2015年9月20日日曜日

「せどがろ」

 いわき市はおととい(9月18日)、10~11日の大雨で登山道の一部が損壊したため、「背戸峨廊(せどがろ)」の入山を制限した。当面、「トッカケの滝」から先には立ち入りができない。
 8月8日、東日本大震災以来4年5か月ぶりに「トッカケの滝」から奥の「三連の滝」までの立ち入り制限を解除したばかりだが、V字谷より厳しいH字谷(岩壁はほぼ垂直、そこに滝が連続するのでH字谷と、これは私の勝手な造語)ではやむをえない。
 
 と、それはしかし、「まくら」であって、「さわり」はやっと市が「背戸峨廊」に「せどがろ」と正しいルビ(読み仮名)を振るようになったこと、についてだ。それに連動して、夕刊紙にも「せどがろ」と正確な読み仮名が付されるようになった。

「背戸峨廊」の読みが「せとがろう」ではない理由を、本欄でも何回か言及した。その経緯を以前の文章を引用して記す。
 
 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。
 
 二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。夏井川の支流・江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は明かす。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せどのがろ)=裏の加路川」だった。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――命名までの経緯をみればそうなる。
 
 最初は「せどがろ」だったのが、いつから「せとがろう」と間違って呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は広辞苑でも「せど」であって、「せと」ではない。某放送協会のアナウンサーが「せとがろう」と誤読した、それが広まった――という説もあるが、むろん証拠はない。
 
 気がついたら、活字メディアも電波メディアも「せとがろう」の迷路に入り込んでいた。市民もそれに合わせて「せとがろう」と口にするようになった。誤称・誤記の共鳴現象が今も続いている。
 
 誤称・誤記を正すのもまたメディアだ。元新聞記者として、あらためて心平の「背戸峨廊」命名の経緯を調べ、いわき地域学會の市民講座と、会報「潮流」に発表した。当ブログで「せどがろ」に戻れという意味のことを書いたのが2008年。7年たってやっと観光情報を発信する総本山の市役所に、「せどがろ」の認識が広まってきたというべきか。
 
 先日、〈いわき市の観る!食べる!遊ぶ!買う!徹底ガイドブック〉と銘打った『まるごといわき本』(2015年3月刊)=写真=を手に入れた。「背戸峨廊」にはちゃんと「せどがろ」とルビが振られていた。あとは最も守旧的なメディアが誤記した古い自社記事をコピペせず、自分の頭で考えて「せどがろ」と言う(書く)か、どうかだ。

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