2017年11月30日木曜日

「ロートレックと巴里」展

 日曜日(11月26日)の午後遅く、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、平の街へ戻った。魚屋さんへ刺し身を買いに行くには少し時間がある。ではと、いわき市立美術館で企画展「ロートレックとベル・エポックの巴里(パリ)――1900年」を見た(12月17日まで)。 
 65歳以上の市内在住者は無料で観覧できる。そのうえ、今回はフラッシュや三脚を使わなければ写真撮影もOKだという。カメラを手に山野を巡るような感覚で作品を見ることができた。

 まずはチラシで企画展のテーマを頭に入れる。産業革命後、19世紀末のパリは急速に都市化が進む。万博が5回も開かれた。美術館や駅が建設され、地下鉄が開通する。活字メディアが普及し、美術界ではアール・ヌーボーが生まれ、ジャポニスムの影響を受けた作家たちが活躍を始める。1900年はその象徴のような年らしい。
 
 企画展の目玉はロートレックだが、グラフィックデザイナーのアルフォンス・ミュシャ(1860~1939年)に引かれた。というより、300点余のリトグラフ(石版画)と水彩画などを見たなかで、名前を知っているのはドガやマネ、ボナール、マチスを除いて、アール・ヌーボー系のミュシャだけだった。

 1900年は明治33年だ。日本では詩歌を中心とした文芸誌「明星」が創刊された年で、時をおかず、さし絵などにアール・ヌーボー風の作品が登場する。ジャポニスムの影響を受けた新しい装飾芸術が逆輸入されたわけだが、やがてそれを体現するのが「大正ロマン」の代表作家、日本のグラフィックデザイナーの草分け、竹久夢二だ。
 
 伝道師で詩人の山村暮鳥が磐城平に赴任するのは、それから12年後の大正元(1912)年秋。いわきの詩風土に種がまかれ、芽が出て花が開くのはそのあとだ。明治33(1900)年には、三野混沌はまだ6歳、妻になる若松せいは1歳、友人の猪狩満直は3歳だった。草野心平はまだ生まれていない。

 ミュシャの<「ルフェーブル=ユティル・ヴァニラ・ゴーフル」ラベル>を撮影する=写真。あとで調べたら、ルフェーブル=ユティルはビスケットの製造会社、ゴーフルはワッフルで、バニラ風味のワッフル?が入った箱型パッケージのラベルだった。

 1900年――。パリは享楽的な雰囲気にあふれていた。やがて、第一次世界大戦が始まる。「これまで経験したことのない恐ろしく悲惨な戦争体験をした人々は、平和で活気に満ちていたこの時代を懐かしみ、特別な思いで『ベル・エポック』(良き時代、美しき時代)と呼ぶ」ようになったという。日本も第一次世界大戦に参戦した。大正ロマン・昭和モダンのあとには、また軍靴の時代を迎える。

2017年11月29日水曜日

いわき学博士号授与式

 学ぶ楽しみと知る喜びはコインの表と裏のようなものだ。学ぶことで知り、知ることでさらに学びたくなるのが、ヒトのヒトたるゆえん。
 いわきの自然や歴史、文化などを幅広く出題し、成績優秀者に「いわき学博士号」を授与しよう――。多少の遊び心も含めてのことだが、いわき地域学會は一昨年(2015年)、「いわき学検定」を始めた。いわきを学ぶ楽しみ、いわきを知る喜び――がキャッチフレーズでもある。最初の年は4人、去年は5人が博士号を取得した。

 先の土曜日(11月25日)、いわき市生涯学習プラザで博士号授与式と記念講演=写真=が行われた。今年の博士号取得者は北村正嘉さん(74=小名浜)と石川桃三(とうぞう)さん(65=平)。2人のあいさつを聴いていて、感じ入ったことがある。

 北村さんは大阪府出身だ。奥さんがいわき出身で、その縁で近年、いわきの住人になった。石川さんは山形県鶴岡市の高校を卒業したあと、いわきの企業に就職した。いわきの方言でいう「きっつぁし」(挿し木=よそから来て住み着いた人)だ。私も15歳で阿武隈の山里から平へ移り住んだから、「きっつぁし」にはちがいない「きっつぁし」ゆえに、北村・石川さんは意識していわきを知ろうとしてきたのだろう。

 いわきで記者になったあと、こんなことを考えた。いわきの人間はいわきという風土の中で暮らしている。風土は人間と自然の関係を映し出す。いわきを知るには、いわきの人間と自然、それに歴史を知らなければいけない。
 
 人間にはふだん取材で会っている。自然を知るにはできるだけ多く里山や海へ出かける。歴史を知るには本を読むしかない。とにかくいわきを丸かじりしたい、というのが、若い「きっつぁし記者」の願望だった。

 やがて、いわき地域学會が誕生する。誘われて昭和59(1984)年の創立時に入会した。「地元学」とか「地域学」とかいう言葉が一般化する前のことだ。で、私は、日本の地域学・地元学の先駆けは、東日本ではいわき市、西日本では水俣市と思い定めている。

 石川さんのあいさつのなかで、「へぇー」と思ったことがある。出身地の鶴岡は庄内藩(鶴岡藩)で、酒井家9代・忠徳公が文化2(1805)年、藩校・致道館を創設する。その五男がいわきの湯長谷藩10代藩主内藤政民だ。政民は実父にならってというべきか、天保14(1843)年、湯長谷藩校・致道館を創設した。同じ藩校名としたところに政民の心がうかがえる。

 一人一人の学習には限界がある。が、それらを総合化すると、大きな知のエネルギーになる。「致道館」がいわきと鶴岡の結びつきを考える橋になった。こういう知の連鎖がおもしろい。

2017年11月28日火曜日

小流れのごみ除去

 日曜日は、夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。気分転換だけではない。野菜を収穫したときの充足感がたまらない。
 40歳になるころだが、人の話を聴いたり、資料を読んだりして記事を書く仕事に行き詰まりを感じていた。フワフワした傍観者でしかない自分。別の言葉でいえば、「存在の耐えられない軽さ」。これに支配されていた。
 
 そのころ、義父に頼んで隠居の管理人になり、庭で土いじりを始めた。ササダケが繁茂していた。それを掘り起こし、除去する。開墾と変わりがなかった。二本の足で大地と向き合っている、という実感が持てた。少しずつ「存在の耐えられない軽さ」が消えていった。

 そんなことを思い出させるひとコマ――。おととい(11月26日)午後、私が生ごみを埋め、三春ネギを収穫しているうちに、草むしりをしていたカミサンの姿が消えた。隠居に戻って一服しても帰って来ない。隠居の庭の下は東北電力の敷地になっている。小流れがある。それを手入れしているに違いない。行くと、そうだった=写真。

 小流れは幅が30センチ、深さが5センチほどだ。1年中涸れることがないが、落ち葉や枯れ枝に覆われていた。これではクレソンも消えてしまう。周りの地面も、水がしみてぐちゃぐちゃになっていた。

 震災前は、私がこれをやっていた。手入れすればするほどクレソンが繁茂した。石垣の下から直角に、道の下を通って川へと流れる。その直角の流れには今、ヨシが生えている。

 観光客は風景として自然を見るだけだが、そこで暮らしている住民は自然を利用し、自然に手を加えて山里の景観を維持してきた。昔、ドクダミとスギナを除去したように、小流れを侵食するヨシを刈り取らないと、クレソンは消滅する。今度、ヨシを除去して小流れに光が当たるようにしよう。

2017年11月27日月曜日

「メジがあります」

「カツオはありませんが、メジがあります」。きのう(11月26日)は日曜日。夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行った。11月も後半、カツオが入荷しないのはわかっている。代わりに、カツオが手に入る春まで、サンマやタコの刺し身を買う。そこへメジが入ったという。メジとはメジマグロ、本マグロ(クロマグロ)の子どもだ。例年より少し遅いようだ。
 拙ブログで確かめる。「メジマグロですが」といわれて、初めてメジ刺しを口にしたのは、2011年の震災前だった。マグロの赤い刺し身はほとんど食べない。が、カツ刺しがないならしかたないと、冬、たまたま入荷したピンク色の「メジ刺し」を口にした。“トロガツオ”に引けを取らないうまさだった。カツオの次にメジが好きになった。
 
 震災の年の魚事情がよみがえる。2010年までは、いわき市民は海の幸を遠くにいる親類・友人・知人に宅配便で送って喜ばれた。2011年はすっかり様子が変わった。受け取りを拒否されるときもあった。「宅配便で送るのもいいけど、先方にちゃんと確認してからにしてください」。魚屋さんは念を押さざるを得なかった。今はどうか。わが家でも震災前と同じように生サンマを宅配便で送っている。

 メジ刺しができるまでの間、前日に会った人の話をする。土曜日、いわき地域学會主催の「いわき学博士号授与式」と記念講演会が行われた。講演を聴きに来たAさんと名刺を交換した。毎週刺し身を買いに行く魚屋さんとは昵懇(じっこん)の間柄で、私が魚屋さんの常連だということも知っていた。「○×の刺し身を食べたら、×○の刺し身は買う気がしませんよ」。私の言葉に苦笑しつつ同意した。
 
 元市職員氏、いわき出身の官僚氏、Aさん……。会って話したことのある人が、実は同じ魚屋さんの刺し身を食べていると知ったときには驚いた。魚屋さんを軸にした“刺し身コミュニティ”というものが勝手に思い浮かんだ。
 
