2015年9月25日金曜日

あの日の「海の記憶」

 むし歯の子を連れて行き、やがて親もむし歯になって通うようになってから40年近く。かかりつけの歯科医院も今は息子さんの代になった。
 歯茎が化膿して痛くなり、治療を受けて3回目のきのう(9月24日)は、大先生が担当した。会うと、あの非常時の話になる。こちらは口を開けたままだから、「あー、あー」と言い、ときどきあごを動かして同意・了解のサインを出す。

 元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんとは、歯の治療とは別に、今年、何度かお会いした。5月27日夜、友人が事務局を務めるミニミニリレー講演会で、中里さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 2011年3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。その経過が『2011年3月11日~5月5日 いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』(2012年刊)に記されている。中里さんはそれに基づいて報告した。

 私が、歯科医師会の活動を知ったのは、たぶん震災の翌年。中里さんと街でバッタリ会ったときだ。「メディアは報じてなかったですね」「そうなんです」。講演で見た資料のひとつに「新聞・TVで報道されてこなかった」とあったのは、世間に歯科医師の活動が知られていない悔しさの表明――ということを前に書いた。

 講演前に中里さんから資料をいただき、後日、別の資料をいただくために自宅を訪れた。そのとき、いわき明星大復興事業センターに「震災アーカイブ室」がある、“未来へ伝える震災アーカイブはまどおりのきおく”として、震災後の浜通り各地の写真や資料を収集していることを伝えた。

 すると後日、資料をいただいたと、わが家にやって来る女性研究員が言っていた。彼女とは震災の年の12月、東京で知り合った。災害社会学が専門で、2012年9月に震災アーカイブ室の客員研究員になった。同じミニミニリレー講演で、中里さんのあとに彼女も話した。津波襲来の写真をアーカイブ室に提供した豊間の民宿「えびすや」鈴木利明さんも顔を出した。

 鈴木さんは中里さんともつながっている。中里さんが東京で講演をする、鈴木さんが写真を展示する、という関係でもある。

 その鈴木さんと久之浜の村岡誼さん(歯科医)、橋本隆子さんの3人が先日、平の界隈で「海の記憶展」を開いた。村岡さんは久之浜で被災した家の柱や庭木でつくった観音像を、橋本さんは同地の草花を再現した染め花を展示した。オープニングパーティー=写真=に出た話をすると、中里さんも展覧会を見に行く予定でいたと応じた。
 
 人にはそれぞれ固有のネットワークがある。中里さんには中里さんの、私には私の。江戸時代の俳諧ネットワークは士農工商という身分を超え、幕藩という地域のしばりを超えて、俳人と俳人が多重・多層につながっていた。
 
 それと同じで、3・11を記録し、伝えようとする人たちはいつの間にか多重・多層につながっていく。女性研究者がさまざまな人とつながり、鈴木さんが同様につながり、中里さんが最近、女性研究者とつながったように。
 
 歯の治療を終えたあと、アーカイブ室の話になった。彼女とは電話で話したという。彼女がわが家の「ゲストハウス」(故義伯父の家)に民泊する話をすると、今度一緒に会って話しましょう、という。3・11以後、つなぎ、つながることの大切さ・重さを強く感じている。

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