いわき芸術文化交流館「アリオス」が4月8日、1次オープンをした。「こけら落とし」はいわき市民のための能を知る会主催による「アリオス完成披露能公演」である。この半年の間に能・狂言関係書をあさるようになったので、「『百読』は一見にしかず」と春の嵐のなかを出かけた。
なぜ「能」か。自分でも不思議なのだが、自然と人間の関係について思いを巡らし、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年)について調べてきたら、そこへたどりついたというしかない。
一具は出羽の国で生まれ、磐城平山崎の専称寺で修行した旧浄土宗名越派の坊さんだ。幕末、江戸で屈指の俳諧宗匠となった。
一具が仲間の俳人の句集に書き与えた序文に「瑜俰(ゆか)論に腰舟とあり…」というくだりがある。「瑜俰」は「ヨーガ」だと分かるが、「腰舟」は何のことやら――。一具を調べるようになって二十数年たっても疑問符はついたまま。
そこへ、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に市立いわき総合図書館がオープンしたから、本の森に分け入って調べを再開した。「腰舟」はどうやら仏陀の奇跡(超能力?)の一つらしい、ということが分かってきた。そうして仏教関係の本を読みあさっているうちに、「能」と出合ったのだった。
この世にあるものはすべて仏性がある、すなわち「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」(法華経「薬草喩品」)の思想が、世阿弥らが活躍した室町時代のころから民衆に受け入れられるようになった、と本は言う。現代の自然環境問題を考えるときにも、この「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」の考えは無視できない。いや、この思想を捨ててきたからこそ環境問題は深刻になってきた、といってもいい。(宮沢賢治をこの視点から論じてもいいように思うが、今は深入りしない)
で、この「薬草喩品」を取り上げた能がある。「芭蕉」だ。一具・自然環境―仏教―能・狂言ときて、金春禅竹作とされる「芭蕉」を知った。知ったのはいいが、能を生で見たことがない。そこへ、アリオス完成披露の能公演があると聞いて飛びついた、というわけだ。
前置きが長くなった。
公演の演目は「羽衣」(能)・「舟渡婿」(狂言)・「小鍛冶」(能)の三つ。素朴に感じたままを記すと、次のようになる。
① 重力を感じさせない歩き方(「羽衣」)=無重力空間の宇宙遊歩のような(重いものを軽く、軽いものを重く?)
② 現代にも通じる掛け合い(「舟渡婿」)=落語やかつてのドリフターズのコントを連想する(現代の笑いは狂言からきている?)
③ 序破急の見事さ(「小鍛冶」)=ラベルの「ボレロ」を思い出す(能をそう評する人もいる)
「アリオス」は完成間際に一度、館長らの案内で見て回ったことがある。それから半年余。フリーになって、たまたま1次オープンの日に能公演を見ることができた。
ここは「アリオス」に敬意を表して、ちゃんとネクタイをしめていこう――そんな気にさせるだけの期待の高さがあった。やはり、「『百読』は一見にしかず」。着飾った中高年の人たちを見るのも久しぶりだった。
旧平市民会館の緞帳(棟方志功原作)が縮小された陶板となってロビーに飾られてある=写真。平市民会館時代に、コンサートなどで訪れたことがある人には懐かしい。記憶を大事にする「アリオス」、その意志の表れと勝手に受け止めることにした。
なぜ「能」か。自分でも不思議なのだが、自然と人間の関係について思いを巡らし、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年)について調べてきたら、そこへたどりついたというしかない。
一具は出羽の国で生まれ、磐城平山崎の専称寺で修行した旧浄土宗名越派の坊さんだ。幕末、江戸で屈指の俳諧宗匠となった。
一具が仲間の俳人の句集に書き与えた序文に「瑜俰(ゆか)論に腰舟とあり…」というくだりがある。「瑜俰」は「ヨーガ」だと分かるが、「腰舟」は何のことやら――。一具を調べるようになって二十数年たっても疑問符はついたまま。
そこへ、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に市立いわき総合図書館がオープンしたから、本の森に分け入って調べを再開した。「腰舟」はどうやら仏陀の奇跡(超能力?)の一つらしい、ということが分かってきた。そうして仏教関係の本を読みあさっているうちに、「能」と出合ったのだった。
この世にあるものはすべて仏性がある、すなわち「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」(法華経「薬草喩品」)の思想が、世阿弥らが活躍した室町時代のころから民衆に受け入れられるようになった、と本は言う。現代の自然環境問題を考えるときにも、この「山川草木悉皆成仏/草木国土悉皆成仏」の考えは無視できない。いや、この思想を捨ててきたからこそ環境問題は深刻になってきた、といってもいい。(宮沢賢治をこの視点から論じてもいいように思うが、今は深入りしない)
で、この「薬草喩品」を取り上げた能がある。「芭蕉」だ。一具・自然環境―仏教―能・狂言ときて、金春禅竹作とされる「芭蕉」を知った。知ったのはいいが、能を生で見たことがない。そこへ、アリオス完成披露の能公演があると聞いて飛びついた、というわけだ。
前置きが長くなった。
公演の演目は「羽衣」(能)・「舟渡婿」(狂言)・「小鍛冶」(能)の三つ。素朴に感じたままを記すと、次のようになる。
① 重力を感じさせない歩き方(「羽衣」)=無重力空間の宇宙遊歩のような(重いものを軽く、軽いものを重く?)
② 現代にも通じる掛け合い(「舟渡婿」)=落語やかつてのドリフターズのコントを連想する(現代の笑いは狂言からきている?)
③ 序破急の見事さ(「小鍛冶」)=ラベルの「ボレロ」を思い出す(能をそう評する人もいる)
「アリオス」は完成間際に一度、館長らの案内で見て回ったことがある。それから半年余。フリーになって、たまたま1次オープンの日に能公演を見ることができた。
ここは「アリオス」に敬意を表して、ちゃんとネクタイをしめていこう――そんな気にさせるだけの期待の高さがあった。やはり、「『百読』は一見にしかず」。着飾った中高年の人たちを見るのも久しぶりだった。
旧平市民会館の緞帳(棟方志功原作)が縮小された陶板となってロビーに飾られてある=写真。平市民会館時代に、コンサートなどで訪れたことがある人には懐かしい。記憶を大事にする「アリオス」、その意志の表れと勝手に受け止めることにした。
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