2018年5月24日木曜日

昭和8年のヨーヨー広告

 このところ、図書館のホームページを開いて戦前の地域紙・常磐毎日新聞を読んでいる。昭和8(1933)年3月26日付の1面にヨーヨーの広告が載っていた=写真。
 地元・平町(現いわき市平)の「佐藤挽物製作所」がつくって、特約玩具店を通じて売り出した。「御待兼(おまちかね)の世界的流行玩具の王様 ヨーヨー が出来ました 各特約店にてお求め下さい」「安値 一個五銭 十銭 ニ十銭」「當工場製品にはヨーヨーの遊び方説明書進呈します」とある。

「世界的流行」はともかく、昭和8年には国内でヨーヨーが大流行する。平でつくられたヨーヨーは3種類。食べ物でいえば、「特上・上・並」といったところか。

 吉野せいの作品「洟をたらした神」は、昭和5年夏、数え年6歳の「ノボル」が「小松の中枝」にできたこぶを利用してヨーヨーをつくる話だ。そのころのヨーヨーの値段は「二銭」。アニメ映画『この世界の片隅に』には、同8年、「ヨーヨーは十銭……」という話が出てくる。

 2銭は昭和恐慌(昭和5~6年)=デフレ不況の影響かと考えたが、「特上・上・並」の「並」というとらえ方も必要のようだ。

 で、今度「もしや」と思ったのは、伝説のこけし工人・佐藤誠と佐藤挽物製作所の関係だ。製作所を経営していたのは彼ではなかったか。
 
 彼の長男、故光良さんは小説を書いた。次男誠孝さんは子どもたちとともにこけしづくりを継承している。久しぶりに光良さんの作品集『父のこけし』(七月堂、1978年)を読み返した。
 
 それによると、誠は伊達郡五十沢村(現伊達市)の生まれで、宮城県白石市で弥治郎系こけし工人の修業をしたあと、平で独立・開業した。
 
「やがて工場が軌道にのるにつれて、父はこけしから離れていく。工人から経営者に変わっていった」。それが、太平洋戦争が始まると「玩具製造を中止させられた。木馬、歩行器、木製の汽車などを作っていた工場は、かわりに日本陸海軍の指定工場とされて、軍属の監視のもとで軍需品の製造にあたるようになる」

 工人から経営者になった、玩具を製造していた、という流れからみても、ヨーヨーをつくって販売した佐藤挽物製作所は誠が社長だったのではないか。このころが、数奇な人生を生きたこけし工人の、最も幸せな時期だったのではないか――古新聞を介して、またひとつ宿題が生まれた。

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