いわきとハワイは、今でこそハワイアンズとフラダンスで絆が生まれたが、歴史的にはこれといったつながりがあるわけではない、と思っていた。
「福島県ハワイ移民の父」といわれる三春町出身の獣医師がいた。勝沼富造(1863~1950年)。父親は元磐城平藩柔術師範だという。幕末、三春藩に“転職”し、養子に入って「勝沼」から「加藤木」に姓を変える。富造は三男で、三春で生まれた。やがて勝沼家を継ぐ。勝沼家の子孫はいわき市好間町に住む。
いわき市民にも勝沼富造の存在を知ってほしい、いわきとハワイの歴史的なつながりを知ってほしい――いわきハワイ交流会の前会長の要望もあって、いわき地域学會が先週の土曜日(9月19日)、「福島県移民の父・勝沼富造――父は旧磐城平藩安藤家家臣」と題する市民講座を開催した=写真。
ふだんは地域学會の会員が講師を務めるが、今回は外部講師の橋本捨五郎さん(郡山市)が担当した。橋本さんは富造と同じ三春町の出身で、歴史に名を残す地元出身の富造に興味を抱き、二度も渡米をして調査を重ねた。その成果を小説「マウナケアの雪」として出版した。
橋本さんの話を聞くまで、私は富造の存在を知らなかった。いや、知る機会があったのに、棚に上げておいた。
地域学會の若い仲間が10年近く前、安藤久人さんという人と共著のかたちで『ハワイ移民史――いわきからハワイへの架け橋』(いわきハワイ交流会発行、2006年)の出版にかかわった。そのなかに富造のことが書いてあった。
わが家にあるはずの『ハワイ移民史』が、3・11になだれを打った本のなかにまぎれ、どこに片づけたかわからなくなった。やむをえない、いつものことで、いわき総合図書館へ駆けつけて『ハワイ移民史』を借りた。
橋本さんの話を聞き、ネットで調べ、『ハワイ移民史』を読んでわかった富造の生涯だが、私が興味を持ったのは、彼がハワイで日本語新聞の発行にかかわったことだ。いつものぞく図書館の「新聞」コーナーに、田村紀雄著『海外の日本語メディア――変わりゆく日本町と日系人』(世界思想社、2008年刊)がある。それも借りて読んだ。なんと、勝沼富造について一項を設けていた。
富造はハワイに移る前、アメリカ本土で大学へ通い、獣医師の資格を取り、アメリカの市民権をとっている。モルモン教にも入信した。やがてハワイへ渡り、一時、移民官として日本人受け入れに奔走する。
「ハワイに渡った勝沼は、その獣医としての技術から、1924(大正13)年の“排日移民法”の発効まで出入管理部門の仕事に従事している。時系列からみて、勝沼が大塚静雄とともに、『やまと新聞』の発行を引き受けるのは、このハワイに到着して間もなくのことであったと考えられる」。大塚静雄については出身地などの記述があったかもしれないが、読み飛ばした。
「『やまと新聞』の経営に参加したあとも、かれはハワイ在住の日本人や二世のための各種の慈善団体、奨学金基金、ロータリークラブの責任者や主要なメンバー、さらには『日布時事』の副社長と、日系人コミュニティの中で働き、信望も厚かった」。ロータリアンということで、社会的な評価がわかる。
富造は、本職ではなかったが、コラムニストでもあった。「日布時事」に毎週土曜日、「日記の七徳」というコラムを持っていた。
著者の田村さんは「海外に渡った日本人のうち、文字の書ける者は、こぞって新聞社を興し、そこで記事をまとめ、大声で何らかのことを訴えずにはいられなかった」と書く。富造もその一人だが、書かれた中身は自分の足で書いた、事実に即したものだったという。「大声」ではなく「つぶやき」だったのかもしれない。
半月ほど前、職場を共にした後輩がわが家へ来た。今風にいえば、ブラジルからの「帰国子女」である私の知人に、ブラジルの話を聞くためだった。後輩の親類がブラジルへ渡った。日本語の新聞社で働いている人間もいるということだった。『海外の日本語メディア――変わりゆく日本町と日系人』を読むと、なにか得られるものがあるかもしれない。
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