きのう(5月4日)少し触れた冊子『自立・循環の村へ とわだリターンプロジェクトの取り組み』=写真=は、その10年間の成果をまとめたものだ。
平成23年3月には、冊子の中身がほぼ完成していた。ところが3月11日、東日本大震災と、それに伴う原発事故がおきる。たちまち発行の停止、上下2巻を予定していた冊子の変更などを余儀なくされた。
冊子に差し込まれた同プロジェクト代表のあいさつ文には、そのへんの事情を踏まえた無念さがにじむ。「まさに今必要とされる循環型社会へのパラダイムシフト(価値観の転換)の手段は、奥山にひっそりと、たくましく存在し続けた集落の生活手法からヒントを得ることが出来る」はずだったが……。
戸渡は、事故を起こした1Fから25キロのところにある。いわき市内では川内村に接する川前の荻~志田名などとともに、3月15日、市から自主避難を要請された。
「脱原発」の暮らしをデザインしようとしていたところが、逆に原発の事故によって暮らし自体が立ち行かなくなる、この文明の矛盾。そんな視点で、3・11前の戸渡の様子を、冊子に引用されている草野心平の詩・散文からうかがうと――。
詩「大字上小川」。心平の生家のあたりは、「昔は十六七軒の百姓部落。/静脈のやうに部落を流れる小川にはぎぎょや山女魚(やまめ)もたくさんいた。戸渡あたりから鹿が丸太でかつがれてきた。」。「ぎぎょ」は魚のギバチのこと。夏井川沿いの平野部の村にさえヤマメがいた。戸渡はそれこそ、山奥の自然豊かなワンダーランドだった。
随筆「兄民平のこと」。「祖父母の養子草野宇多吉一家は、私の家より十六キロ山奥に住んでいた。『風の又三郎』の分校があった。先生は一人、生徒は六年生まで全部で七人位だった」。<「風の又三郎」の分校>とは、いかにも宮沢賢治を高く評価してきた詩人らしい表現だ。
同「背戸峨廊(せどがろ)の秋」。「一日で二箭山に登るよりも、もっと足の達者な人は背戸峨廊から内倉に出て更に三里の山奥の戸渡にはいり、十軒程のその小部落のどこかに一ト晩泊めてもらって翌朝、天然記念物のモリアオガエルのいる川内村へ、ここも山道三里だが、降ってゆくのも面白い。そこから七里をバスで常磐線の富岡へ出れば、何処へでも帰ってゆける」
――十数年ぶりに利用した国道399号から少し寄り道して分校の前に立ちながら、私はあれこれ思い出していた。山の音楽会と遊学の森の散策・座談会・牧牛共立社の調査同行……。旧知のプロジェクトメンバーから、震災の翌年発行された冊子『自立・循環の村へ』をちょうだいしたことも。それできょう(5月5日)は、6年遅れながら冊子を紹介してみた。
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