 “刺し身コミュニティ”は魚屋さんと客という個別的・水平的な結びつきだが、それぞれの家ではこれが垂直的になる。親―子―孫と同じ魚屋さんの刺し身を食べるわけだから、味の記憶も次世代に継承される。
 
 昨夕、刺し身のメジ=写真=をつつきながら晩酌を始めたところへ、せがれが小4の孫を連れてやって来た。カミサンが刺し身を勧めると、孫はわさび醤油につけたメジを一切れ口にした。「うまい!」。また一切れ口にして、「うまい!」。わさびに顔をしかめるわけでもない。

10歳で刺し身のうまさがわかるとは、さすがにいわきの子――といいたいところだが、飲兵衛の血も流れているにちがいない。大人になったときのことを想像して、少し複雑な気持ちになった。

2017年11月26日日曜日

ハクチョウ定着

 いわき市の夏井川では、上流から小川町・三島、平・中平窪、同・塩~中神谷の3カ所にハクチョウが飛来する。数の上では平窪がメーンだが、私は主に新川との合流地点(塩)で観察する。
 今年(2017年)、ハクチョウの第一陣がやって来たのは10月12日だった。定着するまでには時間がかかる。すぐ姿を消した。二度目は3週間あとだった。最近は夕方、だいたいハクチョウがいる。ざっと50羽といったところか。きのう(11月25日)もいた。

 小川では、1週間前の11月19日、初めてハクチョウの群れを見た=写真。夏井川を横断するように小川江筋の取水堰がある。その上流が越冬地だ。いよいよ定着しつつあるらしい。
 
 早朝や日中、川の上空を行き来するグループもいる。どこかの田んぼでえさをついばみ、夕方、川へ戻る――そんな生活パターンのようだ。
 
 10年以上前、北海道などでオオハクチョウの死骸から鳥インフルエンザが検出された。以来、給餌(きゅうじ)自粛が叫ばれ、いわきでも年々、ハクチョウの数を減らしている(日本野鳥の会いわき支部『いわき鳥類目録2015』)。

 ハクチョウが定着すればいちだんと寒気が厳しくなる。いわきの平地でも初氷の便りが届いた。夏井川渓谷の隠居では、ちょっと油断すると温水器が凍結・破損する。この秋初めて、19日に温水器の水抜きをした。漬物も、糠漬けから白菜漬けに切り替えなくては。

2017年11月25日土曜日

ネギ苗防寒

 昔野菜の「三春ネギ」を夏井川渓谷の隠居で栽培している。種をまく日が決まっている。10月10日。秋まきネギだ。なぜその日かはわからない。が、三春ネギを栽培している地元の人に教えられた。経験則なのだろう。同じように、平地の「いわき一本太ネギ」は4月10日が種まき日だ。
 今年(2017年)は10月10日に近い日曜日(10月8日)に三春ネギの種をまいた。20年も栽培していると、そのへんは自己流になる。ともかく10月10日前後に種をまくのだと、体が覚えている。いわき一本太ネギも、種屋から種を買って4月10日前後にまいた。で、収穫期に入った今は、週ごとに6~7本、交互に引っこ抜いてくる。

 10月。今までの経験を参考にして苗床に筋をつくり、三春ネギの種を点まき気味にして覆土した。それがよかったらしい。ほぼ8割は芽生えた。歩留まりがかなりいい、と思ったのだが……。モグラが地中にトンネルをつくったために苗床が一部盛り上がる。そばのキリの木の枯れ葉が苗床に降り注ぐ。それで、ネギ苗の3分の2が姿を消した。
 
 やはりネギの“赤ちゃん”だ。それなりに“保護”が必要らしい。冬に備えて苗床にもみがらをまき、半円の柵を利用して寒冷紗(かんれいしゃ)をかけた=写真。もみがらは霜柱が立たないように、寒冷紗は防寒と落ち葉防止のために。
 
 さて、今の「いわきネギ」ではなく、昔野菜の「三春ネギ」と「いわき一本太ネギ」に引かれるのは、香り・やわらかさ・甘みが強いからだ。ともに風折れしやすいので見た目は悪いが、刻めば問題はない。ふたつを週替わりで食べて感じたことだが、加熱後の甘みは三春ネギの方が濃い。いわき一本太ネギはさっぱりした甘み、というところ。なぜかジャガイモとネギの味噌汁にすると、違いが際立つ。

 師走になると、郡山市に本社のあるスーパーに「阿久津曲がりネギ」が並ぶ。三春ネギもこの系統だろう。スーパーへ行けば必ずネギをチェックする。冬はその楽しみが増す。前にニュースになったが、今年は初めて「天栄赤ネギ」を口にできるかもしれない。

2017年11月24日金曜日

神谷巡検

 いわき地域学會の第58回巡検がきのう(11月23日)、いわき市平中神谷(かべや)地内で行われた。テーマは「笠間藩神谷陣屋と戊辰(ぼしん)の役(えき)」。神谷公民館で座学を行ったあと、戊辰の役(戦争)関連の場所や碑などを見て回った。 
 戊辰戦争では、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に属して新政府軍と戦った。負け組だ。磐城平藩と夏井川をはさんで東隣に位置する神谷は、笠間藩の飛び地(分領)。陣屋(役所)が今の平六小のところにあった。笠間藩は新政府軍=勝ち組についた。
 
 川の向こうとこちらと、それまでうまくやっていたのに突然、敵対する関係になった。多勢に無勢。陣屋の笠間藩士は同盟軍の“暴談”に従うしかない。ひと山越えた四倉の薬王寺へ撤退し、援軍を待った――。そこから、磐城平城が焼け落ちて戦いが終わるまで、神谷および近辺で攻防戦が展開された。
 
 きのうは朝から雨、午後にはやむという予報通りの天気になった。9時半から2時間、公民館で地域学會の夏井芳徳副代表幹事が大須賀筠軒『磐城郡村誌』や笠間藩主の牧野貞寧(さだやす)家記「復古外記 平潟口戦記 第一」を教材に、神谷での戦いを紹介した。
 
 昼食をはさんで巡検に移り、まずは田んぼをはさんで公民館の向かいにある「為戊辰役各藩戦病歿者追福」碑を見た=写真。次は、陣屋のあった小学校を敷地外から眺め、出羽神社の山上駐車場から西方の丘を背にする一山寺(いっさんじ)を眺望した。
 
 神谷耕土を突っ切り、国道6号を横断して夏井川を眺めたあとは、近くの大円寺墓所内にある武藤甚左衛門の顕彰碑の前に立つ。武藤は戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった。耐えに耐えていくさに勝った――そんな「郷土開発の功労者」をたたえる碑だろう。
 
 磐城平藩関係者にはおもしろくない顕彰碑だが、私は神谷に住んでいる、夏井副代表幹事も神谷の住人だ、磐城平藩の側に立ったり、笠間藩神谷陣屋の側に立ったりと、なんとも複雑な気分になる。結果、戦争はいつも庶民には迷惑――そんな思いがふくらむ。
 
 歩いて神谷を巡ること、ざっと2時間。戊辰戦争以外にも出羽神社の梵天(ぼんでん)の前に立ったり、迷路のような集落内を歩いて「愛宕地蔵尊」の建物を見たりした。夏井川にはサケのやな場がある。ハクチョウも越冬する。半分川を覆う字名「川中島」には笠間藩神谷陣屋の処刑場があった。その下流も「調練場」。広い砂地が藩士の兵式調練場になっていて、そのまま字名として残ったという。
 
 ふだんなにげなく暮らしている世界が、歴史の光を当てると“物語”になって立ちのぼる。少なくとも「神谷の戊辰戦争」に関しては、知識の断片が動画のようにつながった。

2017年11月23日木曜日

広域避難先自治体

 原発が“不測の事態”に陥ったら、いわき市平・神谷の住民は茨城県南部の牛久市ないし福島県只見町に隣接する新潟県南魚沼市へ避難を――となる。
 先日(11月18日)、いわきの草野・神谷・夏井地区23行政区の原子力防災実動訓練が行われた。神谷では最寄りの一時集合場所である小学校の体育館へ集まったあと、避難先避難所を想定した錦町・南部アリーナへ大型バスで移動した。同じ市内なのに、バイパスを利用してもほぼ1時間かかった。

 南部アリーナの体育館には避難先自治体の要覧や観光パンフレットが用意されていた=写真。南方面はかすみがうら市と取手市、西方面は津南・湯沢・出雲崎町の資料を持ち帰った。

 あとで、いわき市のホームページで原子力災害時の広域避難先自治体を確かめる。平地区の場合、南方面は石岡・牛久・かすみがうら・つくば・つくばみらい・土浦・取手・守谷各市と阿見町、西方面は長岡・柏崎・見附・小千谷・十日町・魚沼・南魚沼各市と出雲崎・湯沢・津南各町だ。
 
 茨城県の南部は同じJR常磐線と常磐道・国道6号で結ばれている。なんとなくなじみがあるような、ないような……。新潟県は磐越道・国道49号でいわきとつながる新潟市以外、どこにどんな自治体があるのかよくわからない。まずは持ち帰った資料に目を通す。地図で確かめる。各自治体のホームページをのぞく。
 
