92年前のきのう(9月1日)。帝大生の川端康成は本郷の下宿で大地震に遭遇した。被害は軽微だった。「裏庭に逃げ出して晝飯(ひるめし)を食ってゐると、汁の碗のなかへ、帝大の圖書館の灰が飛んで来た。大きい灰には、まだ活字が残ってゐた。私は直(す)ぐ近所の石濱金作君を誘ひ合せて、(略)上野公園から浅草へ行った」(『川端康成全集
第33巻』)
「十二階が焼けてゐた。私達は瓢箪(ひょうたん)池の岸の石に腰を下して池の水に足をひたし、ビスケットを齧りながら、火事を見物してゐた。(略)かういふことは一生に二度とないと思った私は、次の日からもビスケット袋と水瓶を携へて、毎日見物に歩いた」(同)。文字通り受け取れば「野次馬精神」おうせいな若者といったところだが、内心はそんな軽いものではなかったろう。
関東大震災でも東日本大震災でもそうだが、被害の規模は統計から想像できても、被害の実態は個々に当たらないとつかめない。個別・具体の事実が蓄積されて初めて全体が見えてくる。川端康成のような体験もまたその一部をなす。
関東大震災が起きたときのいわき地方はどうだったのか――個々の事実を編み込むことで見えてくるものがある。前にも折に触れて取り上げたことだが、再度つないでみる。
「この関東大震災は小名浜測候所では震度5の強震を記録した。いわき地方では死者1人、負傷者3、4人を出した、とされている」(『いわき市勿来地区
地域史2』)。その強い揺れを、四倉で体験した人間が『海トンボ自伝』(論創社、1983年)という本に書き残している。のちに東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる吉野熊吉だ。12歳だった。
「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」。
家や肉親を失った人たちはどうしたか。「常磐毎日新聞」の大正12年11月15、21、30日および12月11日付の記事によると、発災から2カ月半の時点で首都圏から石城郡(現いわき市のうち久之浜・大久地区をのぞく)に避難してきた被災者は1759人、うち373人は失職者だった。
発災から満1年――磐城侠政会が1日、性源寺で震災遭難者の追悼会を執り行った。来賓の刑務所長ほかが焼香した。追悼碑も建立された(大正13年9月2日付常磐毎日新聞)。侠政会とか刑務所長とかのことばが気になる。
3日付同新聞には「秋の世の盛観/夏井河上を/五彩に染めた流灯会/大震災の追悼に」の見出しが躍る=写真。1日夜、平鎌田の夏井川で関東大震火災遭難者追悼の流灯会が催された。「鎌田橋上は人の山を築き墜落しかねまじき雑踏にて警官は声を涸らして群衆を堰き止め青年団は提灯を振りかざして混雑を取繕った(以下略)」とある。
関東大震災は、いわき地方でも人ごとではなく、大きな悲しみとして受け止められていた。
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