それについては、あした。
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