 南魚沼市は、江戸時代の商人・随筆家鈴木牧之(1770~1842年)のふるさとだった。牧之は雪と雪の文化・民俗などを記した「北越雪譜」や、津南町の秋山郷を訪ねた「秋山紀行」などで知られる。湯沢町は言わずと知れた川端康成の「雪国」の舞台、スキー場でも有名な温泉地だ。この地方は豪雪地帯で、「魚沼のコシヒカリ」の産地でもある。出雲崎町は日本海に面した良寛のふるさと。

 牛久市には牛久大仏、小川芋銭記念館がある。芋銭がそうだったように、「橋のない川」の作家住井すゑも牛久沼のほとりに60年以上住んでいた。

 そのへんを手がかりに、これからときどきネットで旅してみよう。スーパーひたちに乗ったら、牛久駅周辺の景色をこの目に焼き付けよう。南魚沼市、牛久市。万一のときにはわれわれを受け入れてくれる、大切な自治体だ。

2017年11月22日水曜日

参加型市民文化

 土曜日(11月18日)に、いわき市文化センターでいわき地域学會の第332回市民講座が開かれた。いわき市立美術館長兼宇都宮美術館長の佐々木吉晴さんが、「参加型市民文化と社会への寄与――アメリカの美術館が生まれた背景」と題して話した=写真。
 アメリカの独立記念日は7月4日。それを祝って、アメリカ人4人が芸術の都・パリでワインを飲んでいるうちに、「アメリカにも美術館をつくろう」と意見が一致した。カーネギーやモルガンなどの財団にはたらきかけた結果、1872年、ニューヨークにメトロポリタン美術館が開館した。

 すると、ニューヨークのライバル都市・ボストンでも同じような動きがおきる。1876年7月4日、アメリカの独立100周年を記念してボストン美術館がオープンした。こちらは日本美術が充実している。大森貝塚を発見したモース、モースの友人のフェノロサ、ビゲローが日本で収集した美術作品などを譲渡・寄贈した。フェノロサの教え子の岡倉天心が在職したこともある。

 ニューヨーク近代美術館も、ワシントンのナショナル・ギャラリーも、富豪の夫人や大富豪・政治家といった人間が発案・協力してできた。

 アメリカ社会の根底にあるのは、「私たちの文化は私たちがつくる、そのためには寄付もする」という精神だという。税制がそれを支える。いわきにも「私たちの文化は私たちがつくる」という実例があったと、佐々木館長は言う。市立美術館設立の原動力になった市民団体「いわき市民ギャラリー」だ。
 
 佐々木館長の話を聴きながら思い出した。今年(2017年)の吉野せい賞準賞作品は、木田修作さんのノンフィクション「熱源――いわき市民ギャラリーとその時代」だった。佐々木館長が指摘した「参加型市民文化」の経緯を丹念に追っている。この作品は、来春には、ほかの入賞作品と共にいわきの同人誌「風舎」に掲載される。
 
 ついでながら――。市民文化を豊かなものにしているもう一つの側面、大富豪らの社会貢献=「寄付の経済学」が日本ではなかなか根づかない。
 
 私の感想だが、日本では逆に、市民に補助金を期待する風潮がある。補助金は行政からすると、ある意味では釣り人がまく“こませ”のようなものだ。永遠にもらえるわけがない。カネの切れ目が縁の切れ目、事業や組織の切れ目になる――そういう無残な例を見てきた。やせても枯れても自前でやる、それでもちょっと足りない、というときだけ補助金を利用する。そういう気概が必要だ。

2017年11月21日火曜日

庭に“川”をつくる

 10歳前後の少年のエネルギーは尽きることがない。スコップを使っても疲れを知らない。こちらは、すぐ息が切れる。おととい(11月19日)の日曜日、7回目の「10歳」から1を引く年になった。10歳の自分からはるかに遠くへ来た、いや年をとったものだ。
 日曜日の午後、シャプラニールのいわきツアーの一行を見送ったあと、夏井川渓谷の隠居へ直行した。カエデの紅葉目当ての行楽客がけっこういた。

 隠居の庭の菜園で土いじりをしたあと部屋で一服していると、突然、小学生の孫と友達の3人が現れた。やがて父親も友人と顔を出した。近くの山へ紅葉を見に来たついでに、日曜日にはジイバアがいる「山のおうち」(孫のことば)へと足を延ばしたのだろう。

 小学生たち(4年生2人と2年生1人)はたちまち、ばあば(カミサン)と一緒に庭の“川”の改修を始めた=写真。いや、ばあばが3人を水遊びに誘った。風呂場からホースを伸ばして水を流す。それが呼び水になった。

 孫が最初に“川”をつくったのは去年(2016年)の4月下旬。渓谷に春を告げるアカヤシオの花が咲いていたころだ。庭に峡谷ができ、急流にはプラモデルのガンダムが立った。崖の上には乾電池でつくった戦車。石でダムをつくり、支流をつくった。箱庭にしては川のスケールが大きい。

 1年後の4月。誕生日プレゼントをえさに、孫たちを「山のおうち」へ連れ出す。孫はすぐ“川”の改修を始めた。改修中に、土に埋まっていた戦車が出てきた。5月に入るとまた、上の孫を連れて「山のおうち」へ出かけた。孫はダム建設者になり、河川管理者になり、やがて湖や滝をつくる神のような存在になった。朝はぎこちなかったスコップの使い方が、午後にはサマになっていた。

 それから半年余り。上の孫の友達が加わったこともあって、すごい勢いで“川”の改修が進んだ。スコップ、移植ベラ、ねじり鎌、草取り爪。去年よりは今年、4月よりは5月、5月よりは11月と、道具の使い方も上達した。枯れ草に覆われていた元・池がたちまち前より広く大きな湖になる。支流ができる。滝をつくるのだけは止めた。庭を支える石垣が崩れかねない。

 水は井戸からのポンプアップで、電気代はふだん使っていないから基本料金のまま。掘り返した土も小石も庭に残る。いつかはそれらもまた庭を固める材料になる。山里だからこそできる子どもの砂遊び、水遊びだ。

 一方で、人のつきあいの妙も感じないではなかった。私とせがれの友人の父親とは、記者と市職員として取材し・される間柄だった。せがれたちは高校の同級生。孫は、幼稚園か保育所(上の孫は途中から保育所へ移った)で一緒になった。小学校は違っても、幼児からの大親友だ。

偶然だが、親・子・孫が三代続けて関係を持つのも、根っこの生えた人間が多い地方だからこそ。元市職員氏は、今はボランティアで“歌手”活動をしているらしい。

2017年11月20日月曜日

いわきリピーター

 シャプラニール=市民による海外協力の会主催のいわきツアー「みんなでいわき!2017」が土・日(11月18・19日)に行われた。今度で7回目だ。
 初日の夜、宿泊先でもある常磐の温泉旅館古滝屋で開かれた懇親会に夫婦で出席した=写真。ツアー参加者はスタッフを含めて17人。大半が顔見知り、いわきリピーターだった。2日目も昼前、四倉のワンダーファームで一行に合流し、「森のキッチン」で待望のランチを食べた。何度か行ったが、込んでいたり時間が早かったりして入ったことがなかった。

 リピーターの一人、Nさんと話した。いわきで会った人の話が年を追って穏やかになっているように感じられる、という。
 
 あれから6年8カ月がたつ。いわきの場合は沿岸部が大改造中だ。津波被災者はもちろん、原発避難中の人々もいわきに家を建てた、応急仮設住宅から復興公営住宅に入居した、といった話をよく聞く。それぞれが新しいステージに移った。過酷な体験も時間の経過とともにオブラートに包まれる。震災直後のままでは心が持たない、ということもあるだろう。
 
 逆に、Nさんのように何度も訪ねて来てくれることで、復興過程の「いわきの今」を目に焼き付けることができる。“現場”に立って考えることが大事だ、ということで一致した。
 
 リピーターと旧交を温めただけではない。いわきに住む双葉町のOさん、富岡町のTさんとも久しぶりに話した。古滝屋の若主人ともフェイスブックでは会っているが、顔を合わせるのは久しぶりだ。ワンダーファームでは、旧知のKさんが隣接する「JRとまとランド」に案内してくれた。Kさんとは震災前も前、ずいぶん前に会ったきりだ。Tさんからは町に帰還が進まない理由を聞いた。
 
 一行は2日目、ワンダーファームの前に小川のファーム白石でブロッコリーの収穫体験をした。旧知の若い生産者が「森のキッチン」で昼食中に顔を出した。ワンダーファームに野菜を納入しているのだという。彼は、初日に一行が昼食をとった平の華正楼の若いシェフともつながっている。最後は彼と私ら夫婦で一行を見送った。
 
 ツアーには参加できなかったが、いわきの人間と親戚のような交わりしている人がほかにもいる。シャプラが媒体になって市外の人々と市内の人々を結びつける。それぞれがまた自律的につながる。そういう地味だが確かな関係づくりこそがシャプラの活動の原点だろう。「来年は夏(野菜を収穫)に来てください」と、ファーム白石の若い生産者が提案した。大賛成だ。

2017年11月19日日曜日

原子力防災実動訓練

 帽子にマスク、マフラー、手袋。バッグには資料とカメラ――。6年8カ月前に東北地方太平洋沖地震が発生し、いわき市平から40キロ北の福島第一原発で事故が起きた。双葉郡ではその日に避難が始まった。私らも震災から4日目の昼、西へ一時避難をした。その記憶がよみがえる。
 きのう(11月18日)、平地区のうち草野・神谷・夏井全行政区を対象に、原子力防災実動訓練が行われた。
 
