東日本大震災後は、カミサンの伯父の家を「ゲストハウス」のように使っている。
伯父が亡くなったあと、カミサンが管理者になった。震災前、知り合いに整骨院として貸していたこともある。時に、いわき地域学會の事務作業の場になる。一種の「シェアハウス」だ。
発災直後、いわき市に緊急支援に入った「シャプラニール=市民による海外協力の会」に宿舎として貸した。その後は、シャプラのいわき駐在員が借りて住んだ。スタッフが帰京した今は、いわき・相双地区の復興支援、あるいは取材・調査にやってくる知り合いの「ゲストハウス」にしている。彼らの経済的な負担を少しでも軽減したい――それだけのことだが。
8月は、月遅れ盆にフランス人の写真家デルフィーヌとイギリス人のジェシカが泊まった。ちょうど高1・中2の疑似孫と両親の4人が遊びに来たので、一緒に歓迎会を開いた。デルフィーヌとジェシカも台所に立った=写真。ジェシカが日本語を話し、疑似孫の母親が英語を話すので、言葉には不自由しなかった。
シャプラのスタッフが出張してくる。大学の若い研究員が定期的に来市する。彼女は借りていたアパートを引き払った。ならばホテル代わりに使っていいよ――となって、先日、初めて「ゲストハウス」に泊まった。
研究者とはわが家で晩酌をしながら雑談した。原発避難者の内面にかかわることとして、先祖、つまり死者との関係が大きい、という意味のことも話した。
伯父の家は伯父が亡くなったことで「死者のいる家」になった。伯父の家には仏壇があるが、「生者の家」であるわが家には仏壇もどきがあるだけだ。死者が生まれて初めて、家は家として落ち着くのではないか――私はそう思っている。
その論法で、原発事故で相双地区から追われた人々の心を想像すると――。現に住んでいた家族を先祖(死者)が守ってきた。家と土地を追われた今は、先祖(死者)に対するすまなさ、墓参りも埋葬もできないいらだち、悲しさに満ちているように思えてならない。
賠償金をいっぱいもらっているとかいないとかの話は表層的なことであって、死者とつながっていた暮らしが原発事故で断ち切られた、そのことがほんとうは一番つらいのではないか。
それを受けて、伯父の家が「ゲストハウス」として使われていることを、死者として生きる伯父は喜んでいるよ――カミサンが若い研究者にいった。哲学者の内山節さんではないが、死者を視野に入れた復興であり、支援であり、調査・取材であってほしいと思う。
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