いわき市平上平窪の「光の丘」に7月、野菜直売所&カフェ「晴レル家」がオープンした=写真。昼間、小川町に用事があった帰り、「晴レル家』に寄って一日10食・期間限定のマッサマンカレーを食べた。タイ式カレーとかで、ごはんにかけるよりはスープのようにスプーンで口に運ぶ方が食べやすかった。辛いだけでなく、甘みがあった。
「光の丘」には、東北・北海道地方で最も早く開設された肢体不自由児施設「福島整肢療護園」をはじめ、障がい児者のための施設がたくさんある。いわき福音協会が運営している。創立者は故大河内一郎医学博士(1905~85年)で、「ただ障がい児者の友として」をモットーに、聖書的な信仰に基づいた社会福祉事業を行っている。県立の養護学校もある。
「光の丘」へ足を運んだのは何年ぶりだろう。同協会の幹部になっていた同年代の友人を訪ねた記憶があるが、いつだったか定かではない。そのときよりもさらに施設の数が増えている。
大河内さんは仕事のかたわら、短歌を詠み、詩と小説を書いた。友人が、やはり詩を書いた。友人とは街なかの古本屋で出会った。22、3歳のころだ。友人は主治医の大河内さんを父のように慕い、文学の世界では同人として2人で詩誌を出す間柄だった。
昭和48年、脳こうそくに倒れて右半身が不随になる。そのうえ、翌年には大河内病院副院長の長男を、それから10日ほどあとには妻を失う。度重なる不幸から、詩集『雑木林』や『シオンの丘』が生まれた。『シオンの丘』の表紙絵には松田松雄の作品が使われた。
友人が仲介して、大河内さんからフランス料理店や日本料亭へ招待されたことがある。20代のなかごろだった。大河内さんはすでに杖をついていた。今では若気の至りと恐縮するしかないのだが、ずいぶん生意気な口をきいた。が、そんな若造の意見にも真剣なまなざしで聞き入っていた。そのときの、射抜くような目が今も忘れられない。
詩集『雑木林』を発行したのは昭和49(1974)年。翌年には小説集『蕗のとう』を出版する。いずれもその年の福島県文学賞準賞を受賞した。
先日、草野心平記念文学館の学芸員嬢からメールが入った。くだんの友人が大河内さんのところにあった資料を文学館に持って行って見せた。そのなかの1点、私のはがきを友人の許可を得て画像として送ってきた。
小説『蕗のとう』をいただいて、一気に読み終えたお礼のはがきだった。「『カデナ・デ・アモール』『林檎物語』、お話ばかりでなく文になったものを読むと、改めて戦争の悲惨さが身にしみます。戦争が罪なのは人を殺すことはもちろん、人間性をまっ殺してしまうところにあるかもしれない、そんな感想がわいてきます」
「『蕗のとう』は実に新鮮です。〈佐藤先生〉を境に、前半は肉体の躍動、後半は精神の葛藤が手にとるようにわかります。先生はほんとうに快活な悪童だったんですね!/自分を赤裸に表現しているのが、私にはとてもうれしかったです」。消印から、26歳の時のはがきと知った。悪童のエピソードとして知られているのは、山村暮鳥の教会を襲撃し、「土爆弾」(泥爆弾)を投げたことだ。
大河内さんは昭和60(1985)年5月、長いベッド療養生活の末に亡くなった。大河内さんの初志は今も仲間や後輩たちに引き継がれている。「晴レル家」は、
いわば“社員食堂”のようなものだ。「光の丘」の施設が増え、働く人が多くなった証拠だろう。大河内さんの詩集と小説集を読み返してみよう。
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