 朝8時、市貸与の防災ラジオが自動的にオンになり、FMいわきへの割り込み放送が始まる。
 
 訓練放送であることを強調したあと、「福島第二原発の事故が悪化し、本市まで放射性物質が飛散する可能性があることから、国から平地区のうち、草野・神谷・夏井の全23行政区に対して『屋内退避指示』が発令されました。不要な被曝を防ぐため、自宅などの建物の中に退避してください」。同じ内容の防災メールも届いた。
 
 1時間後にはさらに、国から空間線量率上昇に伴う「一時移転指示」が発令されたため、住民は一時集合場所へ集合を――という内容の割り込み放送が行われた。

 区役員8人に民生委員が加わり、①防災ラジオ放送を受けての情報伝達訓練(区長~役員~班長から地区民へという想定)②屋内退避訓練③一時集合場所への車による移動訓練④仮想避難所へのバスでの移動訓練――に取り組んだ。
 
 役員会の会場として利用している県営住宅集会所を一般の住宅に見立て、一時集合場所の小学校体育館へ移動するまでの待機時間を利用して、ミニ防災講話も開いた。いちおう私も「防災士」の資格を取った。『防災士教本』に基づいて、「災害と流言・風評」について話した。

 平成24(2012)年11月、福島県地域防災計画でいわき市が「UPZ(緊急時防護措置を準備する地域)」に指定された。同地域は原発からおおむね30キロ圏内で、冷温停止状態の2Fがこれに該当する。それに基づき、2年間、連絡網の確立と避難方法の確認のための図上訓練が行われた。

 市原子力災害広域避難計画によれば、わが区の避難先は、南が茨城県牛久市、西が新潟県南魚沼市。いわきの南部アリーナをその避難先に想定した実動訓練だった。アリーナの体育館へ入る前に、バスと避難者のスクリーニングが行われた=写真。1Fが事故をおこしたとき、避難先でスクリーニングを受けたことを思い出す。

 訓練の締めくくりに市長が講評した。「原子力災害はいつ自宅に戻れるかわからない。貴重品を持ち出したか」。資料とカメラはバッグに入れたが、印鑑や預金通帳、薬手帳、保険証などは忘れた。ぬかった。

2017年11月18日土曜日

きょうは行事が三つ

 1カ月余り前、シャプラニール=市民による海外協力の会に、カミサンがシャプラニールいわき連絡会としていくらか寄付をした。その領収書が届いた=写真。バングラデシュ洪水とロヒンギャ難民の緊急救援募金呼びかけに応じた。シャプラのいいところは、寄付金の使い道が透明で、寄付者に報告があることだ。会設立時からこれは変わっていない。 
 そのシャプラの7回目のいわきツアー「みんなでいわき!2017」が、きょう(11月18日)とあす、開かれる。

 シャプラは東日本大震災後、いわきで5年間、被災者支援活動を展開した。その経験を踏まえて、今回は震災後、交流が生まれた津波被災者(平薄磯)と原発避難者(双葉町)からこれまでの思いを、さらに農の現場(小川)で生産者から生の声を聞く。また、食(平、四倉)を通じていわきを感じてもらうという。泊まるのは常磐の温泉旅館。夜、そこへ合流する。
 
 その前にやることがある。朝8時から正午までは、行政区の役員が参加して原子力防災実動訓練が行われる。防災ラジオなどによる屋内退避指示を受けての連絡・退避訓練、避難指示を受けての一時避難場所への移動とバスによる仮想避難所(南部アリーナ)への移動・スクリーニングなど、こちらはスケジュールが決まっている。
 
 それが終わったら、いわき地域学會の市民講座(午後2時から市文化センター)が待っている。講師は地域学會幹事で、いわき市立美術館長兼宇都宮美術館長の佐々木吉晴さん。「参加型市民文化と社会への寄与――アメリカの美術館が生まれた背景」と題して話す。原田マハの小説『デトロイト美術館の奇跡』(新潮社、2016年)を読んだばかりなので、個人的にはいいタイミング、いいテーマになった。

 終わって午後4時からは、そのまま地域学會の役員会が開かれる。次の行事のための段取りを確認しないといけない。
 
 というわけで、日中、二つの行事をこなしたあと、カミサンと一緒に午後6時からの「みんなでいわき!2017」懇親会に顔を出す。「普通のいわき市民の暮らし」を知ってもらうために、原子力防災実動訓練の話でもしようか。

2017年11月17日金曜日

コミュニティツーリズム

 自称「いわき特派員」だ。半世紀前、15歳で夏井川の水源・阿武隈高地から太平洋岸のまちに流れ着いた。まだ「いわき市」は誕生していなかった。いわきで記者になって以来45年余、今もいわきウオッチングを続けている。その過程で得た仮の結論は、いわきは「3極3層のまち」、あるいは「9つの窓を持ったまち」だ。
 いわきは広すぎて「実像」が見えない。「行政圏」ではなく「生活圏」の連合体としてとらえるなら、実像に近づけるのではないか。その際、水環境=川=流域を切り口にするとわかりやすい。
 
 いわきは、夏井川(人口の極=平)・藤原川(同=小名浜)・鮫川(同=勿来)の3流域でできている(大久川流域も加えることができるが、人口の極があるわけではないので、ここでは夏井川流域プラスαとして扱う)。それぞれの流域にはハマ(沿岸域)・マチ(平地)・ヤマ(山間地)がある。
 
 ゆえに、3極3層、いわきは3つの「合州市」。いわきという四角いジグソーパズルのピースは3×3=9。9つの窓から見える風景は、左右では同じだが上下では異なる。典型が食文化と植生だ。
 
 そんなことを思い浮かべながら話を聴いた。おととい(11月15日)夜、いわき駅前のラトブ6階・いわき産業創造館で「まち歩きがまちを変える――コミュニティツーリズムの可能性を探る」が開かれた=写真。講師は堺市や大阪市でコミュニティツーリズム(「まち歩き」)を事業化した観光家陸奥賢(むつ・さとし)さん(39)。
 
 略してコミツーは「地元の人による地元の人のための観光」だという。地元の人がガイドし、地元の店でものを買ったり食べたりする。つまりは、地元にカネが落ちる仕組みのツアーだ。ガイドには「ヒストリーだけでなくライフも語ってもらう」ともいう。土地の歴史だけでなく、ガイド自身の人生も盛り込むことで、ツアー客はその土地の歴史・暮らしを具体的に受け止めることができる。
 
「大阪あそ歩(ぼ)」では、300のコースがマップ化されている。基本は2~3キロ・徒歩で2~3時間のコースだという。

 私が属しているいわき地域学會では年に1~2回、歴史や考古、自然などに触れる「巡検」を実施する。11月23日には、来年(2018年)の戊辰戦争150年を前に、「笠間藩神谷陣屋と戊辰の役」と題して、神谷公民館発着で陣屋跡や周辺の慰霊碑などを見て回る。こちらは同じ「まち歩き」でも「まな歩」に近い。

「あそ歩」は「ライトに、ゆるやかに」が基本だという。「おなはま学歩(まなぼ)」は、それにならった「やわらかい巡検」だろう。ま、楽しみながら地域の価値を再発見するという意味では、「あそ歩」と「学歩」、地域学會の「巡検」に違いはない。硬くやるか、軟らかくやるか、手法が違うだけだ。

 地域学會の巡検は今回で58回目だ。いわきを知るための単行本や報告書も出している。街なか・郊外を問わず、地質・考古・歴史・民俗・文学・その他で「あそ歩」のコースをデザイン・再構成するくらいの蓄積はある。

いわきのハマの人間はいわきのマチやヤマを知らない、ヤマの人間はマチやハマを知らない、マチの人間はヤマもハマも知らない――というのが実態だろう。インバウンド(訪日外国人旅行)は、いわきではむしろ外国人の前に市民のためにある。そのために有効なのが域内観光=コミツー、とみることもできる

2017年11月16日木曜日

電動剪定

 わが家(米屋の支店)の生け垣は、昔は義父が自宅(本店)から通って手入れをしていた。義父が亡くなってからは、たまにしか剪定しなくなった。主に常緑のマサキが植えてある。剪定が甘かった一本は、2階の物干し場の柵と同じ高さまで枝葉が伸びた。
 自分でいうのもなんだが、私は庭の草むしりや生け垣の剪定といった“庭仕事”には向かないようだ。「花より野菜」の実利派で、菜園の草むしり、土いじりなら喜んでやる。

 いつになっても腰が重いままなので、結局はカミサンが生け垣を剪定するようになる。今年(2017年)は近所の知り合いから“電動高枝バリカン”を借りてきた。面白いように“散髪”できる。2~3日、ヒマを見つけては電動バリカンを動かし続けた=写真。

 自分で庭を造るほどの父親の血を引いたのか、カミサンは庭師的な仕事が嫌いではないらしい。生け垣剪定の仕上げに、自分では手が届かないから1階の窓枠に立って屋根にかかったビワの枝葉をのこぎりで切ってほしい、という。それだけを手伝った。

 のこぎりを使うとすぐ息が切れる。ビワの太い枝を切りながら、思い浮かんだ文章がある。吉野せいの『洟をたらした神』の<かなしいやつ>だ。せいの夫・吉野義也(三野混沌)の盟友・猪狩満直が、菊竹山の夫婦の小屋を訪ねる。上がり端にあったのこぎりを手に取るなり、満直は大笑いする。「何だい。これで何が切れる!」。「ああ、息だけが切れんな」と、混沌かせいかはわからないが、即妙の答えが返ってくる。

