2015年9月24日木曜日

レイライン観光

 レイライン(英語の古語で「光の道」だとか)という観点で、いわきの新しい観光資源を開発しようという動きがある。あるところから声がかかったので、レイラインハンティングのための打ち合わせに参加した。なにか情報がないか、ということだろう。そのときに配られた資料から――。
 一例として挙げられるのが、伊勢・二見ケ浦と岸辺にある興玉神社。夫婦岩の間から昇った夏至の朝日が、興玉神社に差し込み、伊勢内宮へ導かれる。
 
 つまり、夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置に着目し、観光につなげようというものだ。最新の地質学データやGPS(全地球測位システム)を利用し、聖地の構造を科学的に分析するのが特徴で、いわゆる「パワースポット」とは違って合理的に理由を説明できる。
  
 日本山岳修験学会会員でレイラインを研究しているUさんが概略を説明した。資料にはいわき市内の調査物件として社寺・山・遺跡・施設などがピックアップされていた。Uさんは茨城県出身だから、いわきに精通しているわけではない。レイラインを計算に入れた伽藍配置ともいえる専称寺(平山崎=浄土宗)が抜けている。

 Uさんも薫陶を受けた故佐藤孝徳さん(江名)に教えられたことだが――。春と秋の彼岸の中日、朝日が本尊の阿弥陀三尊を照らし、夕日が本尊の後光になる、そんなふうに専称寺の本堂が造られているのではないか。そう聞いて、今から21年前、本堂の裏山に沈む夕日を見に行った。同寺が開山600年の法要を控えた年だった。

 裏山は竹林で鞍部になっている。そのへこみに夕日が落ちるところだった。西方浄土へと死者を導く「山越(やまごえ)阿弥陀」そのものではないか。観念の浄土と現実の寺とをつなぐ工夫に感嘆した。

 それから14年後の2008年。雨の春分の日から2日後の3月22日、起き抜けに専称寺へ出かけ、朝日を拝んだ=写真。そのときのブログを読み返して、記憶を修正しないといけなくなった。ブログを抜粋する。

 ――朝の5時半過ぎ、山上の境内に立つ。左手に蛇行しながら東流する夏井川。そこに逗留しているハクチョウが朝日にほんのり赤く染まって飛び交っていた。正面から右手にかけては沖積平野。その先に太平洋が広がる。

 磐城平藩の中老、鍋田三善(1788~1858年)は専称寺について、自著『磐城志』にこう記す。「山門の外、坂の中段左右に寮舎が5軒並んでいる。また南側、横に入り組んで5軒がある」。寮舎は坊さんの卵が寝泊まりして修行するところ。それが江戸時代には10軒あった。住持が引退したあとに住んだ「寂光院」は庫裏の東にあり、「東海の眺望類ひなし」と三善は絶賛する。

 今も専称寺からの眺望は比類がない。今朝はそのうえ雲ひとつない日本晴れ。
海から昇った太陽は本堂の中央から見ると、1時の方向にある。真っ正面ではないのがちょっと残念だが、ふもとも、中段の梅林も、本堂も朝日に照らされて美しい――。

 きのう(9月23日)がその秋の彼岸の中日、つまり秋分の日。そして、記憶の修正とは、本堂の正面が真東に向いていなかったことだ。春分の日前後の朝日が昇ったのが1時の方向とは、本堂が東からやや北へ向いているということになる。初めて孝徳さんの話を聞いたときの印象が強すぎたのかもしれない。

 打ち合わせ中にUさんはノートパソコンで専称寺の地理的位置を探り、裏山が鞍部になっていること、本堂がやや北に向いていることを確かめ、春分・秋分の日より夏至に朝日と本堂がまっすぐ結ばれるのではないか、と語った。7年前の自分のブログを読んで、Uさんの推測の方が合理的だと思った。
 
 專称寺は、東日本大震災で本堂が「危険」、庫裡が「要注意」と判定され、ふもとの総門も大きなダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。現在は総門がほぼ修復され、本堂の解体・修復作業が進められている。
 
 レイラインとしての証明がなされれば、よみがえる専称寺の聖地性がさらに高まる。少なくともこの寺に関しては太陽の動きを計算に入れた配置、レイラインをPRできる。江戸時代、専称寺で学び、やがて幕末の大江戸で俳僧として鳴らした出羽出身の一具庵一具(1781~1853年)を調べている身としては、専称寺に光が当たるようになるのはやはりうれしい。

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