旧磐城平藩士で明治の文学史に名を刻む人物に、歌僧天田愚庵(1854~1904年)がいる。その愚庵が3歳年上の郷友、実業家江正敏(ごう・まさとし=1851~1900年)について小伝を書いた。
『いわき史料集成』第4冊(1990年刊)に、明治30(1897)年刊の「江正敏君伝」(写真版)が収録されている。解説を書いたいわき地域学會の先輩、小野一雄さんによると、正敏は戊辰戦争後、国内を遊歴し、やがて北海道へ渡って漁業経営者として成功する――。
その正敏と愚庵の少年時代からの交遊をはさみながら、それぞれの生涯を追った小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年=税抜き2400円)=写真=が、小野さんの縁で送られてきた。
タイトルの「坊主持ち」とは、「坊主と行き交ったら荷の持ち手を交替する一種の遊び」のことである。現代の小学生なら、じゃんけんに負けて仲間のランドセルを抱えて歩く、といったようなことだろう。正敏と愚庵の友情を象徴する言葉だ。
小説は不破俊輔、福島宜慶さんの共著になっている。2人は大学時代の友人で、福島さんの奥さんが正敏の血を引いているのだという。不破さんから恵贈にあずかった。
愚庵の生涯については、研究論考などがそろっているので既読感があったが、正敏については「江正敏君伝」があるのみ。「北海道で物書きをしている」不破さんが、福島さんと協力して正敏の内面を生き生きと造形した。当然のことながら北海道の文物、歴史なども丹念に描かれている。そこにも引かれた。
サケ漁業経営者として成功したものの、同業者やアイヌの反発もあって、あとで漁場を返還することになる――正敏の人生の曲折もまた、作品に陰影を与える。
蛇足ながら(いや、私にとっては本筋か)、正敏は磐城平の本町通りに店を構える「十一屋」と親戚だった。きのう(9月17日)のブログで、新島襄が幕末、十一屋に泊まった話を書いた。小説から十一屋についての新しい知見が得られた。
「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」。実はきのう、フェイスブックを介してせがれの同級生が「元武士の屋号らしいですね。士(さむらい)の字の崩しで十一」と、目から鱗(うろこ)のような分析をしてくれた。その通りだろう。
正敏が商売に興味を持ったのは、この十一屋の存在が大きい。「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」。それをステップにして、サケの漁場を持った。
くしくも、北海道を舞台にした小説から磐城平の十一屋に光があたった。愚庵を光源としながらも、正敏自身がその光を反射して十一屋を照らした、というべきだが、開拓移民として北海道に移住し、果敢に挑んで散った詩人猪狩満直(1898~1938年)とは別の、「北への視点」を持ちえたことを、いわきの人間として喜ばしく思う。
それと――。いわき市に、漢学者を父に持ち、英文学者として、また愚庵の研究者として、1世紀の生涯を歩んだ人がいる。中柴光泰さんだ。幻の著「江正敏君伝」の発掘・紹介に尽力した。先生の著書の一つに『愚庵文献散歩』(1980年刊)がある。あの世でも愚庵研究を続け、文献目録に喜々として『坊主持ちの旅』を書き加えることだろう。
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