 先日見た映画「洟をたらした神」では、せいが返答したことになっている。原文の流れからは、そうはとれない。1歳年上の満直を「みつなおさん」ときちんと呼んでいたせいが、「ああ、息だけが切れんな」というだろうか。せいなら「はい、息だけが切れます」、あるいは「ええ、息だけが切れんのよ」だろう。混沌が「あ・うん」の呼吸で満直の言葉に応じたのだ。

 11月に入ると、ミノウスバ(蓑薄翅)という、胴体が黒とオレンジ色、翅が半透明の小さなガが、マサキの枝先に産卵する。越冬した卵は、春の終わりごろに孵化して新芽を食害する。すでに産卵期は過ぎた。剪定が効いたのか、ざっと見たかぎりでは枝先にミノウスバの卵は見当たらない。

2017年11月15日水曜日

「いわきの図書館」展

 図書館から受けた恩恵は計り知れない。新聞記者時代、週に3回、1面下のコラムを担当したことがある。持ちネタなどすぐ尽きる。今ならインターネットで簡単に「キーワード検索」ができるが、1980~90年代は直接、本を手に取って確認するしかなかった。締め切り後の図書館通いがほぼ日課になった。今もその習慣が続く。
 新聞コラムを書いていたときもそうだが、私は「テーマ」ではなく「キーワード」を決めてブログを書く。そこからいろいろ妄想する。どこに着地するかはわからない。
 
 きょうの場合は「『いわきの図書館』展」だ。11月6日にラトブ5階のいわき市立総合図書館企画展示コーナーで「いわき総合図書館 開館10周年記念企画展『いわきの図書館』」が始まった=写真(企画展の資料)。それに触発された。
 
 始まりはいつも単純だ。飲み屋で仲間や知らない人と話しているうちに、これはと思った言葉(キーワード)に出合うことがある。割りばしの袋にそれをメモする。そうしないと、翌日には忘れている。現役のころは、キーワードを記した紙切れがシャツの胸ポケットに10~20枚は入っていた。使えずにすり切れてしまった紙切れがある。新聞記事ももちろん切り抜いておく。夕日や雨、風、鳥、花、キノコ、野菜などからも刺激を受ける。

 さて、総合図書館の前身はいわき市文化センターにあった中央図書館だ。図書館展の資料によると、平の図書館は昭和23(1948)年8月開館の「平市公民館図書部」が始まり。やがて“間借り図書館”から「いわき市立平図書館」に成長し、中央図書館を経て総合図書館になる。
 
 資料にはほかに、地区図書館や移動図書館の歴史、戦前のいわきの図書館、終戦1年後に開館した民間の「お城山の図書館『海外協会佑賢図書館』」を紹介している。総合型図書館構想が生まれた経緯、東日本大震災のときの様子にも触れた。佑賢図書館は知らなかった。
 
 自宅にいながらよく利用するのは、図書館のホームページだ。なかにいわきの新聞や地図、絵はがきなどを収めた「郷土資料のページ」がある。キーワード検索はできないが、新聞は年月日がわかれば一発で読める。これまでにずいぶん世話になった。大正の関東大震災・昭和の日中戦争といわき、といった切り口で調べ物をするのに有効だ。
 
 詩人の田村隆一は「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」と書いた。30年どころか、100年前の新聞は立派な史料になる。誤字・脱字も含めて。
 
 カツオの刺し身、じゃんがら念仏踊り、市立図書館――。これは、私のなかの「いわき三大自慢」だ。ホームページの地域新聞をキーワードで検索できるようになると、自慢のレベルはさらに上がる。

2017年11月14日火曜日

落ち葉掃き機関車

 日曜日(11月12日)の昼前は、快晴ながら風が強かった。それでも、夏井川渓谷には紅葉目当てのマイカーが続々とやって来た。JR磐越東線江田~川前駅間にある錦展望台周辺がビューポイントだ。地名で言うと、いわき市小川町上小川字牛小川(正確には、線路と道路をはさんで谷側は字川上になる)。
 すでにカエデ以外の広葉樹は紅葉のピークを過ぎ、カエデが紅葉の見ごろを迎えていた。錦展望台の近く、県道沿いにアマチュアカメラマンが狙うカエデ群がある。路上駐車が絶えなかった。

 正午まであと30分――というころ、たまたま隠居の前の道路に出たら、対岸の紅葉を眺める人たちとは別に、カメラを江田駅寄りのトンネルの方に向けている“撮り鉄”が何人かいた。そばの牛小川踏切の警報機が点滅している。正午近くを走る普通列車はない。観光客を乗せた臨時列車か?

“撮り鉄”を入れて列車を撮ろう、そう決めてカメラを向けていたら、やがて踏切の遮断桿(かん)が降り、ゆっくりとディーゼル機関車が現れた=写真。単独だ。拍子抜けした。「DE 10 1124」の何が“撮り鉄”を引きつけるのか。

 ネットで調べてわかった。「落ち葉掃き」用の機関車だった。日曜日の福島民報に、「県内の鉄道は11日、強風や落ち葉による列車の車輪の空転でダイヤが乱れた」という短報が載っていた。磐東線は大丈夫だったようだが、この1週間で渓谷の広葉樹はだいぶ葉を落とした。それが、風で線路に降り積もらないともかぎらない。で、落ち葉掃き機関車の出動となったのだろう。

 なにかあると、県内外から“撮り鉄”が現れる。“撮り鉄”はどうやって臨時列車の情報を得るのだろう。情報を共有できる撮り鉄コミュニティというものがあるのか。それはそれとして、「落ち葉掃き機関車」はどうやって落ち葉を掃くのか。機関車から空気を噴射する? “知り鉄”がいたら教えてほしい。

2017年11月13日月曜日

「真実」と「しんじつ」

 吉野せい賞はいわきローカルの文学賞だ。今年(2017年)は40回の節目の年。おととい(11月11日)、市立草野心平記念文学館で表彰式が行われた。
 昼前に文学館へ行き、表彰式のリハーサル=写真=を見たあと、受賞者と会食した。表彰式では、5人の選考委員を代表して選考結果を述べた。

 表彰式のあと、福島県立博物館長赤坂憲雄さんが「吉野せいの世界」と題して記念講演をした。作品集『洟をたらした神』の<あとがき>に、「貧乏百姓たちの生活の真実」と「底辺に生き抜いた人間のしんじつ」が出てくる。漢字の「真実」と平仮名の「しんじつ」の使い分けに触れながら、赤坂さんは持論を展開した。
 
 勝手に解釈するなら、「貧乏百姓たちの生活の真実」の先にはプロレタリア文学がある。しかし、せいは農民文学でもプロレタリア文学でもない「底辺で生き抜いた人間のしんじつ」の世界を描きたかったのではないか、ということらしい。
 
 せいは赤坂さんのいうように、「真実」と「しんじつ」を使い分けていたのだろうか。実際に『洟をたらした神』の作品に当たってみる。
 
 まず、「真実」。<鉛の旅>=わが子にむしゃぶりついて母親が大泣きする「実に生々しい真実の出征風景を見た」、<夢>=「夢の中での真実の形」、山村暮鳥と三野混沌(せいの夫・吉野義也)との交流は「真実の出来事ではあった」、<信といえるなら>=「遠くから力を貸してくれた一人一人の真実の友情」、「人間同士の心の奥に流れ合う凄まじい信頼」を指す「真実の果実の味」。
 
 <老いて>には「それも真実、これも真実、その何れにも私は湖面のようなしずけさで過ぎたいと切に希(ねが)う」とある。
 
「しんじつ」はどうか。<麦と松のツリーと>=「国を挙げての存亡の糧作りと噛みつかれると、戦果のでたらめ放送にもしんじつに耳を傾けて信じ込み、出征した身近な男たちの血みどろな戦場を想い、戦死者の俤(おもかげ)を胸に浮かべる」。「真剣に」とか「本気になって」とかの意味で「しんじつに」を使っている。大本営発表のラジオ放送を無批判に受け入れる人々――の姿が思い浮かぶ。

 <あとがき>の世界では「真実」と「しんじつ」を使い分けても、<本文>の世界では「真実」をそのまま多用している。『洟をたらした神』の世界が面白いのは、こうして新たな視点を得て何度も調べ直しができることだ。

2017年11月12日日曜日

「火山一代」

 戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけて、北海道・洞爺湖近くの村で大地が盛り上がり、「昭和新山」ができた。その形成過程を追った記録図「ミマツダイヤグラム」で知られる三松正夫は、延岡藩内藤家御用人の血筋――という話を書いたら、すぐ若い仲間から反応があった。
 志賀伝吉著『元文義民傳―磐城百姓騒動』(元文義民顕彰会、1976年)に、磐城平藩御勝手御用人三松金左衛門の記述があるという。「元文三年戊年(1738)正月、国家老内藤治部左衛門とその弟内藤舎人(とねり)、同じく中根喜左衛門、御用人三松金左衛門等相謀り、藩財政危機打開策として不時の御用金徴収を計画した」。結果、百姓たちの反発に遭い、大一揆が発生した。

 一揆を指導した百姓は死罪になった。御用金徴収を画策した側のひとり、三松金左衛門は「隠居」「役儀召上げ」になった、という。内藤家はこのあと、延岡へ移封される。

 正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父親もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長になった=正夫の養子・三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1994年2刷)。

 まずは『火山一代』を再読しないと。どこにあるかな、ここかな――珍しく本の壁から一発でホコリまみれの『火山一代』=写真=を取り出すことができた。「祖父は三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡(こおり)奉行、御用人」などを務めた、とある。

『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)によれば、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいる。家老は専務、組頭は常務、年寄は部長、用人は課長……と言えるなら、御用人は藩の幹部職員だろう。石高の上位3人は400石・三松仁衛門、300石・三松勝衛門、200石・三松幾衛門だ。その3人のいずれかが正夫の先祖かもしれない。
 
 正夫の祖父・百助は幕末・維新期、九州の幕領預かりという難題が起きたとき、郡奉行として同じ日向の隣藩と折衝する役目を担った。ネットでそんな論考に出合った。

とりあえず昭和新山と三松正夫、正夫の祖父と延岡藩、祖父の先祖と磐城平藩という流れでわかったことは、そんなところ。あとは、歴史が専門の先輩に聞こう。

2017年11月11日土曜日

夜間中学

 日没が早くなった。夕方、近所から帰ってきたカミサンがいう。「夕焼けがきれいだよ」。そのたびに2階から西の空を眺める。たまたま外出からの帰りが日没と重なるときがある。夏井川の堤防であれば、思わず車を止めて夕日に見入る=写真。
 若いときと違って、今は夕日に出合うとホッとする。きょうもなんとか無事に終わったか――。しかし、それから学校へ行く人たちがいる。

 11月初めのNHKクローズアップ現代+「ひらがなも書けない若者たち~見過ごされてきた“学びの貧困”」を見た。

 日本人なのに平仮名の書けない若者が増えている。「30%オフ」の意味がわからない。なぜ? いじめだけでなく、貧困、DV(ドメスティックバイオレンス)、病気の親の看護などで学校へ行か(け)なくなった人々がいるのだという。小・中学校の卒業証書はもらっても、実質的には教育を受けていないのと同じだ。

 私ら夫婦が少しかかわっている国際NGOにシャプラニール=市民による海外協力の会がある。バングラデシュやネパールなどの南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開している。東日本大震災では初めて国内緊急支援を手がけ、以後5年間、いわき市平で交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

 シャプラがバングラで最初に手がけたのは、「取り残された人々」への青空識字学級と、ジュート(黄麻=こうま)を使った手工芸品づくりだった。文字が読めないことで人々はさまざまな不利益を被る。手に職を持ち、読み書きができるようになることで暮らしが向上し、希望が生まれ、可能性が広がる。

 クロ現+を見ながら、シャプラの識字学級活動を思い浮かべた。と同時に、文部科学省の前事務次官前川喜平さんが今年(2017年)1月、次官を辞める1週間前に福島市で講演した内容も。前川さんは8月にも福島市で講演している。

 友人が前に1月の講演録のコピーを持ってきた。講演は福島に公立夜間中学をつくる会が主催した。教育行政に取り組んできた前川さんの真摯さが伝わってくる内容だった。夜間中学の重要性について語っていた。

 去年12月、「教育機会確保法」が成立した。義務教育から「取り残された人々」がいる。そのなかに、クロ現+が取り上げたような若者たちも入る。これまでは、中学校の卒業証書をもらった人は夜間中学に入れなかった。それが、この法律によって夜間中学で学べるようになった。少なくとも各県に1校は夜間中学を設置するように、という流れができた。

「個人の尊厳とか幸福を追求する権利とか、自分の人権を本当に意味あらしめる、発揮することができるためには、学習することが必要。学習することができなければ、自らの人権を守ることができない。私はすべての人権の不可欠の基礎として、教育を受ける権利・学ぶ権利があると思っています」

 それこそが「エンパワーメント」=人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力を湧きださせること(ウィキペディア)――の原点だろう。

 前川さんはこうもいっている。「教育を受ける権利には年齢制限はない」「教育を受ける権利を保障する義務にも年齢制限はない」「義務教育未修了者のために昼間授業をする義務教育学校があっても良い」。おおいに蒙(もう)がひらかれる講演録だった。

2017年11月10日金曜日

キノコ図鑑に誤記載、とか

 おととい(11月8日)のツチグリに続いて、またまたキノコの話で恐縮ですが――。
 夏井川渓谷の隠居の庭にキノコのなる木がある。樹種がわからない。半分立ち枯れているはずだ。生えるキノコはヒラタケ=写真=とアラゲキクラゲ。ヒラタケの傘の裏はきれいで、“虫こぶ”はなかった。

 9年前、いわきのヒラタケに「白こぶ病」がはやった。ウスヒラタケにも発生した。栽培ヒラタケもやられた。見た目が悪いから商品にはならない。

 キノコバエの一種・ナミトモナガキノコバエに運ばれて来た線虫がヒラタケのひだに付着する。すると、ヒラタケは虫こぶ(白こぶ)を形成し、毒素を出して、線虫を動けなくして食べてしまう――ということだった。九州・中国と西日本で発生していたのが、東進・北上した。
 
 キノコは成熟すると、胞子を空気中に飛ばす。街の公園に、住宅の庭に、木に、いつの間にかキノコが生えるのは、胞子が飛んで来て活着したからだろう。
 
 キノコの胞子は空を行き交う旅人。南からの台風が、西からの季節風が、東風が、北風が、海を、森を越えて胞子を運ぶ。今も目の前の空間に胞子が漂っている――そんなイメージを抱くのは、“キノコ病”にかかっているからだ。実際、スエヒロタケの胞子は鼻や気管支、肺などに入り込んでゼーゼーやたん・せきなどを引き起こす。呼吸器系の弱い人がやられやすいそうだ。
 
 小学館が発行したキノコ図鑑(『小学館のNEO きのこ』)に、食毒に関する致命的な間違いがあった。毒キノコのヒョウモンクロシメジを、監修者の指摘を受けながら担当編集者が見落とし、「食用」の誤記のまま印刷してしまった、とか。
 
 手元のキノコ図鑑に当たったが、ヒョウモンクロシメジはない。ネットで検索した。秋にブナ科の広葉樹林に発生する、少量でも嘔吐や下痢などの症状を引き起こす、ヨーロッパやアメリカでは有名な毒キノコ、とあった。日本では最近(1997年)発表されたばかりらしい。古い図鑑にないのは当然か。
 
 キノコは神出鬼没、ローカルなのにグローバル、美しいのに恐ろしい。森の奥で人知れず姿を現しては消える。未知のきのこがまだまだある。

ヒョウモンクロシメジは、いわきではどうか。すでに記録されたキノコか、未発見のキノコか。年末にいわきキノコ同好会の総会・懇親会が開かれるので、会長に聞いてみよう。いや、あいさつか勉強会のなかで話題にするかもしれない。

2017年11月9日木曜日

付き合いは浅かったが

 いわきの平地にも冬鳥のジョウビタキ=写真=が現れるようになった。おととい(11月7日)は立冬。ところが、日中、室温が25度近くまで上がった。暑い。はんてんを脱ぎ、茶の間のガラス戸を開けて座業を続けた。
 ほんの数日前、8人いる地区の区長(兼行政嘱託員)のうち、山の手のMさんが急逝した。連絡がきて7人で自宅を弔問し、翌・立冬の日、通夜に顔を出した。Mさんは今春、区長に就いたばかりだ。付き合いは浅かったが、なんとも重苦しい気分になった。

 現役のころ、私は“会社人間”だった。住んでいる地域へは食事と睡眠に帰るだけ。会社を辞めてからは、「会社」の字がひっくり返って“(地域)社会人間”になった。24時間コミュニティに属している。傍観者ではいられない。

 区の役員になり、地域で暮らす当事者になってみると、メディアが知り得るコミュニティの情報は表層も表層、「整理された情報」でしかないことがわかった。暮らしの現場ではいろいろなことが起きる。「ごみネットが破れた」「不法投棄がある」「道路に小さな穴があいた」……。“小事”のうちに動いておけば、“大事”には至らない、「小間使い」に徹するのだ――と自分に言い聞かせながら、日々を送るようになった。

 ほかの区長さんも思いは同じだろう。月に3回は行政嘱託員としての仕事がある。各戸配付あるいは回覧の行政資料を袋詰めにして、役員さんを介して隣組に届ける。ほかに、区対抗の球技大会や体育祭、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動、各種会議などがある。そのかなめになる人が突然、亡くなったのだ。行嘱の仕事は待ってくれない。代行をすぐ決める必要がある。とてもひとごととは思えなかった。

 同じころ、わが行政区でも区とつながりのある人が亡くなった。区の役員会は区内の県営住宅の集会所を借りて開く。近くに管理人さんが住んでいて、毎回、予約してカギを借りに行く。その管理人さんが急に彼岸へ渡った。近所に住む役員さんから電話をもらったときには、しばらく信じられなかった。

 管理人を引き継いで何年もたたない。こちらも付き合いは浅かったが、区の仕事を進めるうえでは欠かせない人だった。早急に後任を決めてもらわないと困る人が出てくる。

 Mさんも管理人さんもそれぞれ、コミュニティのなかで自分の役目を引き受けていた。多少の手当てはつくものの、基本はボランティアだ。一隅を照らす――そういう人たちがいるからこそ、コミュニティは、さざなみが立っても平穏でいられる。広い意味では、Mさんも管理人さんも連携してコミュニティを維持する仲間だった。ともに70代半ば。もっともっと生きていてほしかった。

2017年11月8日水曜日

ツチグリの涙

 ツチグリというキノコがある。阿武隈高地では、まだ地中に眠っている幼菌(方言でマメダンゴ)を採取して、たきこみご飯やみそ汁の具にする。
 その珍菌が、夏井川渓谷の隠居の庭に出る。手のひらを地面に押し当てる。一部硬いところがあれば、指で掘ってみる。小石でなければマメダンゴだ。地面からちょっと頭を出したばかりのマメダンゴと砂の区別がつけば、簡単にマメダンゴが採れる。ほかにも幼菌が眠っているはずだから、指で周りを掘ってみる。あっという間に20~30個は採れる。

 今年(2017年)は食べるだけでなく、地上に現れて星型に外皮が割れ、胞子を放出して役目を終えるまでを“観察”する、と決めた。9月10日までの経過は前に拙欄で書いた。それを再掲しながら、「その後」を付け加える。驚くことがあった。
                ☆
 6月25日。全面除染で砂浜のように白くなった地面から、茶色い頭の一部(マッチ棒の軸先大~人間の小指大)がのぞいていた。右手人さし指でグイッとやると、転がり出た。周囲の地中にも同じ球体の感触がある。そちらもまさぐると、マメダンゴが現れた。最大2センチほどの幼菌が20個ほど採れた。二つに割ると、全部白い。炊き込みご飯にして食べた。
               
【7月】2日=まんべんなく、ではなくて、スポット的にマメダンゴが頭を出す。その数ざっと50個。次の週は、変化なし。16日=白っぽい表面の色が茶黒くなる。23日=裂開を始めた個体がひとつ。

【8月】6日=表面が緑灰色に変化した個体があった。カビにやられたか。13日=全体を地上に現した個体がある。パチンコ玉大だ。24日=試しに大きいものを踏むと、「プシュッ」とかすかな音がして裂けた。

【9月】3日=表面にひびの入った個体がいくつか現れる。ひびは十字状、あるいはベンツのエンブレム似とさまざまだ。コロンと地上に現れた個体を二つに割ると、中がチョコレート色だった。胞子の放出まで時間の問題だ。10日=裂開が近そうな個体が増える。
                  
 隠居へ行くたびに写真を撮ってわかったのだが、ツチグリは、幼菌が地中で形成され始め、地上に出て裂開し、胞子を放出するまでに時間がかかる。収穫せずに放置しておくと、かなりの数の幼菌が地上に現れる。6月下旬~7月上旬の旬の時期に2~3回は試食しても大丈夫かもしれない。ただし、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような新しい残骸にはまだお目にかかっていない。
              ☆
 それから2週間後の9月24日。キノコ図鑑に出てくる、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような残骸=星型のツチグリになっていた。ツチグリの最終形だ。日曜日のたびに観察すること4カ月。いよいよ写真撮りも終わりと安堵しながら、胞子袋を指でチョンチョンやったら、穴の開いている頂端から、胞子ではなく透明な玉がひとつ飛び出した=写真。

 なんだ、なんだ、これは! 直径1ミリにも満たないくらいのガラス玉、いや水玉だ。前日は雨になった。頂端から雨が胞子袋の中にしみこみ、それが外から押されたはずみで玉(ぎょく)のごとくポロリと現れ、転げ落ちた。朝の光を浴びて輝いていた。これこそが甘露?

それはこうだよ――と、この不思議の理由、ツチグリの涙のワケを説明してくれる人がいるかいないか。いれば、話を聞きたい。

2017年11月7日火曜日

「裸足の女 吉野せい」

 日曜日(11月5日)午後2時から、草野心平記念文学館で吉野せい没後40年記念講演会が開かれた。講師は『裸足の女 吉野せい』と『土に書いた言葉 吉野せいアンソロジー』の著・編書がある山下多恵子さん=写真。「裸足の女 吉野せい」と題して話した。
 この日、わが地元ではごみを拾いながら夏井川の河川敷と堤防を行く「市民歩こう会」が開かれた。終了予定時間は午後2時半だったので、受講はあきらめていた。ところが、思ったより早くコトが進み、2時半解散予定が1時過ぎには終了した。わが家から文学館までは車でおよそ30分。2時からの講演には間に合う。帰宅して、急いで出かけた。

 山下さんは、せいにとって「書く」とはなんだったのか、せいのかたわらにはいわきの自然があった――と切り出し、せいの文章が菊竹山の自然を通して完成された、という意味のことを語った。

 結婚前のせいを、文学の師匠でもある山村暮鳥がブレーキをかけずにそのまま書かせたら――。山下さんは、作家網野菊と師匠の志賀直哉の例を挙げ、ひとかどの作家にはなっていただろうと述べた。私も同感だ。
 
 が、そうなっていたら私たちは「洟をたらした神」を読むことはできなかった。詩人で開拓小作農民の吉野義也(三野混沌)と結婚したからこそ、文学への情熱を秘めつつ、土を相手に暮らし、混沌との「愛と苦闘」を生きた結果、「洟をたらした神」が生まれた。
 
 山下さんの語りは、NHKのラジオ深夜便のアナウンサーのように落ち着いていて、心地よかった。よどみがない。せいの話し方も無駄がない。そのまま文章になるような語りだったことを思い出した。
 
 講演が終わって、質問タイムに入った。司会を担当した文学館の旧知の学芸員氏がいきなり振ってきた。しかたない。A3判1枚のレジュメの中にある原稿のタイトル「菊竹山記①梨花」にからめて質問した。

「この原稿コピーは雑誌用だと思うが、同じ『菊竹山記』というタイトルで、せいは昭和45年11月から地元の新聞・いわき民報に断続的に随筆を書いている。『あんたは書かねばならない』と草野心平にいわれるのは混沌の三回忌の席上。せいは心平にいわれる前からすでに書き始めていた、自分の意志で。そのへんのことをどう思うか」

 ま、結論が出る問題ではないが、山下さんもせいのなかにみずからの意志をかぎ取っているようだったので、安心した。講演会は、12月24日まで開かれている「没後40年記念吉野せい展」の関連企画として開かれた。何人か知り合いが来ていた。年のせいか、こういう機会がないとなかなか会えない、そんな人が増えてきた。

2017年11月6日月曜日

ごみを拾いながら河川敷を歩く

 週末イベントが続く。気になるのは天気。土曜日(11月4日)は夕方、雨になった。曇っても雨は降らない、日曜日は晴れる――と思っていたのに、シトシト雨だ。
 予報の網の目は粗い。「二度あることは三度ある」で、3週連続雨の日曜日になったら目も当てられない。「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」に続いて、「神谷市民歩こう会」が中止になってしまう。

 日曜日は朝4時過ぎに起きた。雨はやんでいる。予定通り歩こう会を実施できる。ほっとする。

 コースは神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロだ。河川敷と堤防を、ごみを拾いながら歩き、河口の沢帯(ざわみき)公園で昼食・自由時間のあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開いて解散となる。いわき市青少年育成市民会議神谷支部の地域部会が主催する。

 この何年か、歩こう会と吉野せい賞表彰式がダブっていて、朝、歩こう会であいさつをすると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。せいの命日は11月4日。その直近の11月の日曜日に表彰式が行われる。ところが、今年(2017年)はどういうわけか、表彰式が11月11日、しかも土曜日にずれ込んだ。

 久しぶりに歩こう会の全行程に参加した。といっても歩いて、ではない。車でコースを巡りながら、写真を撮る。歩こう会の一行=写真=だけではなく、野鳥を、川を。ふるさとの大滝根山から発する夏井川とも久しぶりに“対話”した。

 国道6号バイパスの夏井川橋あたりが、旧神谷村・草野村の境になっている。朝9時すぎに出発し、車で先回りすると、偶然、旧神谷村側でコハクチョウが6羽、夏井川の上空を旋回していた。着水態勢だった。

 夏井川橋よりひとつ海側にある六十枚橋の先では、旧草野村の住民が出て堤防の草刈りをしていた。環境保全という点では同じ目的の行事だ。歩こう会の何人かは草刈り組から飲み物をもらったそうだ。結果的に河川愛護のコラボレーションができた。
 
 わが生活圏だけでも、夏井川はいろんな役目を引き受けている。ハクチョウ・カモの越冬地、サケのヤナ場、ミサゴやウの狩り場。川砂供給地。なによりかにより、水道水は夏井川~小川江筋から引いて浄水したものだ。
 
 一番の課題は、河口が砂ですぐ閉塞することだろう。先日の台風21号では大水が砂を流して太平洋と直結した。バックホーを使って、二つ目の河口もつくられた。それが今はふさがり、太平洋と直結していた河口も、薄い膜のような水が流れているだけ。
 
 大正11(1922)年に刊行された『石城郡誌』に、夏井川河口の様子が記されている。「時に奇と称すべきは旱天(かんてん)の水害なり(略)、川水漸(ようや)く涸(か)れ其(そ)の勢ひ海沙(かいさ)を排寡(はいか)する能(あた)はず。河口塞(ふさ)がつて通せず」。100年前も住民は河口閉塞問題に悩んでいた。
 
 身近な夏井川のちょっと厄介な個性だが、それも含めて歩こう会参加者が少しでも川を意識するようになればいい――そんなことを感じさせるイベントだった。

2017年11月5日日曜日

ブラタモリ/昭和新山

 ゆうべ(11月4日)のブラタモリは北海道・洞爺湖だった。洞爺湖のほかに、周辺の火山活動の痕跡を見た。昭和新山まで足を延ばすはず――そう踏んでいたら、ふもとから眺める=写真=だけでなく、所有者の案内で山にも登った。昭和新山の成長記録を残した初代の所有者は、先祖が延岡藩士だった。ということは、さらに前の先祖はいわきに住んでいたかもしれない。
 23年前の平成6(1994)年秋、昭和新山を訪ねた。小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の団体旅行だった。当時、勤務するいわき民報に書いた昭和新山についての文章を再構成してみる。

 ――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。レストハウスで昼食後、自由時間になって赤茶色の溶岩の山を見続けた。
 
 昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけての2年間。当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」で、レストハウス裏手の「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で買った「めくり絵」をパラパラやると、山の成長過程がわかる。
 
 三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)も記念館で買った。ブラタモリで山登りの案内をした人が著者だ。なかにこうある。「多くの鳴動につれ、無数の亀裂と断層を伴い、極めて緩やかとはいえ刻々進む大地の隆起、四カ月も続いた噴火、一カ年がかりで押し上がって来た溶岩塔の出現等々が続き」、のちに昭和新山と命名された。
 
 やがて正夫は、新山を守るために元麦畑を買い取った。三朗さんは大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと、正夫と出会い、火山への思いを知って三松家を継いだ。昭和新山も引き継いだ。
 
 正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。
 
 延岡、内藤家御用人とくれば、内藤の殿様が延岡へ転封される前の磐城平に先祖がいたはず。『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)に当たると、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいた。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない――。
 
 国土地理院の地図では、昭和新山は標高398メートルと、生まれたときより低くなっている。ウィキペディアにあるが、温度低下や浸蝕などで少しずつ縮んでいるそうだ。磐城平藩時代の三松姓の調べは、新山と対面したときから全く進んでいない。宿題のひとつだ。

2017年11月4日土曜日

肝心の曲がりネギが……

 きのう(11月3日)、午前10~11時の夏井川渓谷。10時に隠居に着いて、少し土いじりをして、11時に帰路に就いた。たった1時間の滞在だったが――。
 快晴、無風。紅葉目当てのマイカー客が次々にやって来る=写真。わが隠居の隣に「錦展望台」がある。車のドアを開け閉めする音、人の声が届く。
 
 震災前、土地の所有者が廃屋を解体し、谷側の杉林を伐採して、展望台にした。春はアカヤシオの花の、秋は紅葉のビューポイントになった。メディアの取材ポイントでもある。前日、NHKが紅葉の様子を伝えた。その影響もあるだろう。この秋一番のにぎわいになった。
 
 日曜日(11月5日)には「神谷市民歩こう会」があって、渓谷へ出かけられない。で、きのう朝、二つ用事をつくって、隠居へ出かけた。一つは、小野町のNさんがJR磐越東線の江田駅前で直売所を開いていて、曲がりネギを売っているはず。それを買うこと。もう一つは、隠居の庭にある三春ネギの苗床に寒冷紗をかけること。

 山地系の三春ネギと、平地系のいわき一本太ネギはともに昔野菜だ。甘みがあってやわらかい。今年は三春ネギのほかに、いわき一本太ネギも栽培した。

 Nさんの直売所は確かにオープンしていた。母親と奥さんがいた。Nさんは会社を休めなかったという。「ネギは?」「ないんです、とろろ(長芋)だけです」。ネギがないって、どういうこと? 奥さんが説明してくれた。

 ネギ栽培の主力はNさんの両親だったのだろう。去年(2016年)は秋にお父さんが入院したとかで、直売所も1回か2回オープンしただけだった。今年(2017年)は母親が腰を痛めて、直売所に出すほどの量を栽培できなかったらしい。栽培者が年をとれば、いずれそうなる。Nさんも会社勤めでなかなか手が回らなかったのか。

 以前にNさんから聞いた話では、「阿久津曲がりネギ」として知られる郡山市阿久津町からネギ苗を調達する。小野町といっても西郊、阿久津町まで車で30分もかからないところに住む。曲がりネギの評判が広がり、小野町まで栽培圏が拡大した、ということなのだろう。今年は、N家の曲がりネギはあきらめるしかない。

2017年11月3日金曜日

まだ蚊がいる

 きのう(11月2日)の夕焼けはきれいだった。赤く染まった雲に飛行機雲が5本、夕日が沈んだ山から放射状に延びていた。よほど人を感動させたらしい。直後からツイッターやフェイスブックに続々と写真がアップされた。私も写真は撮ったが……。ブログに載せるのはやめた。
 11月も、はや3日。きょうは文化の日だ。3連休最後の日曜日には、地元のイベント「神谷市民歩こう会」がある。8人いる区長の充て職で主催する側になった。夏井川渓谷の隠居へは行けない。ということで、きょう、これから渓谷へ出かける。

 震災後、渓谷の行楽客が激減した。盛時には及ばないが、5年目あたりから紅葉目当ての客が戻りつつある、という実感は持てるようになった。
 
 JR磐越東線江田駅前には直売所ができる。そのひとつ、田村郡小野町の農業Nさんが長芋と曲がりネギを露地に並べて販売する。もしかしたら、きょう、今シーズン初めて店を出すかもしれない。店開きしていたら、ネギを一抱えほど買う。これも「三春ネギ」で、甘くてやわらかい。わが家の庭に土をかぶせて寝かせながら使う。
 
 渓谷へは火曜日(10月30日)にも行った。台風22号の影響はほとんどなかった。途中、小川・三島の夏井川にマガモが羽を休めていた=写真。雄が7羽(うち幼鳥2羽?)、メスが1羽。この秋の初ガモだった。
 
 カモ類はハクチョウと一緒に越冬することが多い。三島にもいずれハクチョウが渡ってくるだろう。

 下流の中神谷にハクチョウの第一陣が現れたのは10月12日。成鳥4羽、体が灰色っぽい幼鳥3羽の計7羽だったが、すぐ姿を消した。定着するまでには時間がかかる。11月に入っても、現れたり消えたりを繰り返すかもしれない。二度目はその1日夕方、新川との合流点で見た。そこが越冬地。

 温暖化の影響だろうか。11月に入っても蚊が飛び回っている。わが家で蚊に刺された最初と最後の日を記録している。これまでは平均して、最初が5月20日、最後が10月20日だった。去年(2016年)は10月27日に刺された。今年は10月28日にチクリとやられた。記録を更新中だ。
 
 まさか11月にやられることはないと思っていたのだが、蚊がいる以上は刺された最後の日が11月にずれ込む可能性も出てきた。あと4日たつと立冬だ。そんな時期に蚊の話をするようになるとは。

2017年11月2日木曜日

フォーク歌手遠藤賢司

 先日、新聞でフォーク歌手遠藤賢司さんが亡くなったことを知った。70歳だった。
 45年以上前になる。いわきの平市民会館でフォークコンサートが開かれたとき、遠藤さんがトリを務めた。「フォークの波 vol2 遠藤賢司と共に」で、「アンドレ・カンドレ」から本名に変わったばかりの井上陽水さん、忌野清志郎さんがリーダーのRCサクセション、女性ペアのジャネッツが出演した。遠藤さん24歳、陽水さん23歳、清志郎さん20歳、ジャネッツは19歳だった。

 記憶を頼りに、図書館のホームページで電子化されたいわき民報をチェックする。昭和46(1971)年9月下旬に始まった水曜日の「オー!ヤング」欄が目当てだ。翌47年2~3月にコンサート出演者を紹介する記事が連載されていた=写真。

「オー!ヤング」欄は、上司に誘われて酒を飲んでいるうちに、直訴して私がつくった。「老人新聞じゃないですか、若者が読めるコーナーをつくらせてください」「じゃあ、やれ」。小回りの利く地域紙の特性で、手を挙げた人間がやりたいことをやれる。入社半年で警察回りなどをしながら、「オー!ヤング」の“ひとり編集長”になった。

 高校生を中心に、イラストや詩、散文などが寄せられた。「オー!ヤング」と連動する企画も入った。フォークコンサートがそうだった。

「フォークの波 vol2 遠藤賢司と共に」の記事を読んで、記憶の輪郭が鮮明になった。出演者とは同年代だ。単なる新聞社の「名義後援」ではない。コンサートの手伝いもした。

 遠藤さんは♪君も猫もみんなみんな/好きだよカレーライスが……の「カレーライス」ですでに知られていた。知名度からして当然、メーンだ。でも、その後は一気に陽水さんが、清志郎さんが浮上した。

 主催者は小名浜出身の個人興行主だった。これからこんな歌で再デビューすると、待ち合わせ場所の草野美術ホールで陽水さんのアルバム「断絶」のデモテープを聴いたことがある。♪夜中にデイトした……(断絶)、♪父は今年二月で……(人生が二度あれば)、♪都会では自殺する……(傘がない)。同世代の若者の心情がストレートに表現されていた。

 遠藤さんの死に暗澹(あんたん)としながらも、低迷から浮上へと転じつつあった前座・陽水さんの透明なハイトーンが脳裏に